サルビアが囁く日。

 もボクは、音の海に沈んでいる。


 浮かぶ必要はない。


 空気など必要ない。


 この指とピアノが紡ぐ、音だけがあればそれでいい。


「――さん」


 ああ、やめて。


 戻りたくはないのに。


「――ウタさん」


 ボクを呼び戻すのはやめてくれ。


「――ソウタさん」


 抗い虚しく、彼女の声でボクの意識は深海から浮上した。


「ソウタさん、朝食の用意ができましたよ」


「……おはよう、ショウコさん」


 演奏を止めて、呼びかけに応えると、

 ショウコさんは柔らかく光るように微笑んで、ボクの頬にキスをした。


 ショウコさんはボクの恋人で、婚約者だ。


 ピアノを弾くしか能がないボクには勿体ないほど素晴らしい女性で、

 物静かで穏やかな彼女がボクは大好きだ。


 彼女は、白く細いひんやりとした指でボクの目の下を撫でながら、

「ソウタさんたら、目が真っ赤よ。昨日、眠ってらっしゃらないの?」


 ピアノを弾き出すと、ボクには朝も夜もなくなってしまう。


「……多分ね」


 肩を大袈裟にすくめた。


 没頭しすぎてしまうのは、どうやら生まれついた性質のようで、

 食事はおろか睡眠も取らずピアノを弾き続けるボクを心配して、

 婚前にも関わらず、ショウコさんは身の回りの世話をしてくれている。


「まぁあ、覚えてもいらっしゃらないなんて」


 薄紅色のほっぺをちょっと膨らませて、呆れたように彼女が言う。


「作曲が捗ってね」


 遺児であるボクは、両親を亡くした4歳のときから、

 音楽界の大家と呼ばれ、没してもまだなお多くの人から

 尊敬と畏敬を集める音楽家の祖父に引き取られ、育った。


 祖父とは引き取られるまで面識がなかったものの、

 血は水よりも濃いせいか、すぐに馴染んだ。


 祖父は一人娘であったボクの母に、音楽の道へ進むことを望んだが、

 母はそれを拒否し、早いうちに家を出ていた。


 果たされなかった願望と、愛娘を失った哀しみの反動か、

 祖父のボクに対する執念は、なかなかに壮絶であったと思う。


 ボクの生活は、全てと言っても過言ではないくらい、音楽漬けになっていった。


 それがボクには苦でなかったのが、幸いだった。


 それまで触ったこともなかったピアノを見様見真似で弾けるようになると、

 祖父は大層喜んで、音楽の世界にいる人間なら誰もが羨むほどの

 英才教育の限りをボクに受けさせた。


 その甲斐あってボクの演奏と作った曲は、

 すぐさま世界でも認められるようになり、

 祖父がこの世を去っていった今も、ピアノを弾くことで生活ができている。


 もっとも、ボクがわざわざ稼がなくても、

 祖父が遺した曲の印税やら遺産やらだけで一生贅沢に暮らしていけるのだけれど、

 何もしないのは退屈が過ぎるという理由で、気まぐれに仕事も受けている。


「さぁ、一緒にお食事をしましょう」


 ボクの手を引いて、ショウコさんが楽しそうに言う。


「今日のメニューは――」


「エッグベネディクトと根菜のミルクスープに林檎のヨーグルト。

 あと、紅茶はダージリン、かな」


 ウインクして言った。


「いやだわ! ソウタさんたら、しっかりお台所を見てらしたのね!」


 献立を言い当てられて、

 ショウコさんは元々丸い目をさらにクルクルと丸くしている。


「勘だよ、勘。当たってた?」


「まぁ! ふふふ、今日のソウタさんはお茶目ね」


 大きな館に、ボクとショウコさんの笑い声がこだまする。


 祖父もそうであったが、家の中に他人がいることが嫌いなボクは、

 お手伝いさんやメイドを雇うことはせず、

 家事代行を週に二、三回呼ぶだけにしている。


 働き者のショウコさんがいるので、それも必要ないのかもしれないが。


 ********************


「――ご馳走様でした」


 ショウコさんお手製の美味しい朝食を食べ終えて、手を合わせた。


「すごく美味しかったよ。

 ショウコさんの手料理が食べられる人間は、世界で一番の幸せ者だ」


 食後の紅茶を飲みながら、心からの言葉を口にした。


 彼女は飲んでいた紅茶のカップを慌ててソーサーに置くと、

