ある疲れた男の軌跡――労働コンプライアンスの教団
牛盛空蔵
本文
日本のどこかに、ブラック企業に勤める、くたびれた男がいた。
彼の社員証には「来島」とある。画面には延々と書かれたプログラミングコード。
その来島、連日の残業で一人、夜まで残っていた。
「ふーっ」
彼は深く息を吐くと、大きく伸びをした。
この男、決して仕事が出来ないほうではない。むしろコーディングの速さも正確さも、平均よりは上回っている部類の男だった。
なぜそんなプチ優秀者が連日残業をしているのか。
そう問われれば、まさに少しだけ優秀だったから、と答えるよりほかない。
まあまあ技術が高くセンスもある。ついでに多少の残業に耐えるタフネスもある。だからこそ、仕事を優先的に回されるのだ。だから普通の社員は定時に近い退勤ができる。
それは「理不尽な道理」「不公平な公平」であった。
今日も彼は、パチパチとキーボードを打ち、粛々とコーディングをこなす。誰もいない……もとい、タイムカード等で「誰もいないことになっている」オフィスで、ただ一人。世話焼きのねぎらいすらなく。
ある日、来島は体調を崩して病院に送られ、会社を退職をせざるをえなくなった。当然だが交渉を挑み、会社都合退職の名分と、少しの退職金を勝ち得た。
労基に駆け込んでも意味はないし、強いて弁護士に依頼して法廷闘争をすることも、それをわざわざ選ぶまでには提示条件は苛酷ではなかった。法的には最後まで戦うことが望ましいのだろうが、来島はそれを決断するにはあまりにも摩耗しすぎていた。
とりあえず少し回復し、自宅療養となった彼は、アパートの自室に戻った。
安静にしつつ、彼は考える。
この社会の労働というものは、きっと概してブラックなのだろう。
ホワイト企業なるものもあるといわれるが、きっとそれは、珍しいから噂に上るだけに違いない。
ある人はこれに対して「それはまさにブラック企業のほうだ。ごく一部がひどいから問題視されるだけであって、大半は黒くはない」と言うかもしれない。
しかし来島の感覚では、そうは思えない。きっとブラックが多くホワイトは少ない。彼自身の最初の理屈は、間違っていない。
このブラック企業のはびこる現状を、どうすべきか。
彼は横になりながら考える。
政治に働きかける……それは組合も労働系の有力者も、すでに散々やっている。ゆっくりずつしか成果が出ないということは、それが人間と社会の限界なのだろう。
もう一つ、何か強力な方法があるとすれば。
彼は投函された宗教勧誘のチラシを見ながら、ひらめいた。
神の教えとして、自ら労働の教条を語る。
これしかない!
彼は回復後には活動を開始することを決意した。
とりあえず近所に住んでいる、幼馴染の女性を呼んだ。
「やあ根来。元気か」
「元気かじゃないよ、来島のほうが大変そうじゃん」
「俺はまあまあ回復した。で、話はメッセの通りなんだけど」
聞くと、根来は呆れたような顔をした。
「ずいぶん壮大な話だね」
「どうせお前も暇だろう、仕事がないって聞いたぞ」
「辛うじて動画配信で小金は入るけど、それでもバイトが外せないよ」
「じゃあお前が入信第一号だな。よろしく」
「えぇ……ま、まあ、重役扱いならいいけど」
「へえ、重役ができるような大勢力を目指すのか。これはいいな」
「そ、そう、あくまで地位にしか興味が無いから仕方がないね」
来島は、根来が自分に向ける好意に、気づかなかった。
最初に何をするか。
「小さな自己啓発セミナーとかで、地道に信者を増やすしかないな。公民館とか貸し会議場のスペースを借りて。そこそこになってきたら炊き出しを催したり、本を出したりか」
「あの、それなんだけど」
根来は小さな声で提案する。
「私の動画配信、貸してもいいよ」
根来は、アニメやマンガ、ゲーム関連の配信で、数千人の動画フォロワーを有していると、以前来島は聞いた。それがまるまる使えるとすれば、近道ではある。
しかし彼は断った。
「それは駄目だ。根来のチャンネルはあくまで根来が成長させたものだ。それを横取りするのはブラック企業となんのかわりもない。収奪でしかない」
「そっか……そうだよね」
だが、彼は頭をひねる。
「しかし動画配信か……まずはやってみる価値がありそうだ。機材とチャンネル開設のために、必要なものを買い出しに出る。根来にもついてきてほしい。あと、アカウント横取りはしないけど、コラボ動画とかマーケティングの補助は頼みたい。受けてくれるか」
「もちろん、だって私は信者第一号の重役だからね!」
根来がとてもうれしそうにしているのを見て、彼もなんだか気分が晴れた。
機材とチャンネルをそろえて、とりあえず彼は演説動画を上げた。
しかし見向きもされない。
「うーん、駄目だな、方法が」
「この伸びなさからすると、確かに方法がまずいね」
いつの間にか居候になった根来もぼやく。
「何か、人目を惹く特技とかない?」
「手品とか料理とかギターは、結構なものだと言われたことがあるけど、それだけだな。炊き出しを思いついたのも、料理ができるからだな、よく考えたら」
「充分だよ!」
根来は柄にもなく大きな声を出した。
「なんでそれを活用しなかったの!」
「だって、食べ物とか娯楽より、善の教えが隅々にまで浸透するほうが、なんというか、正しいんじゃないか?」
「頑固おやじみたいなこと言わない。さっさとそういう動画をまずは上げよう。人が集まってきたら教説に回ってもいいよ」
「むむ」
彼は、一番弟子に言われてはやむをえないので、物入れから手品道具とギターを出し、メンテナンスとチューニングを始めた。
