女将がお祓いします
高岩 沙由
第1話
石川県金沢市。
北陸でも人気のある観光地だ。
そんな金沢の観光スポットは金沢駅周辺ではなく、駅からバスで15分程行った兼六園付近に集まっている。
現代アートを楽しむのなら兼六園の近くにある金沢21世紀美術館へ。スイミング・プールと呼ばれる作品は上下に分かれていて、上からみると水越しに底に人がいるように見え、下から見ると水越しに上に人がいるように見える。また、ここは毎年6月に金沢百万石まつり開催中に開かれる百万石茶会の会場として敷地の茶室、松涛(しょうとう)庵(あん)が使われている。
レトロな建物を見たいなら石川四高記念文化交流館へ。明治時代、旧第四高等中学校本館であった赤レンガ造りの建物の内部は木の床になっており、きしむ階段を上がった2階には旧第四高等中学校の生徒が抜け出すために使い、足場部分がすり減った窓枠を見ることができる。
また日没から22時頃までライトアップされていて、昼間と違った雰囲気の赤レンガの建物を見ることができる。
秋になると隣のアメリカ楓通りの楓が色づき、夜にはライトアップもされ美しい風景を作り出している。
また、日本海側では初めてとなる国立美術館の国立工芸館も明治時代に建てられた旧陸軍第九師団司令部庁舎を使っている。
加賀藩の武士たちに思いを馳せたいのなら香林坊近くの長町武家屋敷跡へ。一歩足を踏み入れると土塀が続き、一瞬、江戸時代に来たのかと錯覚してしまうほど。近くには11代にわたり加賀藩の重臣を歴任した名家、野村家の武家屋敷もあり、ミシュラン二つ星に選ばれた庭園を見ることができる。
この辺りは足軽資料館、中級武士の住まいも公開されており、門の両側に厩や奉公人が住んでいた長屋門という部屋も見ることができる。
また、金沢聖霊病院の聖堂は昭和初期に建てられたロマネスク様式の木造建築で内部は珍しく畳敷きとなっている。
さて、金沢の定番観光スポットといえば、江戸時代の林泉回遊式大名庭園であった兼六園。園内の2本足のことじ灯篭の近くで観光客が立ち止まり写真を撮るのが兼六園のお約束だろうか?天候が良ければ黒松が霞ヶ池に映り、夜間開放日の夜景はリフレクションがとても見ごたえがある風景だ。
園内の“兼六亭”は金沢出身の室生犀星の小説に出てきた店として有名だ。
兼六園近くには金澤神社という神社があり、この境内にある金沢霊沢が金沢という地名発祥になったという謂れがある。
兼六園からは石川橋で行くことのできる金沢城公園。こちらは加賀藩、前田家の居城であった金沢城の跡地。金沢城公園の抜けた先にあるのが、玉泉院丸庭園で週末はライトアップされ、時間によってプロジェクションマッピングが楽しめる。
あまたある観光地の中でもひがし茶屋街ははずせないだろう。
金沢市内に3つある茶屋街(ほかに主計(かずえ)町(まち)茶屋街、にし茶屋)の一つで昼間は芸能人がプロデュースするカフェや、有名なあぶらとり紙のお店、甘味処や洋食レストランなどを利用する観光客、また、金沢町屋が並ぶ茶屋街には着物もとてもよく似合い、着物を着た観光客も多く歩いている観光地だ。
昼間は茶屋街の近くにある組合の建物で三味線や唄の稽古をするので運がよければ、芸妓達が練習している三味線の音が聞こえるかもしれない。
金沢市内にある3つの茶屋街はともに今でも茶屋遊びが楽しめるところだが、一見さんはお断りのため、初めて茶屋遊びをする場合は馴染みさんに連れてきてもらう必要がある。
そんなひがし茶屋街にある茶屋“藤”は今日も馴染みを迎えるために準備が始まっている。
