第三の書簡


 いじめには美学がつきものだと思う。子供が何気なく蟇蛙の口に爆竹を突っ込むようなものでは、本当に感覚に頼るばかりで、人に責められたときの言い訳がない。言い訳がないと、心から楽しめない。無邪気に「どうして」と大の大人が口からこぼすのでは、まったくどうしようもない。

 さて、物事の多くの善悪の基準は法律や憲法の場合が多い。なぜなら社会的に必然的に罰せられるのだから、守って当然だという意識がある。たとえば、日本で喫煙は二十歳から可能だが、モンゴルでは十五歳からの喫煙が許されている。未成熟な身体への健康被害を慮ってのものだが、つまり、ここには明確に「何歳」という境がない。あと一分で二十歳になろうとしている人が、たった今煙草を吸い始めるのと、あと一分経過してから吸い始めるのでは、どちらも健康被害の観点からして、たいして差が無いように思える。

 だとすると、ここに残るのは、善悪の基準だけである。善悪の基準はよく、文学やアニメ、討論の議題によく用いられているが、そこに、明確なものはないような気がする。あるとしたら、当人がどう思っているかだけなのだ。

 つまり、いじめ必要なのは、自分が「これはさすがに駄目だろう」という基準を設けておくことだと思う。テスト勉強をまったくせずに、赤点を取った学生に対して「バカじゃないの」と罵倒してやることは、これはいじめか?……これをたとえ当人が不快に思ったとしても、これは事実なのだ。当人の責任で生み出した結果を、当人が受け止めずに、誰が受け止めるというのか? 不快に思うのは、あまりに虫のいい話ではないのか。

 涙を流す、苦しむ、泣くということが、遍く非行の免罪符になるというわけではない。

 ――と、ここまで長々と話を進めたのも、要は、私自身が、人をいじめる理由が欲しかったからだ。人を見下すことで、自分はこうなりたくないな、という基準ができることは、大変に微笑ましいことだ。


 二〇二一年八月二十五日水曜日 二十一時四十一分。

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蝋でできた翼 羽衣石ゐお @tomoyo1567

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