空を紡ぐ

壱ノ瀬和実

空を紡ぐ


 東堂とうどう美哉みやは欠伸をしながら空を見上げた。飽きるほど見ている、故郷の青い空だった。

 岐阜県揖斐川町。かつて春日村と呼ばれていた地域に美哉は住んでいる。

 何もない場所だ。世界中どことでも繋がることが出来る時代。だからこそ分かる。本当に何もない。

 家の周りは山と川だけ。車で少し上ればキャンプ場があり、夏場は人が大勢来るが、どうしてわざわざこんな山奥に、と美哉は理解ができない。

 冬場にはそれなりに賑わうスキー場があったが、随分前に閉鎖されてからはただ山菜の生る傾斜だ。

 十月の村内はほどよく涼しい。美哉は外に茣蓙を敷き、ちょこんと座って昼食を待っていた。今日の昼はバーベキューだ。夏や秋に焼き肉を食べようという話しになると祖父は決まって炭の用意をし始める。家族は面倒臭がるが、外で食べる肉は美味いという点は皆共有しているので、別段反対したりはしない。

 両親は車で街に下りて、必要なものを買いに行った。週に一度、移動販売者が食料品を売りに来るが、それで事足りることはない。

 取り残された美哉は、秋めいていく雲を見上げながら、自身に迫るタイムリミットに、思いを馳せていた。


 美哉は来年二十二歳になる。大学を卒業し、社会人への道を歩み始める年齢だ。だが美哉は、大学にも会社にも属していない。

 美哉は焦っていた。

 三年前。高校生だった美哉には選択肢が用意されていた。

 両親はおおらかで、美哉に進学をしろとも就職をしろとも言わなかったが、まさかそのどちらも選ばないとは思ってもみなかっただろう。

 美哉も好き好んでそうした訳ではなかった。

 小中学校は地元の学校に通うことができた。だが高校はそうはいかない。この山奥に高等学校なる場所は存在しないのだ。

 仕方なく街に下りて、全校生徒辛うじて二桁という学校から、急にヤンキーたちの集う田舎町の高校に入学した瞬間、美哉は絶望というものを知った。

 ――無理だ。私にはこんな世界、無理だ。

 山村の狭い世界から飛び出した時、そのあまりに違う人の有り様にとてつもないギャップを覚えた。

 容姿、立ち居振る舞い、言葉遣いに至るまで、純朴を絵に描いたような人間しか見てこなかった美哉にとっては異界のそれであった。進学するとは、社会に出るとは、村を出るとはこういうことなのだと思い知ったとき、美哉は、自分の居場所は村にしかないと悟った。

 美哉が取ることのできる選択肢は一つ。

 この何もない村で生きる。それだけだ。

なんもないなんもない言うんやったらどっか行ったら良かったがね。上京する言うんやったら金は出したるでって、じいちゃんも言っとってくれたんやから」

 母はそれを、口癖のように言った。

 根本から違うんだよ、お母さん。美哉は心でぶう垂れる。

 母も分かっているのだ。美哉の性格を誰より分かっているのは母で、高校生時分、母の前でどれだけ弱音を吐いたかを思えば、母の言葉が本心でないことは美哉にも分かる。

 いつか母は言っていた。

「遅かれ早かれこうなるとは思っとったけどね」

 つまり、そういうことだ。

 引っ込み思案で内弁慶。兎角人と接することが苦手な少女が年月を重ねて大人になったところで、相応の社交性を手に入れられるとは限らない。むしろ悪化の一途を辿ることもある。子供の頃には柔軟だった心のあり方も、コンクリートのように、時間が経つほどに固まっていく。

 自分とは違う存在と共に生きる。その当たり前が、美哉には恐ろしくてたまらなかった。

 その点この村は良い。勝手知ったる人たちと、特に深く付き合うでもなく、狭いコミュニティの中で生きることができる。

 美哉はこの村が好きだ。こんなに心地良い場所とは出会えるはずがない。

 村を出たいとは思っていなかった。何もないことに不満を覚えているだけだ、嫌いというわけではない。

 でもやはり、

「退屈な場所だ」

 両親が買い物から帰ってくるまでバーベキューの準備は進められない。縁側から下りてすぐのところに敷かれた茣蓙は、現状、美哉の現実逃避の場所になっていた。

「何かしなきゃならないってことは、分かってるんだよ、私も」

 すぐそこを流れる川の音が聞こえる。せせらぎと言うほど優しい音ではない。昔はよく足を付けて遊んでいたが、今では恐怖が勝つ。大人になるとは、恐れを知ることなのだろう。