茶屋“藤”の女将である綾津詩子は帳場で今日の予約の確認と料理の搬入時間を確認してる。
そこに引き戸を引く音と一緒に若く明るい声であいさつしながら一人の着物姿の女性が入ってくる。
「おかあさん、おはようございます」
「詩喜代さん、おはようございます」
この茶屋にいる芸妓の詩喜代の稽古が終わり、茶屋に入ってきた。
芸妓とはいえ、お座敷前のため、白塗りはしておらずすっぴん状態だ。
おかあさん、と言っているが実の親子関係ではなく、師弟の親子関係に近い。
「秋の連休前で人がたくさんいたわ」
詩喜代はうんざりとみせの間(芸妓がお座敷に出る準備をする部屋)に座り、お座敷に出るための化粧道具を準備をしながら話す。
「今日も、でしょ?」
「確かに」
顔を見合わせ互いに笑う。
「あっ、報告です。今日のうさぎさん、ぐるぐるさんが倒れていました」
くすくす笑いながら、詩喜代は話す。
これは、石川四高記念文化交流館の中にある、石川近代文学館1階にある、泉鏡花遺品のうさぎ3姉妹の置物で、小さなガラスケースに入っているが、そのうちの2匹(通称ぐるぐるととんぼ)が日々動き、学芸員も知らないうちに場所が変わるという話がある。
詩喜代は時間があれば、本当に動いているか見に行っている。
「それと、おかあさん、差し入れです」
詩子の前に移動し、手に持っていた袋からパフェを出して、机に並べる。
「おかあさんの好きな、金澤パフェむらはたさんに稽古終わりに行ってきたの」
「まぁ。あんやと」
詩子の顔がほころぶ。
“金澤パフェむらはた”は近江町市場近くに店舗があるフルーツショップむらはたの支店で、新鮮なフルーツが芸術的に飾られたパフェが美しく、時間があれば店内で食べるが、持ち帰りもできる。
「おあがりあそばせ(お召し上がりください)」
詩喜代が少しおどけた口調で言う。
「あんやと存じみす(ありがとうございます)」
詩子もまた、おどけた口調でお礼を伝える。
「うふ。いつもの味。おいしいわぁ」
「たまには、親孝行しないと」
「東京にいるご両親にも親孝行しなさいね」
「は~い」
詩喜代も詩子も金沢出身ではなく、東京出身だ。
詩子の両親はなくなり、兄が一人東京にいるだけだが、詩喜代は両親と弟が東京にいる。
詩喜代の家族は芸妓デビューの時に立ち会っているが、それ以降会っていないそうだ。
パフェを頬張りながら、詩子は
「さて、お仕事のお話です。今日は久しぶりに王生(いくるみ)様がお見えになられます」
「あっ、妖怪おじさん…」
詩子の真向かいに座りながらパフェを頬張っている、詩喜代がボソッと言う。
「こらっ」
「はい、ごめんなさい」
肩をすぼめ、素直に謝る詩喜代。
王生(いくるみ)は先代の女将の頃から通ってきている長年の馴染みで年は60代頃だろうか?すらりとした体で茶屋に来るときは着物に身を包んでいるが、金沢に伝わる妖怪や不思議な話をする人だ。
「19時からなので、少し時間はあるわね」
時計を見たら、間もなく17時近く。
詩喜代は急いでパフェ食べ、素早くお座敷に出る準備を始めた。準備ができたらあとは待機となる。
19時を少し過ぎたころ、王生(いくるみ)が訪ねてきた
「王生(いくるみ)様、いつもあんやと存じみす」
詩子が玄関で出迎え、料理もお酒もすでに準備できている2階の前座敷に案内する。
詩子は女将となってからは座敷にでることはないが、指名があれば座敷に上がる。
今日も指名があるため、王生(いくるみ)を案内したあと、廊下をとおり、ひかえの間にいる、詩喜代と合流し、詩子が三味線をつま弾き、詩喜代が躍る、一調一舞(小唄と踊り)を披露する。
終わったあと、お客の元に近寄る。
「そういえば、女将」
王生(いくるみ)は酒を少しずつ飲みながら話す。
「なんでしょうか?」
「槌子坂って知っているやろ?」
「はい、兼六元町の信号から兼六小学校に続く短い坂道ですよね?」
「そこの怪談話は聞いたことあるか?」
「いいえ、聞いたことないです」
「そうか、あそこの怪談は知っている人が少ないのやろな」
「どんなお話ですか?」
「江戸時代の頃、あそこは草が生い茂り、地中から水がしみ出しているような場所だったらしく、昼間でも通るのをためらうほど気味の悪いところだったらしい」
「今とは全くちがいますね」
詩子はころころと笑っている。詩喜代も袖で口元を隠しながら笑っている。
「ほんにな。今は住宅街になっていて面影も全くない」
王生(いくるみ)も一緒になって笑う。
「でな、そこの槌子坂。江戸時代のころ、悪人が通るところころと転がるものが現れるのだ」
王生(いくるみ)は酒を一口飲み、話を続ける。
「形は横槌に似ており、大きさはつき臼くらいだから、わりと大きめな横槌が坂をころころと転がる。呵々(かか)と笑い声が聞こえたと思ったら雷鳴を轟かせ一瞬光って消えるそうだ」
「明かりもない頃にそんな物体が坂道を転がっていたら確かに驚きますね」
「だが、それだけじゃなく、その妖怪をみた人は必ず寝込んでしまうそうだ」
「あらあら。でも、そんなお話、冬も近い今お話しすることですか?」
王生(いくるみ)は酒をまた一口飲み、
「仕事の依頼」
「あらあら、そうでしたか」
詩子は茶屋の女将という表の仕事以外にも、視えないものを視ることができ、お祓いすることをもう一つの仕事としているが、その裏稼業はこの王生(いくるみ)と詩喜代以外に知っている人はいない。
「それで、どんなご依頼でしょうか?」
「私の知り合いが2日前に突然寝込んでしまったと連絡があって昨日見舞いに行ってきた」
取り寄せた料理を口に運びながら話す王生(いくるみ)。
「この時期だし、風邪でもひいたのだろうと思ったのだが、顔色は悪いものの、風邪らしい症状がなくて、どうした?と話を聞いてみたら槌子坂で黒い物体が転がって目の前で呵々(かか)と笑って光って消えた、と。その翌日に体調を崩してしまったと」
「なるほど…医者には診てもらったのかしら?」
「医者も首をひねったそうだ。熱はあるが、血液検査しても感染症を疑う細菌の類はなし、レントゲン、MRIあらゆる検査をしても何も悪いところがない」
一口酒を飲み、続ける。
「その知り合いは病院で診てもらったあとに、槌子坂の妖怪の話を思い出し、呪われたのではないかと言い出して」
「…病は気から、ともいいますけどね…」
ぼそっと詩喜代が言う。
「はは。確かに」
楽し気に笑い、酒を飲む干す王生(いくるみ)。
「幸いにも今日は新月だから、丑三つ時、午前2時頃に槌子坂に行ってみましょう」
「あっ、マジですか…」
詩喜代がそれまでの小さく微笑んだ顔からひきつったような顔になり、小さくつぶやく。
「明日またくるから、報告を頼むよ」
といい、立ち上がった。
詩子と詩喜代は玄関まで見送ったあと、その後は予約がなかったため茶屋を閉めた。
お祓い稼業は詩子一人ではなく、詩喜代が助手として手助けをしてくれるため、いつも二人で対応していく。そのため詩子だけではなく詩喜代も身を禊ぎ、準備を進める。
詩子は一人部屋に閉じこもり、和紙をとりだし、墨を摺り封印するための護符を作成、また封印したものを包む黒地の風呂敷にも封印の印を白文字で書きこんだ。
すべての準備が終わり詩子と詩喜代は黒の襦袢、黒の着物、黒の帯、黒の足袋、黒の草履と全身を黒ずくめにし、
「参りゃんせ」
と一言つぶやき、茶屋の引き戸を開け闇に溶けていく。
午前2時、街灯がうっすらとついている槌子坂に到着。月が出ていない夜のため、街灯だけでは少し暗く感じる。
現在の槌子坂は緩い10mほどのコンクリで覆われた短い坂で、両側は家が建っており、昔の姿は想像できない。
この坂を上ると兼六小学校になるが、そのふもとに二人は立っている。
「本当に出るんですかね?」
詩喜代の口調は呆れているが、顔は変化を見逃すまいと真剣そのものだ。
詩子もまた、あたりをゆっくりと見回す。
「しばらく様子を視ましょう」
息をひそめつつ、あたりの気配になじむように存在を消していく。
20分程たった頃。突然何かが転がるような、ゴロゴロという音が聞こえた。
詩子と詩喜代はアイコンタクトをとり、音に集中していく。
短い坂、あっという間に目の前に物体は現れ呵々(かか)という声が聞こえた瞬間に詩子が一枚の札をその物体に飛ばした。
札が張り付いた物体は光ることなく、そのまま地面に転がっている。
「つき臼くらいの大きさ、と聞いていたけど、抱えられるほどの小ささね、これは」
詩子は転がっている物体を拾い上げ、護符が書いてある風呂敷に包み、一旦地面に置く。
そのあと、二人で坂の上下に別れ、槌子坂を清浄し、妖怪が再びこの坂にこないように結界を作る。
一通り終わり横槌の入った風呂敷を手に
「さて、尾山神社の暗闇に放り込みますか」
詩子と詩喜代は一路尾山神社へと向かう。
尾山神社に到着し、階段をゆっくりと登り本殿に参内し、本殿裏の場所を借りることを報告し、鼠多門橋の手前、暗闇が濃い森の中までゆっくりと進む。
ここは妖怪を送り返すのにちょうどよいスポットだ。
地面の上に二人並んで正座をし、心を落ちつけるため、深呼吸を繰り返す。詩子は先ほど封印した黒い風呂敷を近くに置いておく。
頃合いを見図り、詩子は横を向き、詩喜代の状態を確認する。それを悟った詩喜代は小さく頷いた。
そして二人で真言を唱えると暗闇の中にぼんやりと光が見えてきた。
その光は少しずつ大きくなり、人が入れるほどの大きさになった。
詩子は風呂敷を持ち、その中に放り投げた。その瞬間、光が一層輝き、あっという間に暗闇が戻ってきた。
「これで終了、と」
「おかあさん、お疲れさまでした」
「詩喜代もお疲れ様」
立ち上がり、お互いにあら塩を体にふりかけ、簡易的に忌を落とす。
ふと、空を見上げると、少し明るくなってきてるようだ。
「そういえば、詩喜代?」
「はい、おかあさん、なんでしょう?」
「お腹すいたから、戻ったらお茶漬け作ってくれないかしら?」
「こんな時間に食べたら太るでしょう?」
その日の夜、ひがし茶屋街に三味の音と太鼓が響く時刻に王生(いくるみ)は茶屋にやってきた。
詩子と詩喜代は王生(いくるみ)を出迎える。今回は報告だけなので、踊りや唄などの遊芸はなく、すぐに座敷に案内し、王生(いくるみ)が座ったことを確認したところで、詩子と詩喜代も座敷に座る。
「ご報告申し上げます」
二人は頭を下げたあと、顛末を話した。
「ただ、話に聞いていたよりも小さいのが気になるところです」
女将は表情を曇らせ、小さくため息をついた。
「それに、お話しだと、悪意のある人がその妖怪を見るのですよね?」
「そうだ」
「そのお知り合いの方はそんなに悪意のある方なのでしょうか?」
「いや。人間なので、多少は悪い面も持っているが、そこまでではないな」
「そうですか…。とりあえず、そのお方のお祓いもさせて頂きたいのですが、調整して頂けますか?」