「……今日のソウタさんは、お喋りね」


 大きな目を忙しく泳がせて、指に髪を巻き付けるように動かしている。


 照れたとき、髪をいじるのが彼女の癖だ。


 汚れた食器の片付けを手伝おうとしたけれど、

「ソウタさんの手になにかあっては、世間様に顔向けができなくなります」と

 ショウコさんから固辞されて、彼女がテキパキと働く様子を見るだけになった。


 手なんて、どうでもいいのに。


 ショウコさんと一緒に皿を洗いたかった。


「そうだ、ショウコさん」


 思いついた。


「――一緒に家の掃除がしたいんだ」


 ********************


「じゃあ、ソウタさんはモップをお願いしますわね」


「わかった」


 軍手を二重にはめているので、どうにも動かしにくい。


 手を傷付けないよう細心の注意を払うことを条件に、

 産まれて初めてとなる、家の掃除をはじめた。


 三角巾と割烹着姿のショウコさんも、可愛らしい。


 早速、ダンスホールとしても通用しそうな広さの玄関から始めて、

 もう長らく誰も招いていない客室に、使っていない個室、

 読んだことのない本がたくさんある書斎……。


 二人でお喋りをしながら、掃除の仕方も教えて貰いつつ、清掃を続けた。


 小さな身体で要領良く動き続けるショウコさんとは対照的に

 ボクの腕も、脚も、重石でも付けたようにどんどん重たくなっていく。


 3時間ほどが過ぎただろうか。


 肉体労働の大変さと、充足感を味わえた。


「全部を掃除するには、この家は広すぎるね」


 首にかけたタオルで汗を拭いながら、ショウコさんに声をかけた。


「そうですわね。今日のところは、このくらいにしましょうか」


「……そうだね、そうしよう」


 残念だが仕方がない。


「汗をかいたでしょう。シャワーで流してらしてください」


 ショウコさんが三角巾を外しながら、にこやかに言った。


「風呂なら、一緒に入りましょう」


 一瞬、目を見開いてから、ショウコさんは髪をいじりはじめた。


「……もう、ソウタさんたら……」


 そんな彼女の腰に腕をまわし引き寄せると、耳に息を吹きかけるようにして言った。


「いいでしょう? ショウコさん」


 ********************


 シャワーを浴びて、浴槽に浸かったところで、

 ショウコさんがタオルで前を隠しながら浴室へ入ってきてくれた。


 彼女の裸体こそ幾度か目にしてはいるものの、

 このように明るい場所で見るのは、初めてのことだった。


 洗い場へ上がると、彼女の身体からタオルをそっと外した。


 美しかった。


 白い肌に華奢な腕と足。


 上体には、いじらしく膨らんだ双丘があり、

 その先端には淡色の赤スグリが実っている。


 芸術的な曲線を描く腰の下には、つややかに黒い秘密の茂み。


「とっても恥ずかしいわ」


 片手だけで一掴みできそうなほど細い首まで赤くして、彼女が言った。


「こんなに綺麗なのに、恥ずかしいことなんてないさ」


 石鹸を泡立て、その手で彼女の胸を、背中を、撫でつける。


 驚いたのか、ショウコさんが身を強ばらせたのが分かったので、

「ボクの身体も洗って」


 言って、彼女の手に泡を持たせた。


 おずおずと小さな手をボクの肌に這わせると、

 胸を、腹を、下腹を、太腿を、躊躇いがちに撫でてゆく。


 ボクが吐息を漏らす様子を見て、彼女も安心したようだった。


 お互いの身体を隅々まで洗い合うと、ボクたちは風呂場でひとつに繋がった。


「ショウコさん、愛しています」


「私も、愛しています」


 壊れたレコーダーのように、同じ台詞を繰り返した。


 彼女はどこまでも熱く、そしてあたたかかった。


 ********************


 午後も2時に近づいている。


 まだ、大丈夫だ。


 まだ、時間はある。


 バルコニーから見える庭を眺めていた。


 外は穏やかで良い気候だ。


 ショウコさんが世話をしてくれているのだろう草花が、

 そよそよとした風に吹かれ揺れている。


「ねぇ、ショウコさん。天気もいいし、庭でピクニックをしないかい?」


「わぁ! いいですね!