 空を見上げていると嫌でも物思いに耽る。

 一人の時間は、自分と向き合う時間でもあった。

「そういえばあんた、昔何か書いとったけど、あれはどうしたの。将来の夢やって言っとったでしょう」

 昨夜の母の言葉が頭に響く。今ここにいないくせに、うるさい親だ。


「あー。あったね。そんなのも」

 美哉は雑に返した。虚を衝かれた思いだった。黒歴史という奴だ。掘り返してくれるな、と美哉は思った。

 風呂上がりの母はビールを呷りながら、遠慮の欠片もなしに問うてくる。

「やりたいって言っとったのは小説やった? 漫画やった?」

 両方、とは答えなかった。

 昔の夢は昔のものだ。今思い出したら、大概が恥ずかしさの引き金にしかならない。

 美哉には夢があった。

 物語を作ることだ。

 別段プロになりたいということではなかった。おままごとの延長で、頭の中に浮かぶ物語を形に出来たら、これ以上楽しいことはないだろうと思った。

 作家になるとまで言ってしまえばイコール、プロ、ということになるのかもしれないが、そんな甘い世界じゃないことは想像しなくても想像が付く。自分なりに自己満足の世界で作品にできればいいと思っていた。

 だが気付く。自分には、才能がない。

 まず絵が下手だった。

 美術の授業でリンゴを描くことになった時、幼馴染みの由利は、「これはリンゴだ」と誰もが理解出来る絵を描くことができていた。

 美哉のリンゴは、見るからに萎んだ干し柿だった。

 赤を塗れば良いものを、陰影を付けようと橙色を手にした瞬間に全てが橙色になった。漫画は無理だ、と思い知った瞬間だった。

 小説は、一応チャレンジした。素人のお遊びなのだ。文章の善し悪しは置いておけば良くて、楽しんで書いている内は筆が進んだ。

 書き始めて二日目。美哉は力尽きた。

 あまりに酷い文字の羅列に美哉は絶望を覚えた。見るに堪えなかったのだ。

 パソコンのキーボードを無造作に叩き、画面に文字なのか記号なのか分からないものがバーっと並んだとき、美哉は「日本語って難しいな」と呟き、その瞬間から、美哉は夢というものをゴミ箱に放り投げた。

 何事も続かない。思いを抱いても、美哉の中に定着しない。その前に諦めてしまう。美哉の人生はそんなことの繰り返しだった。始めること、続けること、美哉には、そのどちらも難しい。

 母は言う。

「何かあれば良いんやけどね。大層な人間にならんでいいで、食うに困らんくらいのもんがあれば」

 母は美哉に「働け」とは決して言わなかった。「夢があるなら追えば良いじゃない」とも言わなかった。どうせ叶わないと分かっているからだろう。

 だから言う。「何かあれば良い」と。

「何かってなんだ」

 美哉は反芻する。

 それがないから困っている。それを探そうともしていないのが、正直なところでもあった。


「美哉ちゃん」快活な祖母の声が響いた。台所からだ。「じいちゃんが上のおうちで炭やら何やら準備しとるで、ちょっと手伝ったって」

 上の家、とは坂を上った先にあるかつての東堂家のことだ。田舎百姓の掘っ立て小屋のような家で、美哉の父は幼少期をそこで過ごした。今は物置になっていて、炭なんかもそこにある。

 美哉は返事もせず腰を上げた。

「行ってくれる?」と様子を見に来た祖母が顔を覗かせながら言う。

「うん」短く返した。

 美哉は祖父母と会話をするのが得意ではない。両親よりも遠い存在であると、心のどこかで思っているからだ。

 だらしのない格好で歩いた。パジャマだ。普段着でもある。

 坂道をのんびり上れば三分ほどで上の家に着く。あまり気が乗らない。祖母と話す以上に、祖父と話すのは苦手だ。

 祖父、ただしは、何をしているのかよく分からない人だった。畑や田んぼの世話をしているのだろうが、毎日そうしているのかは分からない。泥に塗れていることもあれば、木片を小脇に抱えて帰ってくることもある。自発的に声を出すことが少ない祖父は、同居する美哉にとっても謎だった。

 後悔していた。何故茣蓙から立ってしまったのか。答えは簡単だ。祖母に「行け」と強く言われるのが嫌だった。祖母は優しい人だが、怒らせると怖い。有無を言わさない何かがある。手伝いたくないと言うと、祖母はきっと能面のような渋面で美哉を睨んだだろう。居心地の良い我が家も、そうである為にはそれなりに気を使う。

