お母さんの元彼が我が家に転がり込んできた話
澤田慎梧
お母さんの元彼が我が家に転がり込んできた話
うちにはお父さんがいない。
お父さんが死んだのは、私がまだ小学校低学年の頃だ。だから、お父さんの記憶は殆ど残っていないんだけれども、優しい人だったことだけはよく覚えている。大きな温かい手で「弥生は賢いな」と言って頭を撫でてくれた、その感触だけは。
お父さんが死んでからの数年間、辛いこともあったけど、私とお母さんは二人三脚で頑張って来た。
お金はあんまりないけれど、時々ケンカもしたけれど、それでも平和で穏やかな生活が続いた。
けれども、私が中学二年の夏。私達の生活は一変した――。
「ねぇねぇ、弥生ちゃん。卯月……お母さんは?」
「……母ならもう、仕事に出ました」
朝、出勤するお母さんを見送ってからいそいそと登校の準備をしていると、お母さんの寝室から寝ぐせ頭の中年男がのっそりと出てきて、私に尋ねてきた。
だらしないトレーナー姿で、ズボンが少しずり下がってパンツまで見えている。年頃の娘の前で、あまりにもデリカシーに欠ける恰好だ。
「そっかぁ。……じゃあさ、弥生ちゃん。ちょっとおじさんとお話しない? 実は話しておきたいことが――」
「ごめんなさい、学校に遅刻しますので。じゃあっ!」
男の言葉を遮るようにして、玄関へと駆け込み靴をつっかけたまま外へ出る。
鍵はかけない。あの男も合鍵を持っているはずだし、戸締りする甲斐性くらいはあるらしいから。
――あの中年男の名前は
歳はお母さんと同じくらいの四十そこそこ。「昔はイケメンだったかも」と思える程度には整った顔をしているけれども、私にとってはただのだらしない中年男だ。
思春期の娘がいる家に転がり込める神経も信じられないし、先ほどのようにやけに私になれなれしく、「二人きりで仲良くお話」をしたがる。おおよそ、この世の不快を全て詰め込んだような人だった。
そもそも、お母さんもお母さんなのだ。元彼だかなんだか知らないけど、私がいるのにあんな得体のしれない男を追い出しもせず、家に住まわせているなんて! 私が襲われでもしたらどうするのだろうか?
実は、その事が原因でお母さんとは少し冷戦状態になっている。
あの男が来てから、お母さんは明らかにおかしくなっていた。些細なことですぐに怒るようになったし、小言が多くなった。
あまり汚い言葉や強い言葉を使わない人だったのに、最近では「ふざけんな!」とか「死んじまえ!」とか、罵詈雑言が飛び出す飛び出す。「女は男で変わる」だなんて、何かのマンガで言っていた言葉を信じたくなったくらいだ。
そして、それよりも何よりも、一番困るのが「夜」だ。
あの男が来て以来、夜な夜なお母さんの寝室から「アッー!」だとか「ウゥーッ!」だとかいう、圧し殺した声が聞こえてくるようになったのだ。どうやら、いやらしいことをしているらしい。これはたまらない。
実母の喘ぎ声を聞いて気分が悪くならない娘がいるだろうか? もしいたら、是非とも私に連絡してほしい。「図太い・オブ・ザ・イヤー」を進呈するから。
――それはともかくとして。
そんなこんなで、温かい我が家は今や針のむしろになっていた。お母さんとの会話も極めて事務的なものになっていて、無味乾燥だ。
それなのに、元凶であるあの男――賢哉はヘラヘラしているものだから、私の怒りは最早限界に達していた。
「なにそれ、ひどくない!?」
「でしょでしょ? もう、私げんかーい!」
その日の放課後。「あんまり他人に話すことでもないから」と我慢していた私の糸はプツリと切れて、一切合切を親友の
場所は駅前のカラオケ店。メクドナルドでも良かったんだけど、他の人に聞かれたい話でもなかったので、個室のあるこちらにしたのだ。
「ん~。弥生っち、最近何だかカリカリしてるな~、と思ってたけど、まさかそんなヘビーな事情が。……ウチにでも避難する?」
「うん。いざとなったら、お願いするかも……。別にさぁ、お母さんがどっかの男とヤリまくってようと構わないんだけどさぁ……家に連れ込むのは、ホントやめて! って感じ。私が襲われでもしたらどうするつもりなんだろ?」
カラオケは一曲も歌わぬまま、飲み放題のドリンクを物凄い勢いで消費しながら、ひたすら真亜美に愚痴る。
みっともないことこの上ないけれども、真亜美は嫌な顔一つせず、私の話を聞いてくれていた。持つべきものは親友だ!
