第24話
「俺らさ、同じ大学行けるといーな」
私たち二人は、カラオケボックスで教科書を開いていた。
歌いもせず、いちゃつきもせず、ただただ二人で勉強していた。黙々と、ではない。お喋りをしながら。
「まあねえ。でも、難しいよ」
教科書はひどく淡々と世界の歴史を語っていた。全く心に響かない言葉の羅列は眠気を誘うばかりで、お喋りだけが唯一の眠気覚ましだった。
「一緒に勉強してりゃ行けんじゃね? 一緒にやってりゃ頭の良さも同じくらいになってさ、受かるのも落ちるのも一緒」
「スタートラインが違っちゃどうにもならないよ。それに運もあるし」
「ああ、俺、運悪い方だからなあ。席替えのくじとか、よく外すし」
「え、今の席も外れ? せっかく近いのに」
「いや今のは……稀にみるアタリ、かな」
なにそれ、ちょっと嬉しい。嬉しすぎて教科書の文章が、ますます頭に入らなくなってしまう。ちょうど今、家系図と順番とがややこしいところなのに。ジェームズ一世、チャールズ一世、チャールズ二世、ジェームズ二世。なんで交互にしてくれないんだろう。チャールズだって、おんなじ名前の人の後とかイヤじゃなかったかな。
「どしたの、黙っちゃって」
「え。あ、うん。世界史ってめんどくさいなあって」
「いずみは面倒くさいことばっかだなあ」
笑われた。
そういえば、彼は私に「いくらなんでも」とか言わない。
私が面倒くさいと言うと、呆れたり笑ったりはする。でも「いくらなんでもそのくらい頑張れ」とか「いくらなんでもそのくらいやれ」とかは、言われたことがないような気がする。
まあ、言われようが言われまいが、私の面倒くさがりは治らないと思うけれど。
「なあ、ちょっと休憩しようぜ。俺ドリンク取ってくる。何がいい?」
「じゃあ、メロンソーダ」
可愛い彼女なら、私も一緒に行く、くらいのことは言っただろうか。
私は立ち上がるのも面倒だったし、飲み放題のドリンクだからって二杯目を自分で取りに行くっていうのも面倒くさかった。彼だってそんな私のことをわかっていて、特に何も期待はしていないようだった。彼が期待していないことを知っているから、私も安心してのんびり待っていられる。
私たちはお互いにお互いのことを、ちゃんとわかっていた。
――わかっていた?
――わかっている、じゃなくて?
***
目が覚めてまず真っ先に目に入ったのは、サクの寝顔でも白い天井でも目覚まし時計にしているスマホでもなくて、サイドテーブルに無造作に置かれた灰色の封筒だった。
とたんに、今見ていた夢を思い出す。
『夢と知りせば 覚めざらましを』
いつだったか、エッセイの題材にしようとした和歌を思い出す。
夢と知っていたらきっと覚めなかっただろうに。貴方に会えるというのなら、いつまでだって夢の中に留まりましょう。
――なんて。わざとロマンティックに考えてはみるけれど、そうはいかない。夢の最後にはそれが夢だって気付いていた。気付いた瞬間に私は目を覚ましたんだった。夢だとわかったからって、その夢から覚めずにいるなんていう選択肢はなかった。
「サクぅ……おはよぉ」
大の字になって寝ていられるほど広いベッドの上にサクがいないことはわかっていたけれど、声に出しておはようを言う。寝ぼけたような小さい声は、一人暮らしの狭い部屋の中で、反響もせずに空しく消えていく。
もうギブアップだ。むり。むりむり。
手探りで枕元のスマホを拾い上げる。意地を張りとおすことを諦めてメールを打とうとした手が、ぴたりと止まった。
新着メール五通。
慌ててとび起きてメールを開くと、全部サクからだった。昨晩十二時ごろに三通、今朝になってからが二通。昨夜は日付が変わる前に不貞寝をするみたいに寝ちゃったし、今朝は特に用がないから早く起きようなんて全く思っていなかった。ひゃー。
五通のメールを要約すると、昨晩最初の「ごめん」から始まって、「もう寝ちゃった?」「明日またメールするから」。朝になってからの「まだ寝てる?」。そして最新のは「ちゃんと話したいからいずみの部屋行っていい?」だった。
メールに返信をして、寝起きの頭で頑張って計算をする。サクの家からここまで、何分かかるだろう。メールを見てすぐ家を出たとして、一時間弱くらいかな。
着替えて、顔を洗って、部屋を片付けるくらいの時間はあるだろうか。
私の必死な計算を無視して、ギリギリ着替えが終わったくらいでタイムリミットになった。チャイムが鳴る。無駄に高性能のカメラ付きインターホンを確認すると、サクの顔がアップになって見えた。
早すぎでしょ。
「どうせまだ起きてないんだろうとは思ったんだけど。気が急いたから、近くでコーヒー飲んで待ってた」
「そういうこと、先に言ってよう」
わかっていたらまだ寝ているふりをしながら部屋の片づけをして、準備万端整えてから「来ていいよ」とメールを返したのに。
昨日の服は脱ぎっぱなしでベッドの隅に寄せてある。夕飯用のカップラーメンの空容器は流しの隅に。まあ、床に脱ぎ散らかしとかテーブルに置きっぱなしとかじゃないからまだマシか。こういうとき、普段の行いが功を奏する。
とはいえ、そもそも、普段のこの部屋の状況を知っているサクに対して強がってみせる意味もないのだけれど。
灰色の封筒とその中身だけは、サクが玄関で靴を脱いでいる間に引き出しの奥に突っ込んだ。
「ごめん。もうちょっとゆっくり来た方がよかったよな」
勝手知ったる我が家のように入ってきて、鞄を下ろしつつソファに腰掛けたサクが軽い調子で言った。
「なんで今さら」
「だっていずみ、Tシャツ裏返しに着てるから」
――ああ、道理で首元のタグがくすぐったくないと思った……じゃないよ。
「サクが苛める」
「俺のせいじゃねえだろ」
たしかにサクのせいではないんだけれど。遅起きで慌てん坊の私のせいなんだけれど。とにかく急いでTシャツを表にして着直した。
それから時間稼ぎをするように狭いキッチンでお茶を入れる。もたもたと準備をする私に、サクも急かすようなことは何も言わなかった。
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