とある小説家の災難

 ――かくして、憐れその身に呪われた宿命と業を背負いながら、

 以蔵は今日も世の為、人の為、情けの為。

 その手で人を斬り続けるのであった。


 碧天に消ゆ【了】


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 かれこれもう30年以上は愛用している万年筆で、

 原稿用紙の最後に自身のサインを入れると、

 トダ サブロウは満足した溜め息をゆっくりと吐いた。


 この作品はいい出来だ、とトダは思った。


 あのアオキ賞を取った時の作品、『燃える刀』をも越えて、

 トダ サブロウのさらなる傑作として世に広まるだろう、と。


 トダ サブロウは、名の知れた小説家である。


 時代小説を得意とし、重厚でいぶし銀な文体と

 男の浪漫やその心情をありありと、そして生き生きと描き、

 多くの名誉ある賞とともに、その独創性ある創作を讃えられてきた。


 トダは、おそらく500枚はあろうかという原稿の束をコーヒーテーブルに置いて、

 その右端にあるコールベルをリーンとひと鳴らしして、ソファに身体を沈めた。


 ヒュミドールから、コレクションしている葉巻を1本取り出し、

 その先にカッターをあてがった。


 シガーライターを手に取ったその時、この書斎唯一の出入口である

 アンティーク調の木製ペアドアの向こうから、

 遠慮がちなノックの音が3回ほどして、


「先生、よろしいでしょうか」


 ベテラン営業マンのように、へりくだった男の声が聞こえてきた。


「かまわん。入りたまえ」


 トダが気怠く横柄な口調でそう言うと、声の主はそそくさとドアを開けて、

 シガーの独特な香りと白煙が漂う書斎へと滑り込むように入ってきた。


 トダの完成原稿を客室で待っていた、コウエイ出版の編集者シマダである。


「先生、お原稿の方は……」


 蝿が足を擦り合わせるように揉み手をしながら、シマダは言った。


「うむ、それである」


 右手に持った葉巻で原稿を指し示すと、傑作を書き上げた自信から、

 ソファの背もたれに身を預けて、ふんぞり返ってみせた。


「ありがとうございます、ありがとうございます。少し拝読いたしましても……?」


「ああ、かまわんよ。ゆっくりしていきなさい」


 トダは口から鼻から、蒸気機関車のように煙を吐いている。


 シマダはクセの強い葉巻の臭いが苦手であったが、

 そんなことは臆面にも出さずトダの真正面に着席すると、

 お多福面のような、いつもと変わらない笑顔で原稿を確認し始めた。


 トダとシマダは作家と編集者として、かれこれ20年ほどの付き合いになる。


 シマダは、最大手と名高いコウエイ出版の中でも指折りの編集者であり、

 多くの人気作を世に出し続けている業界のトップランカーなのだ。


 トダは、そんなシマダを一流の編集者に育てたのは自分であると豪語している。


 その真偽はどうあれ、気難しいことで有名なトダが

 唯一耳を貸す余地を持っているのがシマダ、その人なのである。


 シマダの徹底した平身低頭な態度もトダの高慢な性格を熟知してのものであり、

 本来なら作家の元まで原稿を取りにくる必要などないにも関わらず、

 わざわざ足を運んでいるのは、大作家先生に対してのご機嫌取りに他ならない。


 そんな風に処世術に長けたシマダが、

 いつ、どんな作家から不遜な態度や物言いをされても

 お面でも被っているかのように1ミリ足りとも表情を崩さないシマダが今、

 顔中に脂汗を滲ませて、苦虫を噛み潰したような顔をして原稿を読んでいる。


 その様子は、厚顔無恥なトダでもさすがに気に掛けるほどであった。


「おい、シマダくん。なんだ、具合でも悪いのか」


「あ、いえいえ、大丈夫です。大丈夫なんですが、いや、そのぉ……」


 これもまた珍しいほど歯切れの悪い返事が返ってきた。


「なんだ、なにか間違いでもあったかね。遠慮なく言いなさい」


 トダの言葉を額面通りに聞くのは、得策ではない。


 遠慮なく言いなさい、と言われてその通りに意見した人間は、

 容赦なく担当から外されたあと、根回しをされ、

 業界から締めだしを食らって仕事をやりにくくされてきた。


 出版関係者の中では有名な話であるし、勿論シマダも重々承知している。


 しかし、それでもこれは看過できる事ではなかった。


