トラウマ

@fiesta

カッター

「これください」

 普通の客なら「ください」などわざわざ言わない。上の空だった意識が、掛けられた低い声に戻される。客の骨ばった手から差し出されていたのは、透明の硬いパッケージに包まれた銀色の凶器。


 カッターである。

 

 ひゅ、と小さく息をつく。途端に体内に氷塊が埋め込まれたかのように体が冷えだす。

 この客の目的は、このカッターを購入することであるはずだ。しかし本当にそうだろうか。いや、違う。本当の目的は、きっと。

 頭の整理がつかず、ただ目を泳がせることしかできない。時間がたつのが遅く感じる。カッターに気を取られ、私の身に起こるであろう最悪の未来が鮮明に脳に浮かぶ。

 助けを呼ぼうにも、あいにくこの時間は客が少ない。レジ付近には店員すらおらず、私には逃げ場などない。まさしく、背水の陣、という言葉に当てはまる。

 私は殺されるのか。いや、まさかそんな。

 両者無言。恐る恐る顔を上げて男の姿を初めてはっきりと認識する。

 そして、激しく音を立てていた心臓が、なだらかにペースを落としていくのが分かった。突然の奇襲に混乱していた脳も、脱力するように覚めていく。

脅威に感じたはずの彼は、「普通の人」だった。

ラフなパーカーにリュックサックを背負う、正真正銘の「普通の客」の姿であった。

 彼は少し苛ついたような表情で私の顔と胸元の名札を一見してくる。勝手に怯えてしまったのは申し訳ない。

 それにしても、と彼の顔をちらりと観察してみる。切れ長の目に薄い唇。端正な顔立ちだと思う。そしてセットしておらずさらさらとなびく前髪にも思わず見とれてしまう。

 正直、私の好きな感じ。

「これ、ください」

 彼は「店員に不満を抱く普通の客」の表情で、先ほどよりゆっくり大きく、確実に不快感を私に届けるために、再び急かしてきた。

 あ、はい、と気の抜けた返事が口を衝いて出る。多分今の私は非常に不愛想だった。

 自分の態度を顧みて、はっとする。彼は普通の客なのだ。私が殺されるわけがない。ただのカッターを買いに来た客に過ぎない。そんな彼を、こちらの空振った警戒心で待たせるという行為、むしろ私が「普通の店員」失格である。自己中心的だ。慌てて縮こまっていた背筋を伸ばす。

 なおも、カッターの刃は私を威嚇するようにぎらぎらと白く光り続けている。

「申し訳ありません」

 殺されるのは嫌だ。しかし接客について叱られることのほうが、現実的で、嫌だ。気を取り直して商品を預かり、バーコードを読み取る。それなりにここで長くバイトをしているが、カッターのバーコードを読み取るのは初めての経験だった。それくらいカッターが購入されていくのは珍しいことなのだと気が付いた。バーコードの位置がわからず会計に手間取る。また不快にさせているのでは、と内心ひやひやとしながらも「袋にお入れしますか」と恐る恐る問う。男は二回ほど小さく首を横に振って意思を示した。 

「三百三十円になります」

 なんなの、ちょっとだけ視線が痛い。男は動かず私の顔をじっとりと見続けているようだ。何を仕掛けてくるかわかったものではない。しかし私は決めた。もう引かないことに決めた。なぜなら危険人物として認識するのをやめたからだ。

逸らし続けていた視線を上げて、目を合わせることにした。もう恐くないぞ、というある種の意思表示。

 しかし男は、変わらず私の顔を覗き込んだままだ。財布を出す素振りを一切見せないので「金を出せ」という気持ちを込めて私も負けじと彼の眼の中をじっとりと覗いた。

 それでもなお男は金を出さない。そして、彼は私に手も足も出してこない。

男の黒目の中に私の姿は距離が遠いので見えない。だけどきっと口角は吊り上がっているだろう。勝った!彼は危害を加えるつもりなんてないのだ!