 三分はあっという間だった。

 秋の涼しげな風にも薄ら汗を掻いて、少し息も切らしながら辿り着いた小屋の前で、祖父は大量の稲を抱えていた。

 何それ、と聞かなくても分かる、あの稲は、わらじを作る為のものだ。天日干ししていたものを片付けていた。

 この村には祭りがある。秋の風物詩、太鼓踊りだ。わらじはその為に作る。

 曾祖父が生前神主をしていたとかいう神社で、毎年男達が鮮やかな衣装を纏い、太鼓を抱えた踊り子達が8の字を描くように腰をくねらせながら、神様に五穀豊穣を祈る。

 笛の音と野太い男達の唄、そして太鼓が鳴り、この祭りの代名詞と言えるバンバラの音がかさかさと山の中に響くと、境内が神域らしく特別な空気に包まれる。

 バンバラとは、竹で編んだ高さ三メートルほどの骨組みに、何色もの色紙いろがみを貼り付けた採物だ。数人の踊り子達が円になって太鼓を叩くその中心で、一人の少年がバンバラを背負い、身体を揺らすと、高くまで伸びたバンバラがしなり、様々な形状の色紙いろがみが擦れあって独特の音を奏でる。

 祖父は最近、妙に忙しそうにしていた。きっと十一月の祭りを前に準備に追われているのだろう。祖父は祭りの保存会長をしている。わらじは踊り子達が履く物で、その全ては祖父が一人で作っていた。毎年笛も吹いているから、その稽古もしているだろうし。

 祖父が美哉に気付いた。

「手伝いに来たんか」

 美哉は咄嗟に、

「バーベキューのね」と言った。

「炭か」

「うん」

「そんならそこの炭、持ってきゃあ」

「全部?」

「おう」

 祖父の軽トラックの脇に、段ボール箱一杯の炭が置いてあった。

「重くて無理だよ」

「情けがねぇな」祖父は笑う。

 無口な人だが、話し始めると会話は成り立つ。黙っていれば怖いが、笑っているときはこちらも安心してやりとりができた。

「そこに台車あるで」と、祖父は一輪の手押し車を指差す。

 あれに炭を載せて坂道を下れと? 美哉は心底嫌だったが、ここでごねれば祖父の機嫌を損ねる。

「分かった」

 美哉は折れた。それが一番平和だ。

 錆びた青い一輪車に炭を載せる。この重さを持てなんてよくも言ったものだと思った。

 下り坂を勢いよく転がっていこうとする一輪車を必死になって踏ん張って、なんとか家の前まで運ぶと、「重たかったでしょう」と祖母が労ってくれる。しかし続けて、「台車上に戻しとかないかんよ」

