第8話 君いとし

 スマホを握り締めたまま時間が流れた。全身を包む横揺れが一切の思考を奪うような気がしていた。炎に映りこむ萌咲の表情が醜く歪む。

 指を動かしスマホを耳にあてた。彼があっと小さく息を吐き,身じろいで,じわりと離れた。

 固定電話のベルに気づいた萌咲が立ちあがり,受話器をあげる。

「旦那さまに番号を伺っておりました。私です――葛です。最近アップしたスマホの機能で,電話回線経由でパソコンに入り,本当のアドレスをキャッチさせてもらいました――それくらい許されますよね」

 萌咲が受話器を落とし,慌てふためき電話を切った。

「あなたの悪行は全て知っているのよ。おかげで私はネット世界に閉じこめられてしまった――」オンラインで繫いだ萌咲のパソコンに語りかける。萌咲は青褪めていたが,そろりとパソコンに近づくなり画面を殴った。「まだ死んでないの! 早く観念なさい!」

「誰が観念するもんですか! 私たちはあの森で生き残った女なの。だったら死んだ子たちの分まで必死で生きなきゃ駄目じゃないの。傷物でも娼婦でも言いたいように言えばいい。いちいち動揺するなんて成長がないわね。だから仲間と一緒じゃないと喧嘩もできないのよ」 

「あんたなんかに説教されたかないわよ!――死んじまえ,すぐに!」

「すぐにそっちへ帰ってあげる――1対1で勝負しましょ」

 歯を剝いてパソコンを閉じてしまった。

「何よ,最悪――」

 ふふっと呼気だけで笑う空気の掠れが耳に届いた。彼が長身を横たえ片腕で頭部を支えている。いつの間にかタンゴのリズムも炎も消えていた――

「そろそろ行くか――」立ちあがり心臓あたりに片手を添えて深々と頭をさげる。

 胸を締めつける心情が去来した。

「私――現実世界に戻れなくなっちゃった」

「心配するな……」

「だってタブー返しできなかったし――」

「何も心配しねぇでいいから……」そう言って徐々に後退りしていく。

「助かるってこと? あなたが助けてくれたの? タブーに触れたのに,害が及ぶのを阻止してくれたの?」

「それは違う……」遠ざかりつつ首を横に振る。「ネットタブーの掟は絶対なのさ。タブーを犯せば必ず制裁がくだる」

「だったら私は?」

「タブーを犯しちゃいねぇのさ」

「どういう意味なの?……私は確かに萌咲の罠にかかったはずよ。同じ時間に同じ八つの文字を入力した当事者なの」

「――そして彼女ほど現状を悲観しちゃいねぇ。そもそも幸福なんて自分で満足できるかどうかだ。つまり主観だけを物さしにすりゃあ,葛は彼女より幸せということになる」

「だったら禁忌に触れる人間は私以外にないじゃない」

「葛――」鉄仮面を押さえ,俯き気味になる。「もう行くよ。どうか悪意をいだいてネットを使わないで。悪意のないところでパンドラの箱はあかない」手を振って背をむけるなり,何もない虚空を両手でこじあける。金属の擦れるみたいな高音が発し反響を起こしながら黄金の微粒子が撒き散り充満していく。

 虚空に生じた歪な隙間に幾重もの脂ぎった光環が蠢いていた。そこに片足を挟み,細身を曲げてシルクハットを挿しこむ。

「ペンドルトン!――」駆け寄って腕を摑む。シルクハットが虚空のむこう側に吸いこまれ,長くのびた銀髪が高音の波にそよいだ。

「髪――のびたね。今度は私が鋏をいれてあげる」

 摑み返された手首に力がこもり,鉄仮面の下にのびる喉が大きくうねった。片足の全部が虚空の隙間にはまり,腹部を中心に全身が「く」の字型にのまれていく。こちら側に残る足を踏みしめ,留まろうとする体の各部位が透過して輝く粒子の集まりと化す。

 手首に絡まる指も実体を失い感触が消えたとき,私は下腹部から突きあげる衝動に痙攣しながら大量の血を吐いた。

 粒子の密集が砕け,遥か彼方へ飛ばされる。彼が手を放したのだと知った。

「ペンドルトンはもう御免だぜ。大人の女におじさん呼ばわりされたくねぇし……」

「何よ,13の子供にしか興味ないのね!」

 鉄仮面が影を結び,その奥で微笑みの呼気を聞いた。近づこうとすれば,虚空の隙間が輪郭を崩し,跡形もなく搔き消えた。

 何もない店内で1人佇んでいた。火災の灰燼に銀のタブレットが紛れている。鉄仮面のものに違いない。もう故障しているようだ。煤を払えば,作動時入力されたと思しき文字が見える――sugusine。

 やはりあなたはペンドルトンだ。正午に呪いの8文字を打ち,誰よりも幸福を感じてくれた人。

 タブレットを胸に抱く。

 私は1人で生きていく。男は嫌いだ。やはり恐い。でもそれが理由でなく彼が戻ってきたときに隣を空けておきたいためだ。

 次に会うとき私はおばさんかおばあさんになっている。嫌悪され背をむけられるかもしれない。それでも彼を追うだろう。覚悟するがいい。今度は逃がさない――

 頰を伝い流れる涙がタブレットに落ちるなり強烈な光を発し,銀の花弁が溢れるみたいに弾けて霧状の輝きへかわりつつ消失する。

 この世界の隅々にまでネットの触手がのびる限り彼は何処にでも現れる。私たちはきっと再会できるのだ――

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ネットパンドラ――私の足長おじさん―― せとかぜ染鞠 @55216rh32275

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