 一気に安心して力が抜けた反動で、少しばかり強気になっているからだ。少しでも調子に乗ってしまえば、昔の恐怖心など忘れて好戦的になってしまう、それが私の性なのだ。

 やがて男は、私の視線に負けたのかどうかは知らないが、黙ったままリュックサックから長財布を取り出し、無作為に千円札をつまみ出して一枚トレーの上に放った。私が思い出したように「ポイントカードはお持ちですか」と問うと、男はまた小さく首を振った。「失礼いたしました」と言いながらも千円札を受け取りレジに通すと、大量の小銭が器に零れる。レシートとともにお釣りを手渡すと、男は大きな体を少しこちらの方に折って、乱暴に掴んで財布に仕舞った。

 彼は急いでいるからこんなに不愛想なのかもしれないと思い出したように考える。会計が遅くなって申し訳なかった。しかし恐ろしい思いをして戸惑ったのだ、そちらの態度が全ての原因だと思うので許してほしい。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 そのとき確かに、彼は私の目を見た。明らかに「恨み」を込めた眼差しで。


 心臓が再び小さく縮みこんで、とっさに目をそらした。あれ、やはり私は殺される?しかしすぐに男は、出口に向かって歩き出した。その後ろ姿は、やはり「普通の客」であった。

 しかしまだ心臓がばくばくと動いている。数秒前まで好戦的でいた自分がどれだけ哀れだったものか、誰に見られたわけでもないが、穴があったら入ってしまいたいと思った。

 そういえば、やはりあのカッターはやっぱり私を脅すための道具だったのだろうか。いや、そんなわけがない。

 このまま恐怖を引きずっていても埒が明かない。この不安を無理やり杞憂ということで終えようと区切りをつけ、仕事に集中することにした。

 


 小さいが地元では有名な文房具屋にて、九月下旬、午後六時前後に起きた出来事であった。

 平日のこの時間は下校途中に来店する学生も少なくないが、基本的には開店する意味を問いたいほどに客はガラガラ。軽い音色のピアノのBGMを心地よく堪能することができる。「平静」の象徴ともいえるような場所だ。

 とはいえ、厄介なクレーマーがいないわけでもなければ、カッターだけを買っていく客も、初めて接客したが、いないわけではないだろう。

 しかし私は自分でも呆れてしまうほどの小心者なのだ。たとえ人気のない店だろうが強盗などそうそう来ないことは重々承知しているが、どうもレジで鋏やホッチキスなど、怪我につながりそうな商品を突き出されるたびにどきっととしてしまう。こんなにも小心者なので、カッターなんてあまりにも刺激的すぎる。私は今、脅されているのだ、とすっと受け入れ信じ込み、ぶるぶる震えるのは悪い癖というか何というか。自意識過剰なのはわかっているが。

 しかし、今日の客はいつもと違ったような気がする。彼は強盗でも立てこもり犯でも何でもなかった。だけど絶対に、明確な悪意を持って私にカッターを突き付けていたはずだ。

 だって、最後の目が、表情が、そう物語っていた。

 なぜそう言い切れるかは、私にも全くわからない。思い込みが強いだけかもしれない。しかし、言葉にはしがたい漠然とした恐怖がずっと私を襲っている。帰宅して、ご飯を食べて、お風呂に入って、布団にもぐって。その間、ずっとずっと、彼の目が脳にこびりついて離れなかった。

 いつもなら、こういう奇妙な客に遭遇しても、怯えながらも心のどこかで私と客を俯瞰して、別に強盗じゃない、と落ち着いていられる。なのでこうして、あれは恐ろしい存在なのだと断言できることもそうそうない。だから自分の勘を信じるのみ、だ。

 彼はやはり、私に隙があったらばすぐに危害を加えようとしていただろう、そうに違いない!

 人間というものは不思議で、相手の目を見ただけで、なんとなく込められた思いを察することができるのだから。

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