 パリジャンがありますから、サンドイッチにしてお庭で食べましょう!」


 ピクニックが嬉しかったのか、ショウコさんはいつにも増した笑顔で準備をしてくれた。


 木陰にブランケットを広げ、美味しいサンドイッチを食べたあと、

 ショウコさんの膝を枕にして、ゆったりと寝転がる。


 庭の中でもひときわ目立つ、紫の花に目が向いた。


「あれは、ラベンダーの花かい?」


 花を指さして、ショウコさんに訊ねた。


「いいえ、ラベンダーに似ていますけれど、あれはサルビアの花ですよ」


「サルビア。聞いたことがないなぁ」


 花にはほとんど興味がないので、仕方がない。


「サルビアと一言にいってもたくさん種類があって……、

 お薬にもなったり、中には幻覚作用をもつ品種もあるんですよ」


「――幻覚……?」


 肝が冷えて、思わず身体を起こした。


「あ、あそこに咲いているものには、そんな作用はありませんから安心してくださいね。

 あれはブルーサルビア。あの花の花言葉が好きで、たくさん育てているんです」


「……へぇ、どんな花言葉なんだい?」


 クルクルと髪をいじり、ボクの目を見つめながら頬を染めて、彼女は言った。


「永遠にあなたのもの……、です」


 加減をするのも忘れて、無我夢中で抱きしめた。


「ソ、ソウタさん……、少し苦しいです……」


「ごめん……、ショウコさん……、ごめんよ……」


 腕の力を緩めながら、目から溢れて止まりそうもない涙を悟られぬように、

 ショウコさんの身体にしがみついていた。


 ********************


 柱時計がコチコチと音をたて、時を刻んでいる。


 今は午後4時。


 もう午後4時だ。


「ソウタさん……、今日はもう、お風呂でもあんなに……」


 ボクに押さえ込まれて、ベッドに横たえた身体をよじりながら、ショウコさんが言う。


「……嫌かい? 身体がツラいかい?」


「いいえ……。でも……」


「でも?」


「なんだか、今日のソウタさんは……」


「変かな?」


「いいえ! ……いいえ。なんだか、焦っていらっしゃるように見えて――」


 言いかけた彼女の唇に覆いかぶせるように口付けをした。


 そうだ。


 ボクは焦っている。


 焦っているよ、ショウコさん。


 きっと正しくは、焦りと恐怖だ。


 それらを忘れたいがためボクは、彼女を抱いている。


 ボクはどうするのが正解なんだ。


 分からない。


 助けてくれ。


 誰か、誰でもいい。


 助けて。


 ********************


 疲れきって、スゥスゥと寝息をたてて眠るショウコさんのひたいにキスをして、

 柱時計に目をやる。


 短針と長針がまるでひとつの棒のように真っ直ぐ連なって、文字盤を縦断している。


 午後6時。


 服を着て、台所から包丁を持ち出すと、静かに玄関を開けた。


「ショウコさん、次こそ貴女を守ります」


 庭へ出て少し歩いたところで、それはふらりと現れた。


 黒いレインコートの女。


 全く見覚えのない女ソイツは、ボクの姿を見つけると、

「あああああ……!」


 掠れて、男とも女ともとれないような声で叫んだかと思うと、

 ボサボサな長い髪を振り乱しながらボクの前に駆け寄ってきた。


「やっと、あいにきてくれたのねぇ……。ソウタさま……、ソウタさまぁぁ……」


 抑揚のない声でブツブツ言うと、口角をきごちなく引き攣らせて、

 どこからか包丁を取り出していた。


 、幾通りの方法を試した。


 ショウコさんを連れて、海外に行こうとしたりもした。


 他県や隣町へ逃げたり、警察に相談したり、ボディガードを雇ったり、

 家中の窓やドアを封鎖してバリケードを張り巡らせたりもした。


 だがどれも、不正解だった。


 どの方法でも、ショウコさんが殺されてしまった。


