第19話
恋人のいる生活っていうのはそれだけで薔薇色になるものかと思っていたら、そんなことはなかった。思った以上に前と変わらなかった。
っていうか、何も変わらない。
「あれ、もうみんないるんだ。早いねえ」
「おそよー、いずみ。私らが早いんじゃなくて、いずみが遅いんだからね」
サクと私が彼氏と彼女になって数日。
いつものラウンジでいつもの五人で集まる。サクと私が付き合っていることは他の三人には秘密だから、本当にまったく何も変わらない。
「ひどいよ祐子。私、ちゃんとお昼には来てるじゃん」
時計の針は長いのも短いのも、仲良く十二を指していた。早いじゃん。まだ正午。
「午前の講義あんのに正午に来るのが早いって、その思考がもうダメだろ」
「サクもたまにはいいこと言うよね」
「ほんと、たまにだけどな」
「もう。祐子ちゃんもタロくんも、そんなこと言ったら可哀想でしょ」
傍から見ているとありきたりのコントにしか見えないけれど、真理子に叱られたタロは本気で落ち込んでいるように見えた。どんなに些細なことでも、真理子の賛同を得られないと悲しいらしい。
ここまであからさまにもかかわらず、全く真理子に気付かれていないというのも可哀想ではある。
それでも毎日一喜一憂のタロは楽しそうだ。付き合ってもいないのに、ある意味毎日が薔薇色だ。
それに比べてちゃんとお互いの気持ちを認めあっているにもかかわらず、私たちはなんて灰色なんだろう。
いや、灰色なのは私だけかもしれない。サクがどう感じているかなんて、わからないし。
それに私だって、それなりに楽しんではいる。
「あ。ねえサク、次の講義、前回のノートコピーとらせて」
「いずみ、先週出てただろ?」
「半分寝てたんだもん。今日小テストなのは聞いてたけど、講義の中身は覚えてない」
「自信満々で言うなよな」
呆れ半分で笑いながらも、サクはノートを手渡してくれた。それを持って、コピー機に走る。
企業広告付きのタダで使えるコピー機を駆使して、テスト範囲のページをがつがつと複写する。写本がどうのとか、木版印刷がどうのとかいう言葉が目に入った。手書きでせっせと本を写していた昔の人たちは、こんな簡単に機械でじゃかじゃか複製できる未来が来るなどと、想像しただろうか? いやしなかっただろう。反語。
最後のページをコピーしてから、その場でコピーに頁数を振った。ノートと違って綴じられていない彼らが風に飛ばされなんかしたら、ページを直しているだけでテストの時間になってしまう。先人の言葉を借りるなら、転ばぬ先のなんとやら、というやつ。
ついでに原本の最後のページにもこっそりとペンを走らせた。コピーを左手に、原本を右手に持ってテーブルに戻る。原本を受け取ったサクはノートを開いて一瞥すると、すぐにノートを閉じた。
「……そろそろ行こーぜ、いずみ」
「え、もう行くの? 早いって。もうちょっとだらだらしたい」
頑張って引きとめてみるけれど、荷物を持って立ち上がるサクは止まらない。
「コピーしただけで点取れるわけねえだろ。ここじゃどうせ読まねえんだし」
「うう……」
私もダラダラと荷物をまとめて、真理子と祐子と、ついでにタロに手を振って別れた。
彼氏さんのご機嫌取りも、毎日を楽しく過ごすために大切なお仕事だ。
***
「いずみさ、かわいいことすんなよ。照れるだろ」
黙って教室へ向かうだけかと思いきや、ラウンジが見えないほど遠くなった辺りでサクが口を開いた。どうやらなかったことにはしてくれないらしい。まあ、いいけど。
「だってさ、そのくらいのことしないと、面白味ないじゃん?」
「なに、これは面白味からきた行動なわけ?」
サクはちょっと呆れたらしい。私もちょっと呆れた。好きだからだよ、とか嘘でもいいからせめてそのくらい言えれば女の子らしくもなれるのに。
結局、彼氏ができても私の頭はちっとも女の子らしくなってくれない。薔薇色なんて、夢のまた夢。
「まあ、いいけどさ」
やがてサクは独り言みたいに呟いて、それから小さく笑った。どうやら何かを諦められたらしい。ちょっとムッとしないこともないけれど、それも仕方がない。
私がやったことは単純だった。ちょっとした悪戯みたいなものだ。
借りたノートの最後のページに、ありがとって書いて、ついでにハートマークを入れて返した。隅っこに小さく書かれたそれを、サクもよく見つけたものだと思う。
わざわざ書く必要はなかった。普通に口で言えば事足りたはず。それどころかハートマークなんて、誰かに見られたらタダじゃ済まない。でもそこをあえて文字にするスリル。付き合っているんだって言う実感。面白味。
クラスメイトのたくさんいる教室で、秘密の手紙のやり取りをするような。
「またなんか借りたいもんあったら言えよ?」
「ほんと? やった、得した」
「お前な」
もうちょっと可愛げを、とか言いかけたんだろうか。でもサクはそれ以上何も言わずに黙ってしまった。言うだけ無駄だと思ったのかもしれない。実際無駄だろうって私も思う。
いまさら可愛げなんて、借りたくても誰も貸してはくれないだろう。
教室に着くと私たちは、当たり前のように隣同士に座った。
今までだって隣だったけれど、同じ隣でもちょっと違う。距離がちょっと近いとか、肩が触れているとか、そういうことは些細な違いでしかないけれど、心の持ちようは全然違う。
でもそんな甘ったるい気分に浸っていられる時間はあんまりなかった。
「いずみ、そんなスピードで見直してたんじゃ間に合わねえよ。さっさと次のページ」
「えええ。だってまだここ、読んですらいないよ?」
「そこは飛ばしたって大した失点にはなんねえって。それより次のページ重要だから」
私の文句を聞きもしないで、サクはさっさとプリントを捲る。せっかくノートをコピーしたのになんの意味もない。サクがつきっきりで教えてくれるなら、コピーじゃなくてそのままサクのノートを見ていればよかっただけなのに。
まあタダだったし、遊べたからいいんだけど。
「はいじゃあここ。十秒で読んで」
「大事なんでしょ? ゆっくり読む」
「そんな暇ねえっつーの」
話している間に十秒くらい過ぎちゃったんじゃないだろうか。それでも一応私が急いで読んでいる間は待ってくれる優しさ。
いや、この優しさはただの友人であっても当たり前か。
それでも彼氏らしい雰囲気は、そこかしこに感じられた。教え方、話し方、隣り同士の距離感、言葉の遣い方、声のトーン、ふとした表情。
今まではどうだったのか、今日になったらどう変わったのか、明確に言い表せるわけではない。けれど明らかに、これまでとこれからとでは違うのだという予感を持たせる何かが、そこにはある。
「なに笑ってんだよ」
「え? ええと、なんでもない」
いつの間にか口元が緩んでいたらしい。サクに見咎められるのはちょっと恥ずかしかった。恥ずかしいと思っていることからして恥ずかしい。そんな心の内を知られないためにも、頑張ってノートのコピーを目で追った。
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