「え、また行くの」

「ほらほうやろ」

 美哉に断る勇気はない。言われるがままだ。

 今度は必死になって一輪車を押す。真っ直ぐ進むことさえ難しい。

 上に着くと、祖父はかつて土間だったところにブルーシートを敷き、束ねた稲をずらりと並べていた。

「わらじを作らんならん時期やで」と祖父は言う。明日には村の古老と協力しながらわらじを編むのだと。少し前までは一人で編んでいたが、今は違うのだろうか。

 しかし、祖父は祭りのこととなると饒舌だ。楽しみにしているのが分かる。

 すると、美哉のスマホが着信音を響かせた。母からだった。

「お母さんもうすぐ家着くって。早くバーベキューの準備しなきゃ」

「ほうか」祖父は稲を広げながら言った。「はよう片付けなならんね」

「じゃあ、早めにお願いします」

 美哉は言い残し、その場を去ろうとした。

 だが。

「お祭り、好き?」

 声に出すつもりではなかった。思わず出た問いだった。

「年がら年中考えとる。これをやらにゃ、何もならん。神様に御礼をせにゃ。一年間無事に過ごせた御礼をね」

 祖父はもうすぐ米寿を迎える。

 美哉とは生きてきた時代が違う。子供の頃には戦争があった。当然、食えない時代があった。神様に祈る他ないような時代だっただろう。

 太鼓踊りは神様に感謝する祭りだ。神様に対する畏れのようなものは、間違いなく、美哉のような年齢の人間には考えられないほど、強くあるに違いない。

 だからこそ祭りは大切で、伝統を集落の人は守り続けている。

 しかし、祖父は続けて、こう呟いた。

「祭りももう、のうなってまうかも知れんが」

 ――のうなる。つまり、なくなってしまう。

「……どうして?」

「踊り子は若いもんやないといかん。もうおらんやろ。今おる子らも直におらんようなる。わしらが死んで、何年かしたら、祭りを継ぐもんがのうなる」

 終わる。

 祭りが。

 胸の中に、ほんの少し穴が空いたような感覚になった。

 特段の思い入れがあるものではない。それでも毎年祭りは見てきたし、踊りの休憩中に老人達からもらうお菓子やミカンを楽しみにしていた。同級生がバンバラを背負っている姿を見たこともある。けれどその彼は今、名古屋にいる。お祭りに来ることはない。今この町に、美哉と歳の近い人間は殆ど残っていなかった。

「じゃあ、なんでそんなに頑張るの」

 また言葉が不意に出る。

 稲を刈り、天日干しして、踊り子の足を採寸しに出かけて、わらじを編み、バンバラの世話、笛の稽古、本番は一日中立ちっぱなし。保存会長として、祖父は恐らく美哉が想像する以上に祭りのために生きている。

 でも、それもいつか終わってしまう。村を見れば、若い人は殆どいない。移住者はいるけれど、その人だけでは祭りは、文化は守っていけない。祭りの踊り子は男だけと決まっている。この村に若い力は残っていない。だったら、そこまでして守る意味って、ないじゃないか。

 美哉は素直にそう思った。

 そして祖父は、これまでに見たことのないような優しい顔をした。

「いつ祭りがのうなるか、まだ分からんけどね」

 祖父は分厚い手で稲を撫でる。

「今やらんかったら、今終わってしまうで」

 無意識に、美哉は鼻で息を吸った。木と埃と、稲の臭いがした。ほんの少し、冷たい空気に感じた。

「今年は祭りができる。来年もできる。再来年は分からん。十年もしたら人が足りんようなっとる。その頃にはわしもおらん。その頃んなったら、わしにはどうにも出来ん。じゃが、今はまだ動けとる。動けるんなら動かにゃ。何もせんうちに終わってまったら取り返しつかんで」

 胸が痛かった。

 停滞する自分を刺す為の言葉のように思えた。

 当たり前にあると思っているもの。いつまでも続くと思っている日常。焦りながら、行動を起こすことのない自分。

 歳の割には真っ直ぐな腰をさすりながら、祖父は美哉を一瞥した。責めるような目ではないが、訴えかけているように思えてならない。

「美哉は、やりたいことないんか」

 返答に困った。余裕を装うように、なるべく間髪を入れずに答えた。

「ない、かな」

 嘘だった。咄嗟の一言だったが、嘘を吐いた自覚があった。ある、と言う勇気がなかったのだ。あると言えば、それは嘘にはならなかっただろう。

 美哉には夢がある。

 夢は昔捨てた。そのつもりだった。だが、捨てきれないから夢なのだ。夢はある。夢を捨てた気になって、楽になる方を選んだだけだ。美哉にはちゃんと夢がある。

 物語を作ることだ。

 いつでも頭の中では物語とも呼べない物語がぐるぐると渦巻いていて、どこにも行き場のないストーリーは完結を見ることなく、美哉の脳内を浮遊する。それらを形にできないことが苦しかった。形にする手段を持たないことが歯痒かった。

 もう大人だ。大人にならなければいけない。両親は甘えさせてくれるが、家族の顔色を窺う日々は続く。それでも街へ行くよりはマシだからと、ここに留まることを選んだ。楽な道だ。だが息苦しかった。でも、この息苦しさは我慢することができる。このままでもいい。人生に対する焦りよりも、空気の薄い山間部の安寧が上回っていた。

 自覚はしている。美哉は、この人生がこのままいつまでも続けば良いなどと、誰よりも甘い考えで逃げ続けていたことを。


 祖父はバーベキューに使う台を抱えて坂を下り始めた。一緒に歩く必要はないが、何故だか美哉は祖父のすぐ後ろを歩いた。

 早く両親が帰ってくることを美哉は願っていた。この息苦しさも、両親の前では多少なりと癒える。

 ――ああ、また逃げている。

 美哉はそう思った。

 自分の居心地の良い場所を選んで逃げている。その場所も、決して永遠ではないというのに。

 家まで下りてくると、聞き慣れた車のエンジン音がした。両親の車だ。白い軽自動車が駐車場に滑り込んでくる。安心感を覚えて、また少し、自分を責めた。

 祖母と母が料理の準備を、父はバーベキューの台に炭を入れ、火を起こす。祖父は茣蓙に座っていた。美哉は祖父の前に座る。定位置だった。

「じいちゃんビールか?」父が問うと、

「ええ」

「飲まんの?」

「今日はええ」

「珍しいこともあるもんやね」

「また畑が残っとる」

「ほうか。美哉はどうする」

「ジュース」

「コーラしか買っとらんよ」

「それでいい」

「そんなら火の番しとってな」

 父は炭に風を送る為の団扇を美哉に渡して、飲み物を取りに家の中に入る。

 祖父は座ったまま無言で炭を見つめていた。祖父は一切家のことをしない。父は働き者だが、活躍するのはバーベキューの時くらいだ。基本、東堂家の男連中は仕事にのみ精を出す。時代錯誤かも知れないが、こんな山奥の人間にまで時代に順応しろというのも無理な話だろう。

 団扇の面を手のひらに打ちながら小さな風を炭へと送る。濃淡のはっきりしない炭が、風を送る度僅かにオレンジ色を光らせる。ずっと見ていられるなと美哉は思った。


 一家が揃い食事をするのはいつものことだった。今日は外だが、外で食べることも特段珍しいことではない。

 山間を抜ける優しい風は心地よく、鉄板から上る熱気をほどよく和らげ食が進む。

 食事時の会話を支配するのは祖母と母だ。父も祖父も、美哉もそこには入っていかない。

 美哉は黙って肉を焼いた。焼けた肉はすぐさま食べた。若い美哉でも霜降りの牛は脂っこい。豚や鳥を多く焼いたが、すぐさま取るのは父だった。美哉が頬をふくらませても、父は構わず豚を食う。

 小一時間でバーベキューは終盤を迎えた。

 残った野菜の切れ端を鉄板に載せて一気に焼き、麺を入れて焼きそば作る。

 祖母は既に片付けを始めていて、祖父は家に入り、恐らく昼寝をするのだろう。父はビールを飲みながら、

「じいちゃんもな、そろそろ休んで欲しいんやけどな」

「なんで?」

「去年じいちゃん脳梗塞やったろ。あん時は救急車ん中で『もう治った』って言って軽症で済んだで良かったけど。祭りや田んぼや畑やって言っとると、もう九十も近いで、歳も考えてもらわんとこっちが不安になる」

 自分がやりたいことを、やりたいようにやる。

 それだっていつまでも出来るわけじゃない。

 時間は有限で、時計の砂は確実に、一定の早さで落ちていく。残りの砂の量を知る術は、誰も持ち得ていない。

 美哉のタイムリミットはいつだろう。この集落の時間の砂はどれだけ残っている? この生活は、安息は、一体いつまでまで存在するのだろう。

「そ、っか」

 噛みしめるように呟いた。

 徐に口に含んだコーラは、随分とぬるかった。


 二階には美哉の部屋がある。両親の寝室でもあるのだが、寝るとき以外に二階に上がってこないため、夜が深くなるまでは美哉個人の部屋と言っていいだろう。

 小学生の頃から使っている勉強机の上で、ノートパソコンを開いた。

 久しく開いていないフォルダをダブルクリックする。

 名前は『小説1』。タイトルさえない、夢の残滓だ。

 俗に中二病と呼ばれるタイプの痛々しい文章が並ぶ。こんなものが書きたかったんだったか。今の美哉はそれなりに大人になって、この手の物語を好んではいても、思いつきはしなくなった。