 この女に。


 しかしまだ試していない方法がある。


 ボクが、この女を殺す方法だ。


 忍ばせていた包丁を出すと同時に、女めがけて駆け出す。


「ソウタさん!」


 ショウコさんの声だった。


 いつの間に。


「来ちゃダメだ!!」


 叫ぶが遅い。


 女はもうショウコさんを標的に決めて、

 狂気のままに包丁を振り上げ走っていた。


「グガッ」


 ああ、もう嫌なんだ。


 もう、やめてくれ。


 悪い夢なら醒めてくれ。


 ショウコさんは首に包丁を刺されてしまい、奇妙な声を上げて、

 バタリと倒れた。


 ボクは、その場で崩れ落ちた。


 上手く動かない身体をなんとか引き摺って、

 血塗れのショウコさんを抱える。


 血が止まらない。


 押さえようにも包丁が邪魔だ。


 抜いていいのか。


 助けられるのか。


 この状況で。


 ゴボゴボと口からも血が溢れてきた。


 ショウコさんの目には、もう何も映っていないようだ。


 言葉が出ない。


 声も出ない。


 あんなにあたたかかったショウコさんの熱が、失われていく。


 彼女のこんな姿を、何度見ただろう。


 何度、見せられるのだろう。


 地獄に堕ちるより絶望的だ。


 ********************


 何も出来ず、何もせず、どのくらいの時間が過ぎていったのかも

 もはや分からない。


 ショウコさんの顔から、すっかり生気がなくなってから、

 ボクは包丁を抜いた。


 見開いたままの目を閉じてあげたかったけれど、どうしても無理で、

 見ているのも辛い。


 これは、一体、なんなのだろう。


 いつまで続くんだろう。


 続けるのか?


 手にしている包丁をジッと見ていた。


 終わらせることもできるのだろう。


 不意に、茫然としているボクに囁きかけるように、サワサワと紫の花が揺れた。


 ブルーサルビア。


「――永遠にあなたのもの」


 彼女の声が、どこからか響いてきてボクは絶叫した。


 泣いて、泣いて、情けないほどに喚いて暴れた。


 泣くのに疲れると、朦朧としているのに確かに痛む頭と歯に苦しみながら、

 もう動くことも、笑うこともなくなって、

 人形のように硬く冷たくなってしまったショウコさんを抱きかかえて家の中に運び、

 ベッドに寝かせると、ピアノへと向かった。


 曲を作るのだ。


 ショウコさんへ捧げる愛の曲を。


 そうしていると、また戻るのだ。


 朝に。


 ショウコさんと過ごす、最高に幸せで、最悪に悲惨な一日に。


 ********************


 ひょっとすると、ボクはもう、狂っているのかもしれない。


 ずっと繰り返しているように思っているこれは、

 狂ったボクが見ている幻なのかもしれない。


 現実では、とっくにショウコさんは死んでいて、

 ボクは精神病院にいるのかもしれない。


 それでもボクは、また望むのだ。


 愛する人と過ごす、あの一日を。


 幸せとあたたかさに満ちた、あの時間を。


 かりそめでも。


 偽りでも。


 だけれどそれはまた、

 あの言い様のない焦りと恐怖、

 死にゆく彼女を看取る絶望を味わうということでもあるのだ。


 ああ。


 もう嫌だ。


 何もかも。


 やっぱり嫌だ。


 このまま深く、音の海に沈んでいたい。


「――さん」


 ああ、やめて。


 このままそっとしておいて。


「――ウタさん」


 その声でボクを呼ばないで。


 また愚かにも、貴女の美しさに触れたくなる。


「――ソウタさん」


 愛しているよ。


 どうしようもなく。


『サルビアが囁く日。』完

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