救い

いずみ沙来

救い

死ぬ瞬間になってやっと、自分の望んでいたものを知った。私は、死を望んでいた。死は、ひどく悲しいことで、しかし、ひどく、優しいことでもあった。


***


何百年もの時を共に過ごしてきた存在が、自分とは別の存在になったのは、いつのことだったか。もうずっと昔のことだったような、つい昨日のことだったような気がする。

「リグ、私は死んでしまうかもしれない」

 ある日ラグルは、どこか浮足立った表情で私にそう告げた。死。私たちには最も関係のないものであるはずだった。不死の存在である私たちにとっては。

私たちを含め、この世界には何十頭か不死の存在がいる。不死の存在は、ずっと世界を見守り、世界の均衡を守る役割を課されている。そして、その身に宿る永遠の命は、私たちがあるものを知ってしまわない限り、永遠に保証される。

 恋。そのあるものとは、恋であった。ラグルは恋を知ったのだった。死んでしまうかもしれないとラグルが私に告げたときの、彼のあの奇妙な目をずっと忘れられない。燃えるような悦びを裏に隠した、不安げな瞳。有限の命を宿した瞳。

 ラグルと私は、何百年も前にこの世界を、創造主に任された。私とラグルの他にもこの世界にはすでに何十頭か不死の存在はいたが、お互い遠く離れた地にいたため、ラグル以外の不死の存在に出会ったことはない。

私とラグルは、ずっとふたりだけだった。雨で森が荒らされ、様々な命がなぎ倒された日も、地震が起こって生き物が森から消えた日も、人間という生き物が森を荒らした日も、ふたりで、世界を見ていた。

 ラグルが私に、死んでしまうかもしれないと告げたその日の夜、天から創造主が舞い降り、ラグルは有限の命を与えられた。仮に纏っていた鹿の姿とひきかえに、彼は狼の姿を手に入れた。

 彼は、私をひとりにすることを、随分申し訳なく思っているようだった。何度も彼は私に謝るのだ。ひとりにすることを許してほしいと。不死の存在と普通の生き物は関わってはいけない。だから私は、別れについてあまり何も思っていなかったが、彼は、すまないと謝りながら私以上に別れを嘆いた。そんな彼を見て、初めて理解した。ラグルと私は、もう別の存在なのだと。

「ラグル、さようなら」

「さようなら、リグ」

 そうして彼と私は、道をたがえた。

 彼と道をたがえてから私は、移動を続けた。雨の日は移動が困難になるため、適当な洞穴や葉の影を探して雨宿りした。晴れの日は、一日中移動した。私は鹿の姿を纏っていたが、肉食獣たちは私が本当は草食動物ではないことを分かっている。そのため、襲われることもなく、気ままに過ごすことができた。

世界は、私とラグルが離れても、何も変わらない。晴れの日は、柔らかな日が森を温め、日の光は、葉を通して優しい色を放つ。雨の日は一転して、雲が日の光を遮り、白い雨のベールが世界を覆う。どこからか鳥が鳴く声、虫が這う音、肉食獣の威嚇の音が聞こえる。様々な音に耳を澄ましながら、歩いていく。ひとり。

世界は有限の命で満たされていた。私と同じ時間を過ごすものなどいない。私がひとりで移動を続ける間にも、たくさんの生き物が死んで、生まれて、死んだ。世界の全てはせわしなくて、だからこそ、美しい。

いつまでも死なない私を除けば、だが。


***


ラグル。そう呼びかければ呼びかけるほど、自分の体が縮んでいくように思える。また今夜もこうなのだろうか。前まではどんな場所でも眠れたのに、今はどんな場所でも眠れない。夜通し、ラグルのことを考えて、惨めな気持ちに沈み込んでいる。

ラグルと別れて、どれほどの月日が経ったのだろう。分からない。分かりたくもない。ラグルも私も、離れた分だけ、変化する。ちがうものになってしまう。

ラグルと、同じものでいたかった。同じ時間を過ごして、世界を見ていたかった。変わらない心で、体で。儚い夢は、永遠に生きてはくれない。

あぁラグル。あなたに会えたなら。


***


爆発する色彩、頭に響く動物の鳴き声。空からさす日の光が、異様なほど眩しくて、熱い。……どこかで肉食獣が獲物を食べている。切羽詰まった鳥の羽音。命が終わる音がする。