 見ていられない駄文。

 だが。

「……楽しそう」

 見るに堪えない文章を、そうと気付かず嬉々として書いている姿が目に浮かぶ。

 少し眩しいと、美哉は思った。

 画面をスクロールしていくと、中途半端なところで文章がなくなっていた。書かれていないのだ。区切りさえないままに終わりを迎えている。

 当時の美哉が絶望を覚えた瞬間の足跡だった。

 続きは、永遠に描かれることはない。

 たった一万字程度の青春だった。

 今の自分はどうか。美哉は問いかける。

 何をして生きているのだろうか。何を以て、生きていると言えるだろうか。

 社会から逃げ、人から逃げ、焦り、同時に、何もしない自分をどこかで愛している。

 この安息も永遠ではない。

 ガー、ガー、と。轟くように、階下から大鼾が聞こえてきた。祖父だ。

 階段を下りると、畳の上で仰向けに転がる祖父が、大きな口を開けて眠っていた。

 髪は白い。がたいはいいが、昔ほど大きくはないように思う。

 ここまで元気でいることが奇跡と言えるような年齢で、まだ祖父は、眠りながら家中に生きている証を響かせることが出来る。

「うるさいなあ」

 そう言える今はとても幸せなのだ。

 有限の人生。まだ若い東堂美哉は、如何に生きるべきか。

 祖父の言葉を思い出す。

 母の言葉を思い出す。

 美哉には夢があった。

 夢と言うほど大それたものじゃなかったのかもしれない。

 それでも。

 あの日描いた理想の自分が、今の自分には眩しく映るなら、きっと無駄なものではなかったはずだ。

 後ろ向きな考えなのだろう。

 未来ではなく過去に思いを馳せる、愚かなことなのかも知れない。

 美哉は生きている。安息を求めて、喧噪から逃れて生きている。

 それを駄目だと思ったことはない。逃げている日々に後ろめたさは感じても、改めようと思ったことはない。息苦しさは生き様に起因したものではなく、生まれ持った性質に因るものだ。

 焦りはある。だがそれも、自分が決めたタイムリミットに準じればの話しだ。目を瞑ってしまえば、焦る理由さえない。

 そんな自分を蔑んで。

 そんな自分を愛して。

 美哉は下唇を噛んだ。

「ねえ、お母さん」

 台所で洗い物をする母の背中に、そっと呟く。

「もう少し甘えてもいいかな」

 母は食器をかちゃかちゃ鳴らしながら、

「あんまり裕福な家とは違うでね」

 声は、優しい。

「でもまあ、ありがたいことに米も野菜も困らんで、ええんとちがう? お腹さえ膨れれば何とかなるでね。大事なのは、ちゃんと生きていけるかどうかやで」

「いいの?」

 母は振り向いて、少し笑って見せて、また食器を洗い始める。

「何か見つかるまでは好きなだけ甘えたらええよ。甘えとけるうちに甘えとかなね」

「……甘いお母さんだ」

「ほんとよ。でもこんな甘いお母さんやなかったら、あんた今頃どうにかなっとるで」

「うん。そう思う」

 甘ったれた自分と、甘えさせてくれる環境に、とことんまで甘えていく。

 きっと世間じゃ許されないことも、この場所は許してくれるから。


 二階に上がる。階段が軋んだ。手すりは心許ない。襖を開く。椅子に座り、開いたままのパソコンと向き合う。

 クリックして真っ新なページを作る。

 美哉は、キーボードを叩いた。

 何もしてこなかった日々を嫌悪する訳じゃない。

 何かをしている自分にも、なってみたいから。

 自分の想いと向き合おう。

 何を書くかは決まっていた。書けるとは思わないが、書いてみようと思った。書きたいと思ったものがあったのだ。

 いつかなくなってしまうかもしれないもの。今だからこそ残せるもの。今自分が書かなかったら、他でもない自分が後悔してしまいそうなもの。

 この村のことを書こう。

 祭りのことを書こう。

 祖父のことを書こう。

 今日抱いたこの感情を忘れてしまわないうちに。

 何もない山の中で受け継がれ、確かに息づく文化と人を、決して忘れてしまわないよう、美哉は駄文を紡ぐ。

 書きながら分かる。本当に向いていない。想いだけではどうにもならないことを思い知らされる。

 だが、やめようとは思わなかった。

 何もしなくてもどうせ時間は過ぎるのだ。

 徒に空を見上げて自分の将来を憂うくらいなら、見上げた空の青さを表現しよう。

 まずはこの村の風景。そこに生きる人たちの生き様。そして、祭り。

 太鼓踊りを、バンバラを、踊り子を、そこに懸ける祖父の姿を。

 いつか終わってしまうかも知れない、この世界の有様を。

 気付けば、窓の外から青空が消えていた。

 夕映えの山間は、毎日のように見ても飽きることはない。

 祖父の鼾は聞こえなかった。畑に行っているのだろう。テレビの音と、母と祖母の世間話が絶えず聞こえる。父はきっと黙ってテレビを見ているに違いない。

 背もたれに身体を預けて、心地いい世界に五感の全てを委ねた。

 美哉は、生きている。

 過去にも、未来にも。

 そして物語は紡がれる。

 紡がれることで、永遠になる。

 そうなることを願って。

 美哉は今を、歩き始めた。

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空を紡ぐ 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam

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