輝く眼鏡に……

亜済公

輝く眼鏡に……

 彼女は眼鏡をかけていた。レンズはまるで鏡みたい。天井に明滅する電灯だとか、窓から差し込む夕日とか……そういう光を、節操なく反射する。だから、なのだ。眩しくって、彼女の眼鏡を――そして顔を、誰も直視できなかった。

「叔父さんが、作ってくれた眼鏡なの」

 ある時彼女は、そういった。

「反射率が、百パーセントを超えてるんだ」

 自慢げに、笑っているだろうその顔は、けれど、光に隠れてしまう。両目にかかる二つのレンズは、さながら太陽のようだった。

 ――思えば、彼女の本当の顔を、出会って以来、一度だって見たことがない。

 教室に、私達以外の影はなかった。天井に据えられたスピーカーが、ひび割れた声で最終下校時刻を知らせる。

「せぃとしょぐんは、ずみゃかにげこぅするょうにぃ」

 窓からふと見下ろせば、ぽつり、ぽつり、と校庭を歩く人の影が、妙に細長く揺れていた。太陽は大分傾いて、今にも街を、押しつぶしてしまいそう。端っこには、小さな屋台が、ぽつん、とあって、「格安・高性能サングラス」と、下手くそな字の看板を掲げる。

 彼女の光は、強かった。教師も、生徒も、学校近辺の住人も、みんなサングラスをかけている。最寄り駅を通る電車は、窓に遮光ガラスをはめるし、毎年数人、グラスをかけずに目を潰される。

「ねぇ」

 と、話し掛けてみる。

「今夜も、屋上。いっしょに行こうよ」

 彼女は、とんでもなく、眩しいのだ。私はそれを、ほんの少しだけ、好ましい……羨ましいと、思ってしまう。


 ずっと、ずっと、昔のことだ。この街へ、引っ越してくる前のこと。

 私に多少の知人がいて、いくらかの親友と呼べる友達がいた頃。

 増加を続ける自殺者が、出生者数の三倍ほどでしかなかった頃。

 私は、小さな、雑居ビルの足下にいた。

 街の一角にたたずんでいる、酷くみすぼらしい建築の外観。窓ガラスはすっかり曇って、灰色の壁には蔦が貼り付く。あちこちに細かなヒビが入って、今にも崩れてしまいそう。その屋上で人影は、長髪をゆらりとなびかせていた。

 ビルをぐるりと囲うように、数人の男女が見物している。何とない様子で人影を見上げ、今か、今か、と、その落下を待っていた。いつからか、当たり前になった風景である。

 私は、目を細めてみる。屋上に立つその輪郭に、覚えがあるような気がしたのだ。それほど視力は良くないし、眼鏡をかけているのでもない。だから、どうしたって、細部は見えない。分かるのは、白っぽい服と、真っ黒い髪。それが、風に煽られて、どこか幻想的な曲線を描く。

 そろそろ、眼鏡を買わなくちゃいけない。最近は、学校の黒板も、満足に読むことができないんだから――。

 屋上を、ぐるりと囲う柵があった。人影はそれをやすやすと越え、ふわり、と一瞬、宙に浮かぶ。両手を広げ、鳥のように、僅かな間、浮遊した。

 あとは、何度も見てきたように。毎日、どこかで繰り返されているように。人の身体は、あっという間に重さを知る。

 ぐしゃり、という湿っぽい音。私と同じくらいの背丈だった。妙な方向に曲がった首や、血の気のない青ざめた四肢は、どこか人形を思わせる。砕けた頭蓋の破片が一つ、私の頬に当たって、落ちた。