 シマダは意を決すると、口を開いた。


「先生、申し訳ございませんが、こちらの原稿を持ち帰ることは出来かねます」


「なにぃ……?」


 トダの表情が途端に一変し、眉間に皺を寄せながら大きく見開かれた目は

 みるみる充血し、鼻の穴は大きく膨らんで、

 口は、牙でも生えてきそうなほどに横に広がり噛み締められている。


 まさに般若のそれである。


「どういうことだぁ?」


 鬼の形相で唸るトダに負けじと、努めて冷静にシマダは理由を告げた。


「こちらは、ヒサカタ エンゾウ先生の作品と酷似しているからです」


 知った名前と、あまりにも意外な理由だったことに驚いて、

 噴火寸前だったトダの怒りは一瞬にして消え去った。


「ヒサカタくんがかい? なんだい、彼も最近こんな小説を書いていたのか」


 ヒサカタ エンゾウは、言わずと知れた著名な大作家であると同時に、

 トダとは作家デビューを共にした仲であり、プライベートでの親交も厚い。


「先生……、いやぁ、先生……」


 シマダは緊張で乾いてしまったらしい唇を舐めてから苦笑気味に、


「まさかお忘れではないでしょう。

 ヒサカタ先生がホシカワ ケイジ文学新人賞を受賞された、あの御作ですよ」


「なんだって? 『過眠した朝』と同じだって言うのか!?

 馬鹿な! あれは私も読んだが、ストーリーも何もかも別物だぞ」


「……先生、確か『過眠した朝』をお持ちでしたよね?」


「勿論だ! 本人からサインも貰っているんだから!」


 トダはスックと立ち上がり、10は並んでいる本棚のひとつから

 少し褪せた本を取り出した。


 出版されたのが40年近く前であることからすると、

 本の状態はかなり良いものと言えるだろう。


 どこか似たようなシーンでもあっただろうか、と

 ヒサカタのサインが入った遊び紙を捲り、

 小説を斜め読みしたトダは、自分の目を疑った。


 舞台となる時代や、登場人物の細かな設定の違いこそあれど、

 大筋のストーリーは、さきほど書き終えた自分の作品と

 まず同じと言って差し支えがないものだったのだ。


 『過眠した朝』は、ヒサカタ エンゾウのデビュー作である。


 弁護士である主人公が、不可解な殺人事件と友人の死の真相を

 単身究明していくハードボイルド小説。


 のはずだった。


 しかし、今トダが手に、目に、しているこの『過眠した朝』では、

 表の顔は弁護士、裏の稼業は暗殺屋である主人公が

 世に潜む巨悪との闘いを繰り広げている。


 トダは、身体全部の熱が頭に上がって手足や内臓が冷えていくような、

 これまで経験したことのない気持ち悪さを味わった。


「ストーリーが、変わっている……?

 いや、私が記憶違いをしているのか……?」


 トダは本を足元にバサリと落とすと、酔っ払ったような足取りで歩き出し、

 倒れ込むようにソファに座った。


「……すまない。どうやら、私も耄碌もうろくしたようだ……」


 頭を抱えながら、トダはシマダに謝罪した。


 トダは非常に落ち込んでいた。


 プライドの高さゆえ高慢なトダであるが、それは自分の能力に対して

 絶対的な自信があったからなのだ。


 現に今までトダは、大きな間違いをしたことがなかった。


 常に指摘する側であったのだ。


 日本を代表する小説家であり、友人でもあるヒサカタのデビュー作。


 それを完全な勘違いで、あわや盗作しそうになったのだ。


 トダのプライドは、ズダズダに引き裂かれていた。


「……先生」


 沈黙を守っていたシマダが口を開いた。


「先生は、多くの作品を知り、その手でも作り出してこられたのです。

 今回は偶然、構想が記憶の中で混ざってしまっただけのことですよ」


「…………」


「いつでもお待ちしていますから、新作、よろしくお願いします」


 シマダは頭を深々と下げて言った。


「シマダくん……」


 こんな失態を犯した自分をまだ信用してくれるのかと、トダは胸を熱くした。


「お願いするのはこちらの方だ……。是非とも書かせてもらいたい」


 落ち込んでばかりもいられない。


 トダは作家としてのプライドを奮い立たせ、崩れかけた心を建て直した。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 シマダが帰ってゆき、夜が更け朝が近づいても、トダは書斎で構想を練った。