「そのオッサン、二人きりの時に弥生に近寄って来るんでしょ? マジヤバイよ、それ!」
「うん……出来るだけ二人きりにはならないようにしてるんだけど、今朝みたいにうっかり出くわすこともあるから、ホント怖い」
「とりあえず、スマホはいつも取り出せるようにしておこっか? あと……こういうアプリもあるからさ――」
その後、真亜美が調べてくれた「防犯ブザー」アプリや、ボタン一つで登録した番号にメッセージが送信され110にも通報してくれるという「SOS」アプリをスマホに入れてから、私はとぼとぼと帰宅した。
――でも、真亜美には悪いけど、結局それらのアプリが役に立つことは無かった。
***
「おかえり弥生ちゃん」
「――げっ」
帰宅すると、賢哉が家にいた。
何の仕事かは知らないけれど、この男も一応は働いているはずで、いつもなら夜遅くに帰って来るのに。今日はやたらと帰りが早かったらしい。
「気持ちは分かるけど、そんな嫌な顔しないでくれよ。……今朝も言ったけど、話しておきたいことがあるんだ。着替えてからでいいから、付き合ってくれないか?」
「……それ、母が帰って来てからでもいいですか?」
「いや、卯月には聞かせられないんだ。弥生ちゃんと二人きりで話したい」
言いながら、こちらへズイッと近寄ってくる賢哉。――思わず背筋に寒気が走る。
気付けば私は、カバンからスマホを取り出して「SOSアプリ」の画面を賢哉に突き付けていた。
「こ、来ないでください! それ以上近付けば、これ押しますよ! 大きい音鳴ってお巡りさんとか私の友達とか呼び出しますから!」
「ちょっ……!?」
我ながらテンパっていて言葉足らずだったけれども、賢哉には十分伝わったらしい。眼を真ん丸にして驚いた顔をしていて、私は非常時にもかかわらず「あ、こいういうのを『鳩が豆鉄砲くらった顔』って言うのか」等と思った。
「あの、そういうんじゃなくて、俺は――」
「だから! それ以上、近寄らないでください!」
それでもなお私に近寄ろうとする賢哉。
私はスマホを持ったままじりじりと玄関の方へ向けて後退する。いざとなったら、「SOSアプリ」のボタンを押した瞬間に玄関から逃げ出して外へ助けを求めに行くつもりだった。
――その時、私の背後で玄関のドアが開く音がした。
「……なにしてんの? アンタ」
振り向くと、そこにはお母さんが立っていた。真っ青な顔で「信じられない」と言ったような険しい表情をしている。
助かった。私に迫った現場をお母さんに見られれば、流石の賢哉も言い逃れ出来ないだろう。これでお母さんもこの男に愛想を尽かし、我が家に平和が戻るはず。思わず、ほっと胸をなでおろす。
けれども、次にお母さんの口から飛び出した言葉は、思いもよらぬものだった。
「アンタ、何アタシの男に色目使ってんのよ!」
「……えっ?」
能面の般若のような顔をしたお母さんの怒りは、なんと私に向けられていた。
――いやいやいや。明らかに「賢哉が私に迫っている」光景が、どうやったら「母親の男を誘惑している娘」に映るんだ?
お母さんは、本格的に頭がおかしくなってしまったのだろうか?
「お、落ち着けよ卯月! 弥生ちゃんがそんなことするわけないだろ!? 俺だってそうだよ!」
「嘘よ嘘よ! やっぱり若い女がいいんだわ! 私がいない間にヤリまくってたんでしょ!」
慌てふためき、お母さんを宥めにかかる賢哉。けれどもお母さんはますます激昂して、今度は賢哉に食ってかかっていた。
髪をかき乱しボロボロと涙を零して喚き散らすお母さんの姿には、近寄りがたいものがあった。怒ったり泣いたり、真っ赤になったり真っ青になったり……数秒の間に、お母さんの表情が別人のように移り変わっていく。
これは、これは一体誰だろうか? こんなの、私のお母さんじゃない。
お母さんのあまりの狂乱振りに、私の世界がぐにゃりと歪む。
――けれども、その歪んだ世界が今度はひっくり返るような言葉が、お母さんから飛び出した。
「賢哉! この鬼畜! よりにもよって実の娘に手を出すなんて!!」
***
「――お母さん、寝た?」
「ああ、薬がよく効いたらしい。今はすやすや眠ってるよ」
お母さんの狂乱から数十分後。我が家はようやく落ち着きを取り戻していた。
騒ぐだけ騒ぐと、お母さんは今度は電池が切れたように大人しくなった。一人で立つこともおぼつかなくなり、賢哉が支えながら寝室に連れて行って寝かせ、何かの薬を飲ませていた。
それでもお母さんは「行かないで、ねぇ行かないで」とうわ言のように繰り返すので、眠るまで賢哉が傍にいてくれた、という訳だ。
私はその間、殆ど動けずにいた。あまりにも沢山の、思いもしなかった出来事が起きて思考が麻痺していたらしい。
「さて……今度こそ、話を聞いてくれるかい? 弥生ちゃん」
「はい……」
そこから、賢哉の――私の本当のお父さんの、長い長い話が始まった。
事の始まりは、お母さんが私を妊娠した頃までさかのぼる。
