第16話
「はよっす、いずみ」
いつものラウンジじゃない。国語国文学科の必修講義の教室で、サクに声をかけられた。
サクは当たり前のように私の隣に座る。当たり前だ、いつもそうなんだから。
「お、はよー……」
なんだかとっても気まずくて、私は机に突っ伏したまま、眠たいフリをしながら中途半端な答えを返す。
「……いずみさ、眠くないだろ」
え、なんかその質問、おかしいよ。
顔を上げると、口をへの字に曲げたサクがいた。なんと言えばいいだろか。
サクはつまり私が眠たくもないのに眠たいフリをしていることを言っているのであって、つまりは眠たいフリをする理由を含めて私の心を全て見透かして言っているんである。
こないだの土曜日に同窓会があったことなんて、サクはとうに知っている。だって、私が自分から、それを期限と区切ったのだから。
下手にごまかすことは、もうできない。
それでも答えることができずに視線をそらすと、サクは隣で、さっきまで私がやっていたようにだらっと机に突っ伏した。
「いやならいやって言えよなあ。俺だって、へんな期待を持ち続けたくはねえよ」
「いやなわけじゃないんだよ。ただ、同窓会じゃ気持ちの整理がつかなかったんだ」
なんともいじわるな返答だ。私は一体いつまでサクを待たせるんだろう。サクのことはいやにはならない。けれど自分のことは本当にいやになる。
会話が途絶えたそのままに、先生が入ってきて講義が始まった。中古文学。
中古といっても使い古しとかいう意味じゃなくて、平安時代とかその辺りの時代のことを文学史で「中古」って言うらしい。なんとも紛らわしいネーミングだ。
よぼよぼの先生が、源氏物語がどうとか和歌の歴史がどうとかを粛々と語り始めたところで、私たちは小声で会話を再開した。
「いずみって、やっぱ元カレ好きなんだろ」
「んん、ちょっと違うかも」
「じゃあ、同窓会と俺への返事とになんの関係が」
「いや、たしかに元カレに関わる話ではあるんだけど。うまく説明できない」
「なんだよ、それ」
強いて言うなら、元カレにちゃんと好かれていた、かもしれないことが同窓会でわかったっていうところだ。でもこれだけじゃ、サクにとってはなんの説明にもならない。私だってよくわかっていないんだから。
先生の声が、右耳から入って左耳から抜けていく。
そう言えば高校の頃、平安時代のうんちくとして夢の話を習わなかったっけ。奥さんから遠く離れて旅をする詠み手が、自分の夢に出てきてくれない奥さんの気持ちを疑う歌。
夢に人が現れるのは、自分がその人を想っているからじゃない。その人が自分を想っているからだ、って。
それでいくと、毎晩のように翔が夢に出てくるのは、私が翔のことを考えているからじゃなくて、翔が私のことを想っているからなんだろか。私は最後まで翔に好かれていた。
実は、今でも好かれている……。
それはそれでちょっと怖いな、とか。
ロマンティックな気分が台無しになるようなことを考えてしまった。
***
「まあ、いっか」
講義が終わって教室を出ると、サクは突然吹っ切れたような、無理矢理吹っ切ったような声で言った。
何が? と思ってちょっと見上げる。
「俺は元カレのこと好きないずみでも好きだし。俺の気持ち知ってもらっただけでもよしとしよう。気が向いたら返事ちょーだい」
なんだか、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
とても優しいことを言ってもらっている。私なんかにはもったいない。
サクはチャラくて、それでもサークルの副部長までできちゃうしっかり者だし、きっと引く手あまたで女の子には困らない。それなのに私なんかを選んで、そのうえ、こんなに返事を待たされても、まだ好きだとか言っている。
「ごめん」
「いずみが謝ることじゃねえよ。俺が勝手に言ってるだけだし」
サクはからっと笑った。無理しているのか自然な笑顔なのかも、私にはわからない。
嫌いなわけじゃないのに、そんなことを言わせてしまう自分がすごく情けない。申し訳なくて、深く溜息をついた。私が謝ることじゃない? そんなわけがない。
たしかにサクが私を想うのはサクの勝手だ。けれどその気持ちに、どういう形であれ決着をつけさせないでいるのは、私だ。
「あ、でもさ」
俯いてとぼとぼ歩いている私の横で、サクは軽い調子で続けた。
「元カレとより戻すことになったら教えろよ。そしたら、きっぱり諦めるから」
「ありえないよ、それは」
「いやいや、俺こう見えて諦めはいいよ?」
「そうじゃなくて。私が元カレとよりを戻すことが、ありえないんだって」
私はもう一回、深く溜息をついた。
翔と私がよりを戻す。現実的に、これほどありえない話はない。全くもってありえない。
太陽が地球に落っこちてくるくらい、ありえない。毎晩夢には見ているけれど、ありえないと言ったら、ありえない。
ありえないからこそ、夢に見るのかもしれない。
「そうか? いずみ見てると、相手さえその気なら、ありえそうだけどなあ」
「サクは翔のことを知らないから、そう思うんだって」
翔のことを知っている人なら、私によりを戻せなんてまず言わない。きっと、早く忘れろって言う。ただ、翔のことを知っている人は、誰も私と翔が付き合っていたことを知らない。だから、そんなことを言ってはくれなかったけれど。
「いずみの元カレって、どんなやつ?」
「いやなんじゃなかったの? 元カレの話」
素朴な疑問だったんだけれど、言ってから、ちょっと嫌味っぽかったかなと思って反省した。まあ言ってしまったことは元には戻らないし、サクもちょっと口を尖らせた程度だったから、いいか。
「そこまで言われると逆に気になるって」
「そういうもん? 翔はねえ……プレイボーイって言うの? とりあえず、女の噂が絶えたことはなかったな。三股ってのも聞いたことあるくらい。あ、私と付き合ってるときは除いてね」
付き合っている間のことなんかを付け足してはみたけれど、その間は私が噂に疎かっただけかもしれない。あとから考えると、本当に噂がなかったのか自信はない。このあいだの中村や金沢の話からすると、本当に噂はなかったのかもしれないけれど、実際のところはわからない。
「いずみって、そーゆーのと付き合ってたの? 意外だな」
「なにさサク、自分のことは棚に上げて」
「はあ? 俺、こう見えてそんなに経験はないっすよ?」
「嘘。それはないでしょ、そのイケメンで。さては振りまくって女を泣かすタイプか」
冗談で言っただけなのに、サクは斜め上を向いて何かを考え込むしぐさをした。それから一人で納得したみたいに何度か頷く。
「んー、そうかもしんねえ」
「うっわ。嫌味な男だ」
「うるせえな。好きでもないのに付き合ったりする方が嫌味だろ」
「その台詞がすでに嫌味でしょお」
私はポカポカと、サクを殴る真似をした。サクの方では腕に抱えたクラッチバッグを盾にする。明らかに戯れとわかるこの喧嘩は、知らない誰かの目には恋人同士の痴話喧嘩として映るんだろうか。それとも、単なる友達に見えるんだろうか。
そもそも、恋人っていうのと友達っていうのとの、違いは何なんだろう。
「いずみ、どうかした?」
気がつくとポカポカやっていた手が中途半端な位置で止まっていた。歩いていた足も止めてしまったせいで、一歩先に進んだサクに心配される羽目になった。
「ううん、なんでもない……」
付き合ってくれ、と。彼女になってくれ、と。そう言われて、うんと頷いた。
でも本当に私と翔は付き合っていたんだろうか。
こうしてサクとふざけて話しているのと、翔と遊んでいたのと、何が違うんだろう。
翔は私との関係を、どう思っていたんだろう。どんな関係になりたかったんだろう。
考えれば考えるほど、よくわかんなくなってくる。
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