 そしてトダ サブロウの新境地となるような、ストーリーを思いついた。


 舞台は19世紀末の英国、後世に名を残す名探偵バーロック・ゴウルズは

 実はとんでもないポンコツだった――。

 彼の名声の裏には、一人の少女がいたのだ。

 バーロックと歴史から消えた少女が、英国に渦巻く陰謀に挑む。


 アクションシーンをふんだんに盛り込んで、コミカルな掛け合いも多くした。


 一日で新しい物語を綴り終えると、

 トダは家政婦に原稿を出版社へと郵送するよう頼んで、

 仮眠をとることにした。


 遠くで電話の呼び鈴が鳴っている夢を見て、目を醒ました。


 ちょうど、「旦那様、シマダ様からお電話です」と家政婦が寝室を尋ねてきた。


 慌てて電話に出ると、

「どうだった?」興奮気味に聞いた。


 シマダの嬉しそうな声が聞こえてくる、はずだった。


 しかし返ってきたのは、今まで聞いたこともないほどに落胆したシマダの声だった。


「先生、これは……、これではフルイ カズタカ先生の『百瀬ももせみたび』そのものですよ」


 受話器を掴んだまま、トダは憤死しそうになった。


 『百瀬みたび』と言えば、シリーズものの人気SFサスペンスだ。


 超能力を持つ主人公たちが、その能力ゆえに苦悩しながらも助け合い、

 時に対立しながら、能力者の滅亡を目論む組織に立ち向かっていく。


 もちろんトダは、そんな話は書いていない。


 書いてはいないが、とにかく平謝りして電話を切ると、

 つんのめりながら書斎へ走った。


 本棚から『百瀬みたび』を手に取ると、一心不乱に読んだ。


 震える手でページを捲っていたトダは、脱力してその場に座り込んでしまった。


「やっぱり、ストーリーが変わっているんじゃないか……」


 SFサスペンスが、痛快アクション小説に姿を変えていた。


 前回もそうだが、やはり記憶違いなどではない。


 フルイ カズタカ氏と言えば、SF御三家と評されている大人物であるし、

 トダの憧れの作家でもあった。


 『百瀬みたび』自体も、発表から40年経った今尚、

 さかんにメディアミックスが行われるほどの人気作品である。


 その大筋を記憶違いするなど、さすがに有り得ない。


 だがそのストーリーが綴られた現物が、確かに目の前にある。


 自分はついに脳を患ったのか、とトダは涙した。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 トダは自身の病気を疑い悩んだが、

 日常生活における常識や、人生における今までの出来事、

 毎日の献立から学生時代に修めた学問の知識までしっかりと記憶していた。


 ただ小説の内容になると、途端に混乱しているようだった。


 ここ最近、少し根を詰めすぎたせいで疲れているのかもしれない。


 気分転換に、常連である小料理屋の女将を訪ねた。


 女将は年齢こそまだ40そこそこと若いが、

 商売柄か機転がきき、そして何より小説が好きな人間であった。


「あらァ、先生。お久しぶりです」


 小料理屋の女将は、明るくトダを迎えた。


 食事と酒を楽しんだあと、女将に聞いた。


 ヒサカタ エンゾウの『過眠した朝』と

 フルイ カズタカの『百瀬みたび』について。


 トダが記憶していたはずのストーリーを話してみるが、

 2つともそんな話じゃなかった、とスッパリ否定された。


 だが、その他の小説を幾つか挙げて内容を確認すると、

 トダの記憶と合致したのだった。


 やはりおかしい。


 トダは不安を抱きながら、次に書こうと練っていた小説の筋を女将に聞かせてみた。


「やだわ、先生ったら、それじゃあまるっきりカワハラ タツノリの『南国』じゃない」


 被ってきたカンカン帽も忘れ、着物の前をはだけさせ、

 ラクダ色の股引を露出させながら、トダは自宅へと疾走した。


 荒いままの息も、流れる汗も、気にもとめず

 トダは『南国』を読み始めた。


「まるで違う。何もかも違ってしまっている」


 呟いて、尻餅をついた。


 ――県境の小さな遊歩道を抜けると南国であった。


 国内どころか海外でも知られていて、

 子供でも知っているほど有名すぎるあの書き出しが、ない。


 トダはいよいよ恐ろしさを覚え始めた。


 これは耄碌もうろくなんてものじゃあない。


 世に知られた名作傑作の数々が、まるで別作品にすげ変わっていっているのだ。


 しかも、トダが書く物語に。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それからトダは、認識した事実を否定したいがために、

