過去を排泄する男

@fumeinadebaisu

第1話

「本当に大事なものは無くした後に分かるって、本当なんだなァ」


 目の前には小さなガラステーブル、その上にはヤニの染んだレースの敷物。白い壁も同様にヤニじみて、天井際から茶色のグラデーションを帯びていた。

 本来客用だっただろうソファーは、この倦んだ空間の空気そのもののような中年男に占領されている。私と差し向かいの客は対照的で、彼の皮ジャンは型こそ古いもののよく手入れされ、場違いなほど艶を放っていた。


「うちの場合はさ、絵本なんだけどさ、父親が赤いフォルクスワーゲン・ビートル買ってそれに子供を乗せるのよ。どこ行くと思う?動物園なの」

 石澤――皮ジャン男の名だ――が口の端を歪め、吐き捨てるように言った。


「動物園ってさあ、糞の臭いするじゃん? 新車で真っ先に行く場所じゃないでしょ。それで次の日にまた行くでしょ、今度はどこかと思ったら海なの。砂が入るだろって!

 だから馬鹿馬鹿しいと思ってさあ、ずっと嫌いだったわけ。それが……大人んなって結婚してさあ、子供が出来るじゃん。そしたら車買って、週末に遊びに行く訳じゃん。そしたらさ、あっ、あの本読ませてやりてえな……ってふと思うわけ。

 でももうガキの頃の本だから捨てたじゃん?ねえのよ、探したけど」


 言い切る前に皿を繰り返しレンゲで擦る音がして、石澤が鋭く視線を投げかけた。最後の一口を集める音だ。

 90°捻れた横顔は正面より若かったが、血走った目は驚くほど老いていた。


「石澤さん」


 タンクトップ姿の男が――何もかもが草臥れた部屋の中で、彼のタンクトップは比較的マシな方だったが、今餡かけ炒飯の染みが完全に台無しにしたところだった――こちらに向き直り、石澤と目線がかち合った。

 次の瞬間、口元に手を当て軽く前屈みになる。

 途端、口から何かが滑り出た。本だ。先程まで米と油の塊だったものが男の胃を経て、外に出た瞬間に姿を変えたのだ。


「はい、おまちどう」


 私は息を呑んだ。というよりも、驚きのあまり息ひとつできなくなっていたと言う方が正確だろうか。

 中年男は微笑んで――そのむさ苦しさと不釣り合いに、男の声も笑みも極端なまでに柔和であることに私は気付いた――絵本を差し出す。石澤も驚きの表情を浮かべていた。しかしそれは明らかに、手を尽くして探しぬいた本とようやく再会する喜びの驚きだった。


 早口に何か礼を言うと石澤は素早く踵を返し、階段を早足で下って行った。絵本を検める必要を思い出して我に返ったものの、車のドアが閉じる音がして、その後すぐさまエンジンがかかる音が聞こえた。遅かった。

 追うのを諦めると、倦んだ空気の中で男と向き合うしかない。また混乱と驚愕が戻ってきて、冷静に立ちまわるための正常な思考能力が失われ、何の役にも立たない数個の同じフレーズばかりが空回りするのを感じた。

 ありえない。どんなトリックを?ホットリーディング。手品。

 何も喋らないことで怪しまれたところで、何かされる訳ではないだろう。だからといって、このまま見つめ合って突っ立っているのが最良とはとても言えなかった。なにせ相手はだ。私がここへ来たのはまさしくそのためで、ここに来たくなかったのもそのためだ。

 何か言わなければ。何か言わなければ。


「ト、トイレどこですか!!」


 動揺を無駄に印象付けないようにしつつ、この場から去って体勢を立て直す機会を得て、かつ過去に思いをめぐらすことのない答え。動揺の真っ最中にあるにしては我ながらいいアイデアだと思う、声が大きすぎて不自然であることを除けば。

 しかし敵の動きは予想をはるかに超えていた。

「ないんですよ、トイレ」

「え!?」

「ご覧の通り、食べたらすぐ『過去』にしてしまうので……申し訳ありません」

「あ、そ、そ、そ、そうですか……」

「下のテナントの方に頼めば、多分使わせて貰えると思うんですが……」


 なんて日だろう。いや、なんて連中だろうと言うべきか?