「わかった。すぐに調整しよう」
「あんやと存じみす」
「こちらこそ、いつもありがとう」
女将は頭を下げた。それが合図となり、王生(いくるみ)も帰り支度をし、茶屋を後にした。
王生(いくるみ)を見送ったあと、一組予約があるので、頭を切り替え準備を進める。
翌日、お昼前。
茶屋に王生(いくるみ)から連絡が入った。
「詩与、例の知り合いなのだが、明日はどうか、と連絡があった」
詩与、というのは詩子の芸妓時代の名前で、人がいない場所では王生(いくるみ)はいまだにこの名前で呼ぶ。
「はい、大丈夫です。準備があるので19時以降に迎えにきてくれますか?」
「了解した。よろしく頼む」
15時になり詩喜代が茶屋に戻ってきたので、お祓いの実施は明日の19時と伝える。
「わかりました。明日は稽古をお休みして、準備します」
神妙な顔でうなずく詩喜代。
「よろしくね」
明日のお祓いに必要なものを話し合い、確認が終わったあと詩喜代は座敷に出る準備を始める。
詩子は明日予約が入っている馴染みを別日に振り替えられるか確認の連絡をし、予約している料理のキャンセル連絡を実施していく。
やっと一息ついたころには、今日のお座敷が始まる時間になっていた。
お祓い当日。
朝から二人は禊ぎをすませ、詩子は封じ込めるための護符を和紙と黒いハンカチに書いていく。
詩喜代は茶屋の一室にこもり、真言を口にしながら数珠を作成している。この数珠に念を閉じ込めるため、使う度にオニキスを一粒一粒選びながら作成している。
準備がすべて終わったのは17時近くになっていた。
19時。
二人とも、髪を後ろに一つに結び、黒の襦袢、黒の無地着物、黒の足袋と全身黒づくめの恰好をし、必要な道具を黒の風呂敷に包み王生(いくるみ)を待っていた。
そこに王生(いくるみ)が茶屋に顔を出す。準備が整っているのを確認し、茶屋の引き戸を開け、周りに気を付けながら車の後部座席に乗せる。
王生(いくるみ)は車を運転しながら、これから会う人物の話を始めた。
「これから向かう先は橘という男の家で、一時期同じ会社に勤めていたことがあり、家が近所でもあったので、親交があるのだ」
詩子と詩喜代は王生(いくるみ)の話を聞いていたが、数分程走ると大きな金沢町家の建物の前で車が止まった。
王生(いくるみ)が橘家のお手伝いさんに挨拶をするために一旦車から降りた。
その間二人とも集中力を高めていく。
数分で戻ってきた王生(いくるみ)に車を降りでも大丈夫と声がかかった。
二人は手に持っていた黒の紗を頭から被り、車から降りる。
お祓いをする時、極力顔を知られたくないため、頭から黒の紗を被り、対象者以外、遠ざけてもらっている。
その日。当事者である橘佑毅は落ち着かない時間を過ごしていた。
昨日、知り合いの王生(いくるみ)から連絡があり、槌子坂の妖怪は封印したと聞いた。が、体調は回復していないことを伝えると、それを見越したのか、お祓いをするために今日の19時頃に家にくるとのことだった。熱が下がらず体は辛いのだが、この辛さから解放されるなら、と藁にも縋る思いで、是非にとお願いした。
王生(いくるみ)がくるまで時間あるが、体調が思わしくなく、寝たり起きたりを繰り返していたが、夜になり家の手伝いの者が部屋にきて、王生(いくるみ)がきたので、通すとのことだったので、布団から上半身だけ起こし、尋ね人がくるのを待っていた。
王生(いくるみ)は、橘の家は何度もきているため、勝手知ったる、という感じなので、手伝いの者に案内を断り、詩子と詩喜代を連れて橘が臥せっている部屋へとすすむ。
「入るぞ」
一言声をかけ、王生(いくるみ)がふすまを引き部屋に入る。詩子と詩喜代も一礼をして部屋にはいる。
畳敷きの6畳ほどの部屋で、窓際に布団が敷いてあり王生(いくるみ)と同年代くらいの60代の男性が布団から体を起こし、肩に半纏を羽織りこちらを向いている。
「体調はどうだ?」
王生(いくるみ)が軽く手を上げながら聞くとしわがれた声で
「今日は少し良いくらいだ。お客様を迎える恰好ではなく失礼だが、適当に座ってくれ」
橘は枕もとに置いてある座布団を王生(いくるみ)に進める。
王生(いくるみ)が座布団を受け取り男性の近くに座り、王生(いくるみ)から座布団を受け取った詩子と詩喜代は少し離れたところに座った。
「そうか。今日きたのは昨日話したとおりだ。この二人がお祓いをしてくれる」
王生(いくるみ)が座る場所を変え、二人に場をゆずった。
「はじめまして。顔と名前を知られたくないため、大変不躾な恰好でお話しすることをお許しください」
詩子が話し、頭をさげると詩喜代も頭を下げる。
「いや、こちらこそ、わざわざご足労頂き、感謝しています」
橘は青白い顔に微笑み浮かべ感謝を伝えた。
「お話は王生(いくるみ)様より伺っております。後ろに控えるのは私の手伝いをしてくれる者です」
「よろしくお願いいたします」
詩喜代が再度頭を下げる。
「それでは、さっそく始めさせて頂きたいのですが、上半身を起こしたままでも大丈夫でしょうか?」
「はい、問題ありません。こちらで何かすることはありますか?」
「何もありません。が、途中、体に触れることがありますので、ご了承ください」
「はい、わかりました。宜しくお願い致します」
返答を確認し、詩子と詩喜代は座布団からおり、橘の近くに寄った。
そして詩子は風呂敷から黒いハンカチと護符を取り出し、近くに置き、詩喜代は中からオニキスの黒い数珠を取り出す。
粛々と準備を始め、儀式が始まるのを察知した王生(いくるみ)は何度かこういった場面に立ち会っているため、邪魔にならないよう、引き戸の前に移動し、待機する。座布団は3枚重ねて近くに置いておいた。
詩子が詩喜代を見て、準備ができたことを確認したのち、一礼をし、
「では、始めさせて頂きます」
と凛とした詩子の声でお祓いが始まった。詩子と詩喜代が真言を唱える始めると部屋の空気がピリッとした冷たさが混じってきた。だが、詩子と詩喜代の周りだけは熱を帯び熱ささえ感じる空気が漂っている。
橘は場の空気についていけず、ただただ、呆然と布団の上で座っている。
しばらく真言を唱えていた詩喜代は場所の雰囲気が変わったことを確認すると、それまでは手に軽くもっていたオニキスの数珠を左手手首に巻き付けて、男性の左肩に触れる。
と同時に男性の体から黒い気体のようなものが詩喜代の黒い数珠に吸い込まれていき、黒い数珠が少しずつ赤くなってきた。
休みなく真言を唱え完全に赤くなった詩喜代の数珠を確認した詩子は
「これにて終了いたします。今日はお疲れ様でした。ゆっくりとお休みください」
詩子がぱん、と両手を打ち、詩喜代が男性の体をゆっくりと離すと、男性は脱力したため、再度詩喜代が体を支えながら布団の上に横たえさせる。
その様子をちらと見ながら、護符を書いた黒いハンカチを広げ、詩喜代から赤くなった数珠をハンカチで受け取り丁寧に包み、さらに紙の護符をその上に張り付けた。
王生(いくるみ)と詩喜代は倒れこんだ男性を動かし、布団に寝せている。
橘はそのまま寝込んでしまったようだ。
すべてが終わったのを確認し、詩子と詩喜代は一礼し王生(いくるみ)と共に静かに部屋を後にした。
