第20話

 休み時間はあっという間に終わった。それに比べて、小テストの時間のなんと長かったことか。解けないテストの間は、時間が亀よりゆっくり進んでいるように感じた。


 それでも小テストが終わって解説の講義まで終わってしまえば、それで今日の私のスケジュールは終了だった。いつもならここで次の講義のあるサクと別れて、私はラウンジへ行くか直接帰るかの選択を迫られる。

 今日はそこにサクが、新たな選択肢を提示した。


「次の俺の授業、人多いからもぐれるけど、来る?」


 お言葉に甘えて、講義の内容が何とも知らずにサクの隣を陣取った。

 教授の声はさらさらと爽やかな風のように、右の耳から入って左の耳へと抜けていく。

 そんなことよりも傍らにサクの体温を感じられることが、案外真剣に黒板を睨むサクの横顔を見ていられることが、ノートに並べられるサクの丁寧で整った文字を追えることが、ただただ嬉しかった。

 なんか、恋人って感じ。


 しかし熱っていうのは、意外と早くに冷めるものだ。


 三十分もするとサクの隣に座っているという幸福は薄れて、サクの横顔にも飽きて、サクの書く字には嫌気がさしてくる。なんで男のくせにこんなに字がうまいの。私の雑な字に対する嫌味ですか。


 俯いてみたり自分のノートに落書きをしてみたり、ちょっとうとうとしてみたりしても、時間はなかなか過ぎてくれない。講義はあと一時間近くも残っている。その果てしない時間をどう乗り越えればいいのか、考えただけでもうんざりする。


 私が明らかに退屈しはじめたからだろうか。横からするりと滑るようにノートが突き出された。


『ヒマならしりとりしよーぜ。りす』


 ノートの端に書かれた小さな字に、退屈もうんざりも一気に吹き飛んだ。『りす』の下に小さく黒い縞模様つきの球体を描いた。スイカ。せっかくだから、絵しりとりにしよう。


 ノートを返すと、サクは暫く真面目な顔をしてノートを見つめてから、講義メモを取っているような仕草でカリカリと何かを書き始めた。再びやってきたノートの端には、黒くて四角い物体の絵があった。真ん中に丸く光るレンズの絵。カメラ。


 カモフラージュの上手いサクを傍目から見ても、絵しりとりなんてやっているようにはとても見えない。それに対して私は講義を聞く振りすらせずに、精一杯の集中力を払って黙々と、お腹の上に貝を載せた哺乳類を描いた。


 貝の陰影が満足に仕上がったところでノートをサクに戻す。ちらりとノートを確認したサクはまた淡々と続きを描くかと思いきや、唇の端っこだけだけれど、ちょこっと笑った。


 サクのほんのちょっとの表情の変化なんて、教授の位置からはわかるはずがない。教授だけじゃない。誰にも見えない。私だけが知っている。


 サクはササッとシャーペンを走らせて、すぐにノートを回してきた。私の力作の「ラッコ」に比べて、なんと制作時間の短いことか。けれど案外うまくて、そこには私がよく買ってくるお菓子に描かれた動物が、お菓子の絵そのままに書かれていた。コアラ。


 時間が過ぎるのはあっという間だった。

 講義の九十分がこんなにも短く感じられたのは、初めてかもしれない。果てしないなんて考えたのは、いったいどこの誰だ。


 案外私の毎日も、薔薇色なのかも。

 サクと付き合っている――その事実だけで、私の心はこんなにも浮かれている。


***


 ……だめだ、やっぱり灰色かもしれない。


 本当にこんなんでいいの?

 心の中でも思っているし、実際に口に出して確認もした。口に出したとき、いいに決まってんじゃんと当のサクが言っていたのだから、きっといいんだろうけれど。それでもやっぱり、不安というか、情けないというか。


 ラーメン屋に来ていた。私がよく来るラーメン屋。別に美味しいからよく来るわけじゃない。家から近くて安いからよく来るんだ。


 何が食べたいかと聞かれてすぐにぱっと思いつかなかったから、つい、いつも食べているものと思って、ラーメン、なんて答えてしまった。


 付き合って初めてのデート、初めてのディナー。それが学生の溢れるラーメン屋でラーメン。そんなばかな。友人同士のときに行ったレストランの方が、まだ気が利いていた。


 今日ばかりは自分でさえ「いくらなんでも」と思えてくる。いくらなんでも、学生ラーメンなんて。いくらなんでも、色気がなさすぎるんじゃない?