 寝食も忘れ書いて書いて書き続けた。


 もう仕事のことも、自身の地位や名声なども知ったことではなかった。


 この訳の分からない状態から一刻も早く抜け出したい。


 それだけだった。


 しかしその思いも虚しく、多くの人の心を打ち、大作名作と呼ばれ称賛されたそれらは、

 トダが物語を書けば書くだけ、まるきり別物に変わっていった。


 オオバヤシ タキギによる、労働者の苦悩を描いた有名作『マグロ漁船』は

 寒村の漁師と町の有志の一人娘とが身分違いの恋に落ちる、恋愛小説に。


 トネガワ サンポ著、反戦小説、グロテスクと物議を醸した『長虫』は

 ヘビと会話ができる少年と、その仲間たちとの絆を描く青春小説に。


 ノーベル賞ノミネートで世間を騒がせた人気作家、クラハシ カルキの代表作

 『デンマークの森』は、サラリーマンの悲哀と苦悩を描いた経済小説に。


 そうしてどんどんと記憶の中にあったはずの傑作が消えていく中、

 トダは、どうにかして小説を変化させたくない思いが空回り、

 滅茶苦茶な物語を書くようになっていった。


 江戸時代に車やスマートフォンがある設定。


 逆に、現代に衣服や近代文化が存在しない設定。


 話の筋には一切関係がなく、意味もない設定を盛り込んで、

 支離滅裂な文章を書いた。


 これほどの意味不明な作品であれば、世間が認める文学として認知されるはずがない。


 そう思ったからだ。


 インド映画の要素とホラーが混ぜこぜになった世界観の中、

 ラストは最後の侍である主人公がフードファイターを目指して宇宙進出。

 月面でオリジナルダンスを披露し、

 それがSNSで大流行したところで謎の知的生命体の攻撃により

 地球が爆発する。


 ――トダが小説家を目指すキッカケにもなった、

 キシマ ルリオの『銀閣寺』がこの内容にすげ変わった時、

 ついにトダは小説家としての矜恃も、それどころか自身を自身たらしめる

 その精神すらも失ったのであった。


 とある小説家の災難【了】


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


『セキド様

 お世話になります。

 ご依頼頂いておりました短編ですが、なんとかまとまりましたので

 ご確認お願いできますでしょうか』


 メールを書き終え、小説のデータを編集部と共有しているドライブへとアップすると、

 新進気鋭の小説家、オオコウチ リエはノートパソコンを閉じて、

 温くなったコーヒーを無理やりに飲み干した。


 オオコウチは小説家としては駆け出しであったが、

 最近書いた小説がSNSを中心に人気となり、

 売れっ子小説家としての一歩を踏み出し始めたところであった。


「セキドさん、ちゃんとメール確認してくれるかしら……」


 オオコウチは溜息をつきながら、呟いた。


 担当編集のセキドはズボラでいい加減な性分で、

 打ち合わせにも遅刻すれば、送っているメールも読まずに電話してくる、

 渡した資料も紛失する、約束は忘れるなど、

 とても信用のおける編集者ではなく、

 オオコウチはセキドとの仕事にいつもストレスを抱えていた。


 今回の短編への依頼も「なんかぁレトロで不思議な感じで」と、

 あまりにも大雑把なもので、

 いつものことと思いながらも、うんざりしながら書いたのだった。


 椅子から立ち上がり、座りっぱなしで硬くなった体を伸ばしていると

 デスクの上に置いていたスマホが鳴り出した。


 画面には、『セキドさん』と表示されている。


「えー、珍しく反応が早いじゃない。嘘でしょー」


 驚きながらも、セキドが誠実な編集へと変容してくれたのかと喜んで、

 オオコウチは電話に出た。


「せんせぇ」


 挨拶もなく、いつものようにダルそうな声でセキドが言った。


「これってぇ、ダザイ オサムのパクリですよねぇ?」


『とある小説家の災難』完

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すこしふしぎな短編集 かえるさん @michodam

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