 ——と。

 転がった遺骸のポケットから、一枚のハンカチが、はみ出していた。

 そこには、間違いようのない、親友の名前が、記されていたのだ。


 夜遅く、学校の屋上に入り込む。案外、警備は手薄だから、きっと、ばれていないだろう。それは彼女と出会って以来、繰り返してきた逃避行だ。私は何より、この街が嫌い。

「まだ、涼しいね」

 と、彼女はいった。微かな風が頬を撫で、葉擦れの音が微かに聞こえる。

 昼間に比べて、随分と、眼鏡の光は弱かった。懐中電灯くらいだろうか。私は、レジャーシートを取り出して、屋上の真ん中に寝転んだ。

 大気の揺らぎに、チカチカと、星の光が瞬いている。どろり、とした暗い空に、針で穴を穿ったよう。

 隣に、彼女の気配があった。小さく、細かい、息づかいが、びっくりするほど大きく聞こえる。なんだか、少しだけ、温かい。

 ――私の目、良すぎるんだよ。

 出会ったばかりの、ことだった。彼女は、照れくさそうに、そういったのだ。

「赤ちゃんの頃は、普通だった。けれど、成長するにつれて、色々なものが目に入るようになったんだ」

 隣町の電波塔、上空を飛ぶ飛行機の窓。もっと遠くへ。もっと細かく。

「視力はどんどん良くなっていった。どうしてなのかは、お医者様にも分からなかった。そのうちに、たくさんのものが見えすぎて……たくさんの光が、眩しすぎて、眼を開けてられなく、なったんだ」

 だから、彼女は眼鏡をかけた。視力を弱め、多すぎる光を反射する。過剰なまでに反射して、同時に決して、過剰ではない。

 けれど、今。

「綺麗……」

 と呟き、叔父さんが作ったという特製のそれを、彼女は、おもむろに外してしまった。

「夜は、好きだな。光がうるさくなくってさ。この眼鏡、意外と重いの」

 私は、顔を覗き込む。恥ずかしいから、と、彼女はそっぽを向いてしまう。

「仕方ないでしょ。ほとんど誰にも、見せたことがないんだから」

 何度も、繰り返したやりとりだ。わかりきったことだけれど、少しだけ残念に思われる。

 ――彼女を好ましいと思ったのは、一体、どうしてなんだろう?

 私は、そんなコトを、考えてみた。

 もしも。

 ――もしも、あのとき、私の目が、彼女のように良かったら?

 ――親友は、どんな顔で、私を見下ろしていたのだろう?

 そんな、古びた感傷だろうか。

 コンタクトレンズを外して見ると、空は、にじんで、よく分からない。

「何が見える?」

 と、問いかける。

「今日は、火星が、綺麗だよ」

「その向こうに、何が見える?」

「土星の輪っかが、すごく、大きい」

 会話は、進む。どんどん、地球から遠ざかる。

 ――銀河が、ある。ここより、ずっと大きな銀河。

 ――燃え尽きそうな、星がある。哀しくなるような、暗い、赤。

 ――二つの太陽が、ぶつかってるよ。何だか、線香花火みたい。

 風が、凪いだ。夏の気配が近づいていて、空気は以前より温かい。

 ——と。

 不意に、どこかで、ぐしゃり、という音がした。誰かが近くで、飛び降りでもしたのだろうか。

「最近、みんな、すぐ死んじゃうね」

 彼女は、ぽつり、と、そんなことを口にする。

「なんで、死にたいなんて、思うんだろう」

 ――あなたには、きっと何も分からない。

 心のうちに、呟いた。

 ――地上にしかいられない。空を見ても、何も見えない。ビルからジャンプすることでしか、どこか行ける気がしない。そういう、子供じみた感傷なんだ。

 そんなのは、嫌いだ。だから、誰もが簡単に死ぬ、この街のことも嫌いなのだ。

 けれども、結局、私が彼女を好きなのも、きっと同じことなのだろう。単純で、退屈な、憧れである。

「もしも、ここから飛び降りるなら。どんな顔をすると思う?」

 彼女は、何それ、と笑いながら、

「近づいてくる地面のことを、精一杯見るんじゃないかな。目を見開いて、何から何まで、たくさんのものを、見ようとするかな」

 ――最後くらい、好きなように、目を使ってみたいじゃない?

 私は、それを空想する。いつかのときの、親友が、両目をぎょろりと見開いて、一直線に落下する様子。とんでもなく滑稽で、とんでもなく不細工で。

 ――見なくて良かった。

 と、ふと、思った。

 いつしか、空は明るくなって、朝露でべったりと衣服が湿る。

 彼女は、再び、眼鏡をかけて、うん、と大きく伸びをした。

 その声が、あんまりかわいかったものだから、私はもう、何もかも、どうでも良くなってしまったのだ。

 髪が、ふわり、と風に揺れる。

 その表情は、輝く眼鏡に隠れて、見えない。

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