第17話
「おはよう、いずみちゃん。また授業で寝てたの?」
ラウンジで一人静かにお人形さんのように座っていた真理子は、私を見るなりそう言った。そんなに寝起きっぽい顔をしていますか私は。
「今日はちゃんと起きてたよう。ねえ、サク?」
「ん、俺が寝てたから知らねえけど」
そういえば、そうだったっけ。授業開始後、ひそひそ話を終えて間もなく、隣でかくんと頭を落としたサクのことを思い出す。
あっさりとしたサクの言葉に、真理子が悲しげにため息をついたのは言うまでもない。
「サク君、もうすぐテスト期間だよ?」
「へーきへーき。今の講義、テストじゃなくてレポートだし」
「え、そうなの? なんだ、必死にノート取って損した」
「いずみちゃんっ」
私の冗談に、真理子が眉を吊り上げた。冗談だってば。でも冗談を冗談で流さない真理子がいなかったら、私は去年、必修授業で落第して留年していたに違いない。
真理子さまさまだ。
「真理子ぅ、ありがとうねぇ。今の私があるのは真理子のおかげだよぅ」
私は真理子の隣の椅子に腰かけながら、私は投げやりに言った。口調は投げやりだけれど、ちゃんと気持ちは込めているつもりなんだよ。
今年もよろしくという下心さえ込めているんだから。
腕をテーブルに投げ出して、頬をテーブルにつける。
昼休みが始まって、ラウンジが混み始めていた。今日はカップラーメンを持って来ていないから、なにか買いに行かないと行けないのに。買いに行く気力が萎える。おなかが減ってるわけでもないし、まあいっか。
「いずみちゃん、今日は元気ないね」
真理子が小首を傾げた。かわいいなあ。この顔を見たらタロに限らず、どんな男でも心動かされないやつはいないに違いない。
「たしかにいずみ、さっきからなんかおかしいよな。テスト前だからか?」
「おかしくなんかないもん。どんだけ私テスト嫌いなのさ。暑いだけだって」
「今日、そんなに暑くねえよ?」
隣に座ったサクの手が、ぬっと私の顔に伸びてきた。まあつまり、私のおでこに手が当てられたということで。
「熱、あるんじゃね?」
自慢じゃないけれど、風邪なんて滅多にひかない。
知恵熱かもしれないなあ、とか。もしや何かに憑かれているのかも、とか。
色々考えているうちに、真理子に背を押されサクに手を引かれて家に帰らされた。
***
手を引かれて、歩く。
引く手は優しいというより強引だった。それでも私は力強く私を連れて行くその手に、安心感を抱いている。でもちょっとだけ、不満もある。
「ね、翔。何をそんなに急いでるのさ」
私が呼びかけると、翔はぴたっと足を止めた。あまりにも急だったから、ぶつかりそうになってしまう。ぶつからないように、翔の方がちょっとだけ避けた。
「わりい。速かった?」
「別に大丈夫だけど。なんか、もったいないじゃん。せっかく二人で歩いてるのに」
恋人としてデートするなんて、週に一回あるかないかだ。その時間を大切にゆっくりと過ごしたいなんていうのは、わがままな願いだろうか。
「ああ、たしかに。たまにはかわいいこと言うじゃん」
「ごめんやっぱりウソ。しゃきしゃき歩こう」
照れ隠しというか強がりというか、かわいいと思われることがひどく恥ずかしかった。
今度は、私が翔の手を引いてがっつがっつと大股で歩く。
行き先は決まっているんだし、行った先でだって恋人同士であることには違いないんだし、今ゆっくりしたって仕方ない。それをちょっと甘えてゆっくり歩こうなんて、私らしくないですよね。わかってますよ、そのくらい。
「あの信号を右だよね」
「そう。なあ、悪かったよ。機嫌直せって」
「別に、機嫌悪くなんかないよ」
歩くのが速いって、友達にもよく言われる。その私がさくさく歩くのなんていつものことだし、むしろそうでない私なんて私らしくない。そのうえ翔は男の子だ。私のスピードにもちゃんとついてきてくれる。だったら、ゆっくり歩く理由なんてどこにあるんだか。
