第2話
「え? もう?」
突然突き放されたような気がして、僕は不満そうな声を隠せなかった。いつものことなんだけれど、兄上とのお別れの時間は、奈落の底に落とされるような感覚がして、とっても辛い。
「もう少し、いいじゃないですか」
僕は駄々っ子のような声を出した。
「夕食の時間に遅れるだろう」
「食べたら、また来てもいいですか」
「ルシアーノ」
兄上の声音が少し変わったので、僕はたじろいだ。だけど今日はちょっと勇気をだしてみようと、何となく思ったんだ。
「兄上は、一人で夕食をお召し上がりになるんでしょう。そして一人でここで眠る。そんなのおかしいです。この国の第二王子なのに」
僕がすぐに引き下がらなかったので、兄上は少し面食らったようだった。ぽかんと口を開けている。ややあって気を取り直した兄上は、幼い子供を優しく宥める口調で言った。
「おれが好きでそうしてるんだ。おれは本に囲まれているのが好きなんだよ。お前も知っているだろう」
「嘘です。母上が、兄上をここに閉じ込めるから――、兄上だって、本当は」
僕は身を乗り出していた。
母上は自分の子ではないロベルト兄上を疎んじていた。本好きな兄上を利用して、お前の書斎を造ってやったわよと、兄上をこの地下の部屋に追いやった。
王宮にロベルト兄上の居場所は、どこにもなかった。
この王宮の隅っこの、地下の部屋が、兄上の生活の場となった。
もともとは重要な書物を保管していたらしいこの部屋も、今や誰も足を踏み入れない持て余した空間となっていたのだ。だから扉だけは小さいなりに強固で、外から鍵が掛けられる仕組みになっている。
まるで監獄だ、と僕は思う。罪人を閉じ込める牢屋。
「兄上だって、本当は、こんな場所にいたくないはずです。僕が連れ出してあげます」
僕は兄上の両手を取った。華奢な手だった。冷たくて、骨だけのような。
兄上は、ほとんどもう目が見えていないのだ。明かりを灯す魔法道具はいくらでもあるのに、母上はこの部屋に用意しなかった。
蝋燭を中に入れたランタンだけが光源のこの部屋で、兄上は本だけをよりどころにして、もう十年以上暮らしている。
兄上が本をきちんと読めているのかどうかは分からない。僕にお話しして下さる本の内容は、本当なのか、兄上の作り話なのか。僕には分からない。
僕には本の内容なんてどうでもいい。兄上が僕に向かって、僕だけにお話しして下さることが重要なんだ。
「おれを、連れ出してくれるのか」
兄の隠れた赤い目に、光が差した気がした。兄上が、僕を見つめてくれている。
王族の生活になじめない僕。王族からはじかれて囚われている可哀想な兄上。
こんな国を捨てて、二人で一緒にどこかで静かに暮らしましょう――。
僕がそう言うと、兄上は、やれやれとため息交じりに微笑んだ。
♦♦♦
「ルシアーノはまたあの地下の部屋にいるのか」
執務室でカルロスはため息をついた。側近の一人である老齢の男は、毎度おなじみの国王の問いに、嫌な顔一つせず、事務的に答える。
「左様でございます。昨日も、一昨日も、その前日も。こっそりご様子を伺うよう言いつけてある使用人によりますと、あの地下の部屋で、ルシアーノ様は、焦げた椅子に腰かけて、真っ暗な中、お一人でぶつぶつと呟いているようです」
はあ、と若き王は二度目のため息をつき、頭を抱えた。幼少のころから馴染みのある臣下の前なので、口調も砕けたものになっていた。
「やっぱりあの地下の部屋は失くしてしまおう、ルシアーノのためにも。あんな残骸だらけの、何もない部屋」
「恐れながら陛下、そんなことをしたらルシアーノ様はもっとおかしくなってしまいます」
「もう十分おかしいよ」
「陛下」
カルロスは思った。
父上と母上が相次いで亡くなり、自分が王位を継いで早十年。ようやく王宮内の確執も何とかなり、国も安定してきたというのに。
我が弟ルシアーノはもう一人の俺の弟、ロベルトの亡霊に、囚われ続けたままだ。
いや亡霊じゃないか。ロベルトはまだ生きてるし。
十年前――。
深夜の王宮内で、いつものようにヒステリックに母上が叫び出した。母上の心は父上に浮気をされてから壊れていた。いや、王室内のいざこざがあって、母上があんな風になったのはそれだけじゃないのかもしれないが。
とにかく母上はロベルトを罵る言葉を吐き出しながら地下のあの部屋に向かい、あろうことか部屋の中に火を放って、扉の鍵を掛けてしまったんだ。
母上がおかしくなることはいつものことだったので、母上に仕える侍女たちもまたか、という感じで気が緩んでいた。だから、母上がそんなことをするのを、すぐに止められなかった。
池の水を引いて何とか消火したときは夜が明けていた。地下の部屋は石造りだったため、周りは無事だったが、俺が駆けつけたとき、部屋の中は燃えた大量の本でひどい有様だった。
そして、立ち尽くす俺の後ろで、同じく駆けつけたルシアーノが信じられないぐらいの大きな悲鳴を上げて、その場で失神した。
慕っていた兄が焼き死んだと思って、強いショックを受けたのだ。
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