第34話

 机の上には大学入学時に購入したコンパクトなノートパソコン。

 その少し手前に、授業で必須だったテキスト。

 その手前に私。

 私の隣にサク。


 これでテストの準備は万端整った。


「つうか、俺そっち座りたい。画面見づらい」


「だめ。あくまでもテストを受けるのは私なの。サクはアドバイザーなの」


 俗にカンニングと言う。でも参考文献を手元に用意して解いていいって先生も言っていたから、参考人が隣にいるのだって問題ないはずだ。

 自分のパソコンを使ってインターネットで受けるテストってのは、寛容だ。


 本当はそれでも、サクの手なんて借りるつもりはなかった。今サクがいるスペースに参考文献をいっぱい重ねて、調べながら解くつもりだった。多少面倒くさくてもサクに頼る悔しさを思えば、辞書と首っ引きでも仕方がないと思っていた。

 けれど今朝起きてある重大な事実に気付いた私は、潔く諦めてサクを頼った。


「あ、サク。ねえこれなんて読むの」


「さっそくかよ」


 手伝うって言って来てくれたサクは、言葉とは裏腹に漫画を読み始めようとするところだった。いやいやいやいや。そんなズルはさせない。お昼おごる約束なんだから、お昼代分は働いてもらう。学生ラーメンの五百円分。


 テストの問題は崩し字の解読。昔の日本人は、ひらがなを今みたいに一文字ずつ丁寧に書いたりはしない。繋がったり省略したり漢字っぽかったり、形が崩れていてめちゃくちゃだ。

 でも平安時代の文章を読まなきゃいけない国語国文学科生にとって、その崩し字を解読できることは必須の基礎能力。基礎の基礎、イロハのイを試されるだけの、簡単なテスト。


 ……無理。基礎だろうがイロハだろうが、わかんないもんはわかんない。


「き、り、つ、ほ」


「え、これ『ふ』じゃないの? 『ほ』なの?」


 平安時代の人は字が下手だ。こんなぐちゃぐちゃごにょごにょ書かれたって、読めるわけがない。サクに答えを教えてもらっても、どうしても「ほ」には読めない。


「いや『ほ』だけど。っていうか、源氏物語の巻名くらい覚えとけよ」


「うるさいなあ。そんな勉強する暇、なかったの」


 昨日祐子に会ったときには、テスト勉強は明日やればいいって思っていた。祐子と別れて家に帰ってからもそう思っていた。

 それですぐに眠って、朝目が覚めたときに気がついた。

 インターネットのテストは自宅でいつでも受けられる。でも期限がある。

 今日中にテストを受けないと、点数がつかない。


 その驚くべき事実に気づいた直後には、サクに電話で泣きついていた。


 サクには疑われたけれど、決して狙ってやったわけじゃない。スケジュール管理が甘かったんだ。あと、ど忘れがひどかった。どうしてテストの期限を忘れたりなんてしたんだろう。おかげでサクにお昼をおごらないといけない。

 決して忘れていたふりをしてサクに甘えたわけではない。


「うー。サク、次は?」


「つれづれなるままに」


「えー? これ『づれ』なの? 『く』じゃないの?」


「いや、繰り返し記号だろ。いずみ、そのくらいはさすがに分かれよ」


 またサクの言い方がいちいち癪に障る。彼氏なんだからもうちょっと甘やかして教えてくれたっていいじゃん。そんな意地悪な言い方しなくったっていいじゃん。


 でもほかに頼る相手がいるわけでもないから、わからないことがあるたびにサクに確認する。これで高得点は間違いない。ちゃんと単位が取れればたぶん進級できる。


 平安時代から江戸時代くらいまでの達筆すぎて読めない字に悩まされて一時間。

 ようやくテストも終わりが見えてきた。最後の文字の読み方を入力して送信ボタンを押す。これで先生の元に答案が届いて、採点されて、夏休みの間に成績として返ってくるはず。

 そう、夏休みだ。


「終わった! 終わったよサク、これで私も夏休みだよ!」


「おめでとー」


 全く気の入っていないサクの返事も、今ばかりは気にならない。夏休みだ。これでなんの気兼ねもなくサクと遊びに行ける。サクの言うように、ぱーっと盛大に遊ぶことだってできる。彼氏と一緒に夏休み。祐子には悪いけれど、幸せだ。


「ねえサク、今晩飲みに行こうよ。テストおつかれさま会。ね?」


「だなー……なあ、でもさ。ちょっと先に一つだけ確認してもいい?」


 せっかく夏休みに入ってうきうきだというのに、サクは今ひとつ乗り切れていないみたいだ。というか、何か言いづらいことを言おうとしている雰囲気。

 サクが心中になにかを溜めていたってことに、私はそのとき初めて気がついた。


「今更だけどさ。こないだの同窓会、どうだった? 翔ってやつとは、なんかあった?」


 ここでそれを聞いちゃうか。もしかするとその話をすると私がレポートとかテストとかに集中できなくなると思って、わざわざ待ってくれていたんだろうか。

 優しいけど、見当違いだ。私はもう高校時代のことなんて、なんとも思ってはないない。翔の話なんてへっちゃらだ。別にレポートに熱中して忘れてたとかじゃない。忘れようとしてたんでもない。断じてない。ほら、中村からもらったメモのことだって覚えている。


 ……思い出しちゃった。


「なんもないよ。サク、考え過ぎ」


「ならいいんだけどさ。なあ、翔ってやつはどこ行ったの? 遠くって?」


 ぎくりとした。なんでそんなこと知ってるのさ。


 でもよく考えたら同窓会の説明をするときに、私が言ったんだった。遠くへ行く友人がいるから、メッセージカードを書くんだって。翔のことかって聞かれてうなずきはしなかったけれど、話の流れからして、翔以外にはありえない。


「んとね、留学みたいなもんだよ。永住するかもしれない系の。もう帰ってこないかも」


 私は初めて、明確な嘘をついた。


 本当は「かも」じゃなくて、もう二度と帰ってこない。永住するとかいう問題じゃない。学びに行ったわけじゃないから留学でもない。翔はただ単純に、行ってしまっただけだ。


「海外かあ」


 サクが海外を近いと感じたのか遠いと感じたのかはわからない。海外へ行ってしまった翔は、サクにとって警戒すべき恋敵になり得るんだろうか。


 私にとってはどうだろう。


 もし翔の行った先が海外だったら?

 もし遠く離れているから会えないのだというだけで、実は翔が生きているのだとしたら?


 ……やめよう。「もし」とか「たら」とか、そういうのは意味がない。

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