当時、恋人同士だったお母さんと賢哉は、子供が出来たことをきっかけに結婚しようと考えていた。けれども、何か些細なすれ違いが原因で二人は結婚することなく別れたらしい。
賢哉いわく、「してもいない浮気を疑われた」のだという。若い頃のお母さんは、かなり思い込みが強く嫉妬深い性格だったそうだ。
その後、お母さんがシングルマザーとして私を育てていた時に出会ったのが、私の記憶の中にいる「お父さん」だったらしい。
二人の結婚はまだ私が赤ん坊の頃のことだったので、私がその事実を知らなかったのも無理はない。お母さんも、そんなこと一言も言っていなかったし。
賢哉も「お父さん」とは何度か会ったことがあるらしく、「とても良い人だった」と言ってくれた。私にはそれが、なんだか嬉しく感じられた。
その後、「お父さん」は死んでしまったけれども、お母さんは賢哉に頼ることもなく、女手一つで私を育て上げた。だから賢哉もそれを尊重して、私に会いに来るようなこともなかったらしい。
けれども、数か月前に突然お母さんから連絡が来たのだそうだ。その理由というのが――。
「実はね、卯月は……君のお母さんは、病気なんだ。それも、ちょっと厄介な」
「えっ――」
私は全く知らされていなかったけれども、お母さんはしばらく前から重い病を抱えていたのだ。
――脳腫瘍。脳の一部に悪い腫瘍が出来て、様々な害をもたらす病気だ。
「腫瘍自体はそれほど大きくなくてね、すぐ命に別状がある訳ではないんだけど、根気強い治療が必要になるんだ。しかも、患部が脳だから、体調だけでなく心にも影響が出やすくてね。……最近の彼女、やけに怒りっぽかったり、神経質だったりしただろ? あれも多分、病気や治療のストレスが原因なのさ」
「そんな……。私には、そんなこと一言も!」
「多分、心配かけたくなったんだろうね。医者から告知された時も、『ご家族を呼んでください』って言われたのに、ご両親や弥生ちゃんじゃなくて、俺を呼んだくらいだからね」
病気のことを知らされた賢哉は、突然の呼び出しだったにもかかわらず親身にお母さんの相談に乗ってくれたようだ。
そのことで「焼け木杭に火が付いた」らしく、二人は十数年ぶりによりを戻したのだとか。
「お母さんも不安だったんだよ。俺が来てからも、夜な夜な声を殺して泣いていたよ。まあ、俺の方は元々未練たらたらだったんだけどさ」
照れながらそんなことを言う賢哉の顔は、いつもより若く見えた。今まではただの「不愉快なおじさん」でしかなかったけど、いつの間にか私の中の嫌悪感は消えていた。
まあ、どうやら私の実の父親らしいし。嫌う理由が無くなった、という方が正解かもしれない。
……父親。そうだ、この人は私の父親なんだ。でも、だったら何故――。
「あの……どうして最初に会った時に、『自分が本当の父親だ』って名乗らなかったんですか?」
――そう。賢哉が最初から父親だと教えてくれていれば、私もおかしな誤解をせずに済んでいたのだ。何故、言ってくれなかったのだろうか?
すると、賢哉は少しばつが悪そうに鼻の頭をかきながら、こう言った。
「いや……だってさ。弥生ちゃん、死んだあの人のことを本当の父親だって思ってたわけでしょ? 大好きだったみたいだし。なんか、俺が父親だって名乗り出たら、それに水を差しちゃわないかなぁ、とか思っちゃってさ。アハハ」
その言葉で、何となく分かった。
賢哉は――私の実の父親は、優しい人だったらしい。
***
「わぁっ!? そんなことになってたんだ!」
「うん。ごめんね、しばらく連絡できなくて……」
「いいよいいよ! で、お母さんは、今は?」
「うん。だいぶ症状も落ち着いて、今はお仕事も休んでるけど、このままならすぐに復帰出来るって」
「そっかー! 良かったね、弥生!」
――数か月後。私はいつものカラオケ屋で、真亜美にいわゆる近況報告をしていた。
ここ数ヶ月はてんやわんやで、真亜美とゆっくり話す時間もなかったのだ。
賢哉から話を聞いた後、私はお母さんと二人きりで色々な話をした。お母さんは病気やストレスのせいで、まだ少しおかしかったけれども、根気強く話した。
沢山文句も言った。「なんで病気のことを黙っていたの」とも。でも結局、最後はお母さんに縋り付いて、小さな子供みたいにワンワン泣いてお母さんを困らせてしまった。その事は真亜美には内緒だ。恥ずかしいから。
お母さんと一応の仲直りを済ませた私は、賢哉を手伝ってお母さんの治療をバックアップすることになった。
今までも家事は手伝っていたけれども、それ以上にお母さんの面倒を見るようにしたのだ。
もちろん、そのことでお母さんの回復が早くなった――なんてことはない。お医者さんに言われた通り、これからも長くて辛い治療が待っているそうだ。
でもきっと大丈夫だ。私達は乗り越えて行けると思う。
私とお母さんはもう二人きりではなく、うちには「お父さん」もいるのだから――。
(了)
お母さんの元彼が我が家に転がり込んできた話 澤田慎梧 @sumigoro
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