第18話
ふと気がついたのは、窓の外が薄明るくなってきた頃だった。
昨日は真理子とサクに付き添ってもらって自分の部屋まで帰ってきて、二人に礼を言うのもそこそこに、すぐに寝てしまった。二人は大学へ帰ったんだと思う。
熱でぼんやりしていてもちゃっかり午後の授業のノートを頼む私を、サクはどう思っただろう。
そんなふうにしてお昼頃に寝始めて、ときどき目を覚ましながらも起き上がったりはしないで翌朝、つまり今を迎えた。ずいぶん長く寝ていたことになるけれど、目が覚めてみると昨日のぼんやりはどこへやら。頭がすっきりと冴えていた。
もしかしたら、寝不足だったのかもしれない。睡眠時間が少なかったわけではないけれど、毎晩のように夢を見るのは、眠りが浅い証拠だったんじゃないだろうか。
それでも結局見ちゃうんだから、阿呆だよなあ。
もうほとんど熱っぽさなんてなかったけれど、念には念を入れて、枕元に置きっぱなしにした体温計を脇に挟む。
体温を測る間、たった今見た夢を思い出す。
いつもと違って今日の夢は、ずいぶんあり得る夢だった。
実際にあったかどうかは覚えていないけれど。でも初めてビリヤードに行ったときなんて、そんな感じだったんじゃないだろうか。
デートの行先はビリヤードかカラオケが常だったし、翔とのデートで行くまで、私はビリヤードなんて行ったことがなかった。たぶん私は初めてであることを恥ずかしく思ったはずだし、翔の前で弱いところを見せたくなくて必死だっただろうと思う。だから、現実にも、言うべきことは何も言わなかっただろう。
そんなところまで、夢は忠実だ。
――好き、って。ただ、そう言えばよかっただけなのに。
ピピッと体温計が鳴る。昨日測ったときには三十八度あった熱が、三十五度まで下がっていた。ちょっと下がり過ぎの感はあるけれど、平熱だからいいよね。
立ち上がると、お腹がぐーっと鳴った。
シャワーを浴びて、コンビニでご飯を買ってこよう。夢の中で食べたご飯じゃあ、現実のおなかは満たされない。
翔との付き合いは、もう夢の中のことでしかない。
言えなかったことを現実に口にする機会がもうないってことも、私はちゃんと理解している。大丈夫。夢と現実の区別はついているはずだ。
***
コンビニ弁当を平らげて空の容器をまとめていたら、スマホがテーブルの上で振動した。
たぶんサクからだっていうのは振動する前からわかっていて、だからろくに画面を見もせずに耳にあてる。
「もしもーし」
『いずみ、熱下がった?』
期待を裏切らない声が電波に乗って耳に届く。心底心配しているみたいなその声に、ちょっとだけ申し訳なく思う。こんなに想ってくれているのに、熱に浮かされた私が夢に見たのは、貴方じゃなった。
「下がったよ。でもさ、ちょうどいい口実だから、今日も一日さぼっちゃおうかと思って」
『心配かけんなよー。メールにも返信ねえし』
ごめん、全く見てなかったよ。
サクがあんまりにも真面目な声で話すから、そんなふざけた単純な事実を口にできない。
「ごめんごめーん。なんか、メール打つのも面倒くさくって」
『ホントに熱下がったのか? ちゃんと飯食ってる? 面倒とか言うなよ?』
「大丈夫だってば。ちょうど今、コンビニで買ってきた朝ごはん食べ終わったとこ」
『ならいいけど』
サクの声が、安心したのかちょっと緩んだ。それでいい。それがいい。あんまり重い声で話さないでほしい。重くなればなるほど、申し訳なくなる。
『真理子があとでそっち行くって言ってたから、ついでに俺も行っていい?』
「え、真理子が? なんで」
『みんな心配してんだって。有難く思えよ』
みんな、というとタロとか祐子とかもなのかな。本当に有難い。私って、恵まれてる。申し訳ないほど恵まれている。
「じゃあさ、真理子お手製のお粥が食べたいって言っといて」
『お前な』
せっかく恵まれているんだから、せいぜい我儘を言っておく。このくらいの我儘だったら許されるでしょ。サクは呆れているけれど、たぶん頼まなくたって、真理子はお粥を作ってくれる。
夢と現実をわけるものは何だろう。
究極のところ、夢っていうのはたぶん私の頭が勝手に作っている映像にすぎない。だから夢は、私の我儘の塊。
じゃあ現実は?
私の我儘じゃないとしたら、なんでサクは優しいんだろう。なんでみんな私なんかのことを心配してくれるんだろう。なんで真理子はお粥を作ってくれるんだろう。
夢だって現実だって、結局は私の都合のいいようにできてるじゃないか。
そう考えれば、夢の方がタチは悪い。
だって結局現実に引き戻されて、あれは夢なんだと思わずにはいられないから。どんなに幸せでも、夢は夢。私の妄想にすぎない。現実ではありえない。目を覚ましたその瞬間に、それを思い知らされる。
だったらやっぱり、夢なんかよりも現実を大切にした方がいいんだと思う。
現実だって、こんなに恵まれていて、こんなに都合がいいんだから。
『どーした?』
いろいろ考えているうちに、いつの間にか黙り込んじゃったらしい。サクの声に、ふと現実に引き戻された。
「なんでもない。……ううん、なんでもある」
『どっちだよ』
笑い交じりのサクの声を聞きながら、これが現実だ、と思った。現実。夢よりもタチのよい、私にとって都合のよい現実。
「ねえサク、私のこと好きなんだよね?」
『は?』
この電話を取ってから初めて、サクが口ごもった。そんな突然、とか、唐突に、とか、言い訳みたいにもごもごと言葉を濁す。しばらくして、決心したような、それでも若干ふてくされたみたいな声で返答があった。
『好きだよ、悪いか?』
「悪くないよ。私もサクのこと、好きだよ」
電話の向こうの空気が固まった気がした。その一瞬の間に、私の頭はフル回転する。
これでいいんだ。これでいい。
言えなかったことを彼に言う機会は、もう二度とない。そんな夢を、いつまでも追いかけていてはいけない。私は現実を生きていかなきゃならない。生きていくことができる。
翔のことがまだ好きか、なんてわからない。
でも少なくとも、サクが好きという言葉にウソはない。
だからこそ、今度は言いのがしたりはしない。
『……本当に?』
震えるような、珍しく弱気な声が電話から響いた。私が夢と現実とで迷っていた二週間、彼はずっと不安だったんだろうな、なんて。今にして気付く。
「本当だよ。私は、サクのことが好き」
せめてもの償いに、電話の向こうの現実の彼に、私はできるだけ優しく答えた。
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