 だからって、色気を出す方法なんて知らないんだけれども。


「なんだよいずみ、黙りこんで。そんなに腹減った?」


「減ってない」


 サクだって何も言わないけれど、きっと呆れているに決まっている。そうでなくても自分で自分が情けない。私の女の子要素っていうのは、一体どこに行っちゃったんだろう。

 それとも元からないものを探し求めたって、仕方がないのか。


「そんなに気ぃ遣わなくったっていいって」


 たまりかねたように、サクがちょっと真面目な声で言った。サクは優しいから、いつもは大切なことでもだいたい冗談に混ぜて言ってくれる。でも、本当に本当に大切なことは、ちゃんと真面目な声で言う。


 だからこれはきっとサクにとって、とっても大切なことなんだと思った。しかし、だからって、素直に甘えることはできない。


「だって、付き合う前となんも変わんないじゃん」


「変わるって。少なくとも、こんなに長い時間二人きりでいたのは初めてだろ? な?」


 長い時間、と言われて今日一緒にいた時間を指折り数えた。

 昼休みの終わりにいつものメンバーと別れてから基本的に二人きりだったと数えて、それから今まで。二時、三時、四時、五時、六時。五時間は二人でいる計算か。

 二人きりでこれほど長い時間いることは、本当になかっただろうか。いつもの五人で長いことお喋りしていることはあった。そのうちの三人くらいで飲み明かすことだってあった。でも、三人から一人減って、二人になったときと言ったらどうだろう。


 たしかに、なかったかもしれない。


「なかったんだね」


 あっても不思議じゃないと思ってた、と言おうとしてやめた。それはつまり私が、二人きりっていう特別さを全く意識していなかったってことだ。実際意識していなかったわけだけれど、そんなちょっと可哀想な事実をわざわざ言葉にする必要はない。


「ま、いずみがそんなこと気にしてないってのは知ってるけどさ」


 言葉にしなくても、ばれてた。


「でも俺は今んとこ、こういう関係になれたってだけで十分だし。いずみは今まで通りのいずみでいていいからさ。何か変わりたいって思ってるなら、ゆっくりでいいだろ」


 サクは優しい。私が変わりたいって思っていることも、それでも変わるのは面倒くさいって思っていることも、きっと全部お見通しなんだ。


 なにか気の利いた答えを返したいと思ったけれど、その前にラーメンが到着したから、大人しく麺をすすることにした。喋りながら食べるなんて芸当はできないし、喋ってから食べたのでは麺が伸びる。


 慣れた麺だからちゃっちゃか食べ終わった。けれど早く食べ終わったからといって、食べる前の話題に戻るのも、おかしいような気がした。


 せめて話題を変えることくらい、私の役目にしておきたい。

 それからせめて、話題の進展を。そうすれば私だって、少しは「いくらなんでも」から脱却できるんじゃなかろうか。


「ねえこの後、私の部屋、来る?」


「へ?」


 サクの返事はずいぶん間の抜けた感じの声だった。私の部屋に来るかって聞いただけなのに、だいぶ驚かれている。サクは優しいから遠慮して言い出さないのかと思っていたけれど、もしかして、思い至ってもいなかったなんてこと、ありえるだろうか?


「部屋って、いずみ。何言ってるかわかってる?」


 さすがに思い至っていなかったわけじゃないらしい。どちらかというと、私が思い至っていることに思い至っていなかったのかな。なんて複雑な。そしてなんて失礼な。


「サク。いくら精神年齢小学生以下の私だって、さすがに大学生なんだから。そのくらいわかるよ。来るの、来ないの?」


「い、行く。行っていいなら、行く」


 私の口調が不機嫌になったからか、サクはちょっと慌てたように言った。

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