いつもの速さで歩けばいい。
彼氏と彼女というより、兄と妹か、姉と弟みたいに見えるかもしれないと思った。大丈夫、今だけだから。ビリヤード場なんてロマンティックなところに入れば、きっと恋人同士に見えるから。
***
「ねえ私、ビリヤードなんてやったことないんだけど」
これ持って、と言われた長い棒を持って、翔が九つのカラフルな球をきれいな正三角形に揃えるのを眺めながら私は言った。
「テレビとかで見たことは?」
「んー。ドラマでちょっと」
長い棒を、記憶に残るドラマの一場面の真似をして構える。サマになっているとも思えなかったけれど、ほかに構え方を知らない。球のセットが終わって振り返った翔に笑われて、慌てて構えを解いた。
「なんでやめんのさ。いいじゃん、カッコいいって」
「ウソ。じゃあ何で笑うのさあ」
「いいから、もう一回やって」
近づいてきた翔に言われて、もう一度同じように構える。緊張しちゃって、全く同じようにはできなかった気がするけれど。
「そうそう。それで、右手がこうで、左手がこう」
背中側にぴったりとくっついた翔が、手とり足とり――いや、足はなかったけれど――構えをちょこっとずつ直してくれた。
「それで、その白い球を突いてみて」
言われるままに、えいっと白い球を突く。乱暴にやったものだから球は大人しく転がってはくれなくて、小さく跳ねながら他の球に緩く突っ込んでいった。
ぶつかられたいくつかの球はゴロゴロとゆっくり散らばって、奇跡的に、球の一つが右の穴にすっぽりと収まる。ガコンと、思ったより大きい音がした。
球が穴に落ちたのが嬉しくて振り返ったら、翔がけらけら笑っていた。
球を跳ねさせたのが面白かったらしい。
「わ、笑わないでよっ」
「いやいや、初心者だなあと思って」
「だから、言ってるでしょっ! 初めてなんだってば!」
「はいはい。まあやってるうちに慣れるだろ。交互な」
私が持つとただの棒にしか見えない棒も、翔が持つとキューと片仮名で呼びたくなるくらい、翔の持ち方はサマになっていた。たぶん、慣れているんだと思う。そのままカコッといい音を響かせて球を突く。
私が突いたときとはうって変わって、球はスピーディかつスマートに、滑るように転がった。カラフルな二つの球が、ごとんごとんと穴に落ちる。
「ひゃー、かっこいー」
「惚れ直した?」
「えっと、いや、別に」
本当は結構ときめくものがあったのだけれど、悟られたくなくて、私はすぐにもう一度、自分なりに棒を構えた。
うまく球を落とせたら連続して球を突いていというルールを知ったのは、後になってからだ。球を落とす順番とかも、全く意識しなかった。ハンデだったのかルールの説明が面倒だったのか、なんだか知らないけれど。とにかくそのときは、ただ交互に白い球を突いて、どれでもいいから球が落ちたら喜んでいた。
キューを背中にまわしたり、慣れた感じで構える翔はとても格好よかった。私がうまくできなくてジタバタしているときに、一緒にキューを持ってくれる翔はとても頼もしかった。私があっちこっちに球を飛ばすのを見て笑う翔は、子どもっぽくて可愛かった。
その気持ちをなんという言葉で表せばいいのか、そのときの私は知らなかった。わかっていても多分恥ずかしくて、翔にそんなことは言わなかったんじゃないかと思う。
私は何も言わないままに、ただ楽しい時を過ごした。翔だって、何も言いはしなかった。
しばらくビリヤードに没頭してから近くのファミレスに入って早めの夕食を楽しんで、それから駅で仲良く別れた。
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