 本当にトイレに行きたかったならもう漏らしていたに違いない。いつの間にか男の後から中年の女が現れていた。超常現象に限らず、ありとあらゆる手で脅かされている気分だ。

 眼鏡に黒だか紺だか分からないタイトスカート。男のビジネスを手伝うスタッフか何かか?

 そう思った瞬間、さらに女の後ろから飛び出て来たのがおそらく答えだった。男のミニチュア版と言うほかないタンクトップ姿の少年。男同様の五分刈りだが、顔立ちにはそこはかとなく女の面影がないでもなかった。親子。

 少年は私の知らない何かのフレーズを口ずさむと、母親の腕にじゃれついた。


「あ……えーと……じゃあ、今日は帰ります」

「『過去』はいいんですか?」

 女が小首を傾げてじっと見つめてきた。商売人め。

「え、ええと……よく考えたら何にするか決めてなかったので……ま、また後日ということで……」

「……そうですね、あせらずじっくり決めていただいて結構ですよ。大事なことなので」

「そ、そうですね……五万円って結構高いですし」

 神経質な笑い。(やったぞ恵、最高の誤魔化しだ!)

「そ……そういえば石澤さん、さっきの男の人はお金渡してなかったみたいなんですけど、先払いもあるんですか?」

「ええ、石澤様はネット予約された際にクレジットカードでお支払いなさいました。秋池様もいますぐ次回の面会を予約いただければ先払い可能ですが」

「い、いえ、ゆっくり考えます。どうもお時間ありがとうございました」

「こちらこそ、ご来店ありがとうございました」

 さらに食い下がるかと思いきや、女はあっさりと退いた。詐欺ではないから、無理して金をむしり取る必要がない。反射的にそんな一文が脳裏に浮かんだ。


 そうして私は石澤と同じようにビルを立ち去った。階段は真昼なのにうすら暗く、お世辞にも雰囲気がいいとは言えない。

 この街にも地方都市の常として慢性的な不景気の波が押し寄せ、一等地近辺でも不審なビジネスの住みつく空き店舗には事欠くことがない。その中でも古びた小ビル最上階の元オフィスらしき物件、それもこんな状態の悪い物件を選ぶ商売は風変わりであり、既にそれだけで一際の警戒を要するように感じられる。

 しかし、そんなことは実際目にしたものに比べれば今や些細なこじつけでしかなかった。


 商店街に出るとさわやかな風が通りを抜けて行った。春が早くも終わりつつあることを知り、同時に全身に冷や汗をかいていたことを思い出させられる。いたずらを見つかりかけた悪童のようだと思ったが、次の瞬間にはなんと不適切な喩えなんだろうと思う。実際、私達は子供に対する怒れる大人か、あるいはそれ以上の何かと向き合わねばならないのだが。


 数日前。


 招待メールの文面から察した通り、会場はホテルのカンファレンス向け大部屋で、予定時刻前であるにもかかわらず既に人が集まり始めていた。思ったよりも多く、年齢も性別も様々。その様子に若干奇妙な、自分でもよく分からない安堵を覚える。

 若い女性が二人盛んに喋って盛り上がっており、その声がどうしても耳に入った。しかし、会場を見渡せば他の面々はまばらに離れ、隣に人がいても口をつぐんでいた。いかにも不愉快な過去を抱えた面持ちの者もいないでもなかったが、大半は単に無表情だった。

 やがて通路から別の騒がしい声が聞こえ、如何にも変わりものの学者といった風情の老人が、大荷物を抱えて助手らしき若者と共に入ってきた。若干場がざわつき、若い女のクスクス笑いが聞こえた。


 定刻の約二分前になると、スーツ姿の若い男が演台に立ち、無線マイクの準備を始めた。

「なんだよ、さっきのおっさんが主催じゃないのか」

 後ろの方で男の声がした。

「えー……皆様」

 スーツの男が喋り出し、即座に会場から他の声が消えた。

「本日はお忙しい中、過去を排泄する男の実在性についての集まりにご参加くださり誠にありがとうございます」

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