この方針はそこそこ成功し、まずは人を集めることができた。
だが教説動画にはほとんど視聴数がつかない。
手品やらなにやらの娯楽動画、そして根来とのコラボ動画にはまずまずのアクセスが入るが、教説動画には全くもって流れてこない。
「動画の限界かな」
来島のつぶやきに、根来も落ち込む。
「私は、私だけは味方でいるから、もうちょっと続けよう?」
「いや、そういう意味じゃない。オフラインでも活動する時じゃないかと、そういうことだ」
現在、来島の動画のフォロワーは、根来を上回り、一万数千にまで膨れた。多芸さが評価されてるようだ。
とすれば、手品等とおまけのセミナーを、動画で宣伝しつつ開いていけば、もっと集客、入信勧誘をできるのではないか。
説明を聞いた根来は、にわかに笑顔になる。
「そっか! それはいいね!」
「おう。ちょっとネットで近くの貸し会議場を見るわ」
彼はオフラインの一歩を踏み出した。
一年後。
「徐々に人は増えている。宗教法人も立ち上げた。本も出したし炊き出しの実績も重ねた。しかしな……」
「どうしたの、預言者様」
根来が聞く。
「信者たちは、どうも教説より、食事と娯楽にばかり興味を集中させているみたいだ。様子を見ていれば分かる。根来、当初の理念を覚えているか」
「労働環境を改善する宗教だったような」
「そう。だけど大半は食べ物と手品とかばかりを欲しがり、教条をきちんと理解して信じている人は、感覚的には百人に一人だ」
戦略を間違えたのかもしれない。彼は思う。
「信者からのお布施は入ってくるから、とりあえず大規模な布教もできなくもないけど、たぶんこれ、世間的にはおふざけ宗教だと思われてるぞ」
「そうだね……」
「戦略を切り替えよう。多少信者が減るのを我慢して、ガチの教説を少しずつ増やす。書籍と、可能ならテレビ出演を狙ってリソースを割り振る。ただし炊き出しや手品も活用自体は続ける」
彼は決断を口にした。
さらに三年後。
メディアへの露出は増えた。信者は少し減った。本気で教条を信じる人は、ほんの少しだけ増えた。
だが。
「批判が多いな……動画も年中ミニ炎上に匹敵する荒れ具合だ」
「預言者様……」
根来が彼の手を握る。
「しかも肝心の、労働環境の改善に対しては、未だ有効打を打てずにいる」
なにせ信者が、最終目標に比しては、まだまだ足りない。来島はお布施で、一通り不自由のない生活を送れてはいるが、それでも目標が大きすぎた。
「人々は、というか信者でさえも、食べ物と娯楽にしか注目しない。善の言葉に耳を傾けようとしない」
「預言者様」
「人は、何が善なのか、ろくに考えないまま生きているみたいだ。――いや違うな。考えている人もいるけど、俺とは根っこから違う価値観みたいだ。たぶん永遠に分かり合えない」
来島の言葉に、根来が沈黙する。
「……確かに俺の信条は、労働のコンプライアンスは、ブラックな労働によって利益を得ている人たちを害するんだろう。彼らにとっては、善悪はともかく、俺は敵に見えるんだろうな。でも、いま敵になっている人は、そればかりじゃない」
彼は淡々と語る。
「反対者たちの大半は、利益につられてなどいない。彼ら自身の正義感に突き動かされている。労働環境の改善のために費やされる各種のコスト、他者、特に同僚や上司にかける身近な迷惑、労働にかける思いを踏みにじること、そういった事柄を彼らは考えているようだ。単に食べ物と娯楽が云々だけじゃない、俺自身の教条と衝突している。そしてそれは、邪推したり馬鹿にしたりしていいものじゃない」
「預言者様」
根来は彼の手を取った。
「きっと、来島は疲れてるんだよ。もう休もう。幹部に教団の経営を任せて、隠居してもいい。私が許すよ」
「しかし」
「結婚しよう、来島。私と」
彼女は泣きながら続ける。
「もう来島は、戦わなくていい。充分に頑張った。教えを広めるための争いも、戦略について思い悩むことも、もちろんブラックな環境で働くことも、もうしなくていいんだよ」
「俺を否定するのか?」
「そうじゃない。来島が人目を忍んで、吐いたり嗚咽したりしているのを、私は知っている。せっかく頼れる幹部がそろってきているんだ、少し休んでもいいじゃない。もうあなたは、不幸せでいる必要はない!」
彼女は涙を流して告げた。
「俺は……」
「もう礎は作った。もとから一代で、数年で達成できるようなことじゃなかったんだよ。少しだけでいいから、休もう。私が守る」
「……俺は……」
長年にわたって、積み重なってきた彼女の願いは――
数十年の歳月が経った。
「あぁ、今日も疲れたな」
「進捗は微妙なところだ」
ある企業の片隅で、部下に上司は渋い顔。
「駄目ですか?」
「あまり良くはない。若干の遅れがあるのは明らかだ」
「えぇ……」
部下も渋い顔になる。
「だから、ここは優秀な沢渡を中心にして――」
上司は続ける。
「全員で三十分だけ、全力、最高の効率で残業だ。残業代も飯ももちろん出すし、三十分で必ず全員を退勤させる。それで頼む!」
「……まあ、三十分ならいいですね」
部下たちはうなずく。
「よし、今日はちょっと頑張るか!」
部下たちはうなずいた。
上司の携帯端末には、ちょうど「労働コンプライアンスの教団」の広告が表示されていた。
ある疲れた男の軌跡――労働コンプライアンスの教団 牛盛空蔵 @ngenzou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます