⑥
「いや違うの、さっきのはちょっと違う穴に入っただけなのでノーカンっていうか、ぶっちゃけみややんが変な顔して笑わすのが悪い」
居酒屋の個室、ぶちまけた洗剤をごしごし拭き取りながらのミウラの泣き言。あるいは「助走」とでもいうべきか、再びグラスに手を伸ばしながら彼女は続ける。
本当は行けてた。だって〝飲んでも大丈夫〟というのはもう実証済みで、実際ここに来る前にもう五杯くらい飲んでて、でも家では全部は飲みきれなくて、だからこっそり持ち込んだこの一杯で完飲——。
そう一息に言い切り、そして再びグラスを煽ろうとする、その手がしかしそのまま微動だにしない。目には涙、「ハッ、ハッ」と浅く早い呼吸に、まるで止まる兆しのない手の震え。どんな言葉よりも雄弁に「もう無理、飲めない」と語るその土気色の肌に——そりゃ洗剤六杯も飲めばそうなると思う——私はただひとこと、
「——いいの。ミウラ、頑張ったね……」
そう優しく彼女の顔、頬のあたりにそっと手のひらを添える。慈愛の瞳で優しく見つめる——ちゃんとそうできた、と自分では思う。正直なところ自信はない。もしかしたらその瞬間、私の顔の表層に、
「ああぁぁぁよかったぁまだあの頃みたいなマウント取れる隙がギリギリ残ってて」
と、そんな下衆の安堵が最高の笑顔となって滲み出ていたかもしれないけれど、でも信じたい。そんなことはなかったし、あったとしてもバレなかったと。大丈夫。だってその瞬間、やっと私の心に余裕が生まれて、劣等感よりも愛の方が優った感覚もあったし。
わぁっ、と——いや「ウワアアアァァァ!」と、顔をぐしゃぐしゃにしてその場に泣き伏せるミウラ。うまくいった。あの日と同じだ。いまやあらゆる面において私を置き去りにしたはずのセレブ人妻が、やっと咲くべき場所で咲けたはずの憧れの女が、でもその一瞬だけ七年前に戻る。
どの女よりも強く賢く、でも異常なほどチョロかった私の女。
改めて思う。やっぱ可愛いよなあこいつ、と。そりゃ私が好きになるわけだよ顔もいいし、と。
旧校舎の非常階段、人知れず何度も重ねた逢瀬の、その行く末に待ち受けていた必然。
恋。不器用で、やることなすこと間違いだらけで、そもそも女同士とかまったく思ってもみなかったとしても。
それでも、少なからず、それは恋ではあったはずだ——。
と。
いまのいままで、少なくとも私は、何の疑いもなくそう信じてきたのに。
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