一日に歩ける時間が段々と減っていっていた。最初は一日中走って移動できたのに、今では朝から昼まで歩き続けることもできない。

 夜も眠れなかった。食べ物さえも、口に通らなかった。儚い夢を、どこまでも追い求めて、でも見られなくて、絶望する私が、いつもいた。何かをするたびに、脳裏にラグルとの思い出がよぎったり、隣にラグルがいるような感覚がするのだ。いることを夢に見て、いないことに絶望する。その繰り返し。そんな私の心と裏腹に、体は、変わらず、永遠の時間を生き続けている。心が儚い夢を求めれば求めるほど、体は永遠を求めた。

攻撃的な日の光が、私の身体をさしている。温められた地面に体が蒸されていく。水場はないのだろうか。最近は、水場を探して歩き回るのが常となっていた。私はその日も、あてもなく歩いた。とても、暑い日だった。世界は相変わらず、せわしなく動いている。

どれだけ歩いたのだろうか。私は水場についた。水がちゃぷりと波打つ音、木々のざわめきが私の身体と心を冷ましていく。日はまだ暗くなっていなかったが、随分歩いたような感覚がしていた。

あぁ、やっと少しは休める。浅瀬に入ろうと、私は水場に歩み寄った。

その声が聞こえたのは、水に蹄(ひづめ)の先を浸した瞬間だった。

『リグ、どうした』

 ラグルが、私を呼ぶ声がしたのだ。

「ラグル」

 まさか、歩いているうちにラグルの生息域に行ってしまったのだろうか。数日前から視界が朦朧としていたが、私は必死に、名前を呼んで、辺りを見回した。胸がざわざわと色めきだっている。ラグル。何度も名前を呼んだ。ラグル、あなたにまた、会えるのだろうか。……もし本当にあなたに会えるのなら、私はあなたに頼みたい。また、私と一緒に過ごしてほしいと。

しかし、狼のラグルの姿は、ついぞ視界に入らなかった。

 いないと分かった途端、胸が、一転して締め付けられるような感覚がした。様々な感覚……聴覚、視覚などが衰えている私の中で、この痛みだけはやけに鮮明なのだ。どくりと、ないはずの心臓が悶える。夜ラグルを思って感じるどんな痛みよりも、鮮烈な痛み。

 ラグル。なぜあなたは今私の隣にいないのか。何百年もの時を一緒に過ごした仲だったではないか。それなのに、なぜ、数年も一緒に過ごしていないような、ただの生き物にあなたは恋をしたのか。なぜ私ではなくその生き物を選んだのか。結局私は、ラグルが恋をしたという生き物の姿を見ていない。一番一緒にいたはずなのに、大切なところでは蚊帳の外だった。

 あぁ、これは、やはり。私もまた……

刹那、私は、鮮やかな痛みと、幻の拍動で、すべてを理解した。

 私は水を飲むのをやめて、その場に寝そべる。頭をちゃぷちゃぷと水がくすぐっている。創造主。できる限り大きい声で創造主を呼んだ。救いにも似た眠気が、私を終わりへと、誘(いざな)っていた。

 夢は、もうとっくの昔に死んでいたのだ。私は、夢を見る、夢を見ていた。ラグルと別れたあの日から、ずっと。

 変わらず、ふたりきりで過ごしていけるという、何よりも儚い夢。その夢を永遠に見ていられるという夢。夢なしでは存在できない私が歩むべき道は、最初から一つしかない。

 ラグル、私はあなたを、ずっと愛し続けるよ。この身が朽ち果てたって、それだけは、変わらない。

死ぬ瞬間になってやっと、自分の望んでいたものを知った。私は、死を望んでいた。死は、ひどく悲しいことで、しかし、ひどく、優しいことでもあった。


***


 その夜、創造主は世界に舞い降り、一匹の鹿の皮を纏う弱った不死の存在の命に、有限の命を与えた。有限の命が与えられると、その不死の存在は、一瞬のうちに息を引き取ってしまったという。

また、その不死の存在は、創造主がその体を手に乗せたときにはすでに、意識を失っていた。不死の存在は本来、弱ったり、意識を失うことはない。創造主はたいそう哀れに思い、その不死の存在がもし、無限の楽園にて、また次の時間を送ることを望むのであれば、そのときは、有限の命を与えることを約束した。

 創造主が地上に降りたその日、一匹の別の不死の存在が、創造主に付き添っていた。彼はのちに、他の不死の存在に、こう語ったという。

「なにはともあれ、私は、あの不死の存在の表情が、随分と満ち足りていたことが唯一の救いだったと思うよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

救い いずみ沙来 @harune0725

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る