橘が次に目を覚ました時、すでに誰もいず、部屋も暗くなっていた。
手元の時計をみると、午前0時を過ぎたころだった。
昨日のこと…異様な装いの女性2人を見て驚いたが、そのまま話をすすめると、何かお経のようなものをつぶやき始めた。しばらくそのお経を聞いていたが、体が熱くなり、体を起こしているのがしんどくなってきたとき、小柄な女性が左肩を支えていることに気づいた。
そのままにしていると、少しずつ体がラクになってきていて、気づけば意識を失っていた。
ただ、体調がはっきりとわかるほど、回復していた。
心のなかで、二人の女性に手を合わせ、感謝をした。
王生(いくるみ)に茶屋まで送ってもらい、詩子は黒い風呂敷に白文字で護符を書いていた。そのあとは身支度を整えながら午前2時を待つ。
午前1時40分頃に先ほど封印した数珠を白文字で護符を書いた黒い風呂敷に包み茶屋を出た。
一路、尾山神社へと向かう。また境内の闇を貸してもらうためだ。
午前2時頃に尾山神社に到着し、本殿に森を借りることを報告し、暗闇の中、森へと進む。
いつもの場所に到着し、地面に正座をして心を落ち着け、黒い風呂敷から、数珠を包んだ黒のハンカチを取り出し、詩子のそばに置いた。
詩喜代も近くに座り、詩子とアイコンタクトをとり、二人で真言を唱え始めた。
少しずつ闇の中に光の穴をあけ、最大となった時に数珠を放り込む。
光が収束し、元の暗闇に戻った。
「ふう…これでひと段落ね」
詩子はめまいを感じながらも安堵していた。
「雨が降らないうちにすべて片付いてよかったわ」
立ち上がろうとしてよろけてしまったので、
「おかあさん、大丈夫ですか?」
と慌てて詩喜代が体を支えてくれた。
「心配かけました。大丈夫ですよ」
詩喜代も顔色が悪いので、心配させないよう、明るい声で話す。
この2日間ほど、緊張状態が続き、睡眠も思うように取れなかったため、お互い体調は良くないだろう。
「詩喜代、体調が悪かったら今日もお休みしても大丈夫ですからね」
「大丈夫ですよ!若いので回復が早いんですよ!」
からからと笑いながら答える詩喜代。
「あら、どうせ私はおばさんですよ」
ちょっとむくれ気味にこたえ、顔を見合わせて笑う二人。
お互いの体にあら塩をふり、簡易に忌を落とす。
「さぁ、茶屋に戻りましょう」
すべてが終わったのは、明け方も近い時間だった。
「昨日はお疲れ様」
お祓いした翌日、夜18時ころ、王生(いくるみ)が茶屋にきた。
「お疲れさまでした」
詩子は頭を下げる。
「お座敷にご案内します」
詩子は2階の前座敷へと案内をした。すでに詩喜代も前座敷の前の部屋、ひかえの間にいる。
改めて、王生(いくるみ)は詩子と詩喜代に礼を述べる。
「それで、橘様の体調はどうでしょう?」
「今朝連絡があり、すっかり熱も下がり、体調がすこぶるよくなったと言っていたよ」
「それはなによりでした。」
女将は安堵した表情で話した。
「ただ、二人の女性は異様で怖かった、とも言っていたぞ」
王生(いくるみ)が笑いながら話している。
「ふふっ、脅すにはちょうどよかったかしら」
詩子もいたずらっ子のように笑いながら返した。
「今度、橘様もご一緒にお座敷へきてくださいね」
「伝えておく」
「さぁ、それでは、この話はここまでにして、唄とかどうですか?」
三味線の音が響き、宴が始まる。
またきっとしばらくは安泰の日々が過ごせるはずだ。
女将がお祓いします 高岩 沙由 @umitonya
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