第37話 最終決戦(5)

 グラウンドでは、顔を強張らせて清田が打席に向かう。


――あほな、このままで終われるかい。桂木さんが男を見せたんや、俺も続かな。


 左打席に立つ清田は、目の前にかざしたバットを見つめた。


「ここはボーイが来て良い所じゃないんダヨ」


 デビットは笑みを浮かべる程の余裕で清田を見下す。


 投球動作に入ったデビットが、大きな体を使いダイナミックなフォームで投げ込む。


 清田は、向って来た内角の直球をフルスイングするが、バットが粉々に砕けてしまった。


 打った瞬間、清田の左肩に猛烈な痛みが走る。今の状態でとてもあの直球は打てそうな気がしない。


 清田は折れたバットを呆然と見つめた。


――藤王さんなら……


 清田は、チラッとネクストバッターズサークルの藤王を見る。


――このデビットから、何とか出来ると言うんか、監督。


 清田は折れたバットを掴みベンチの方へ歩いて行く。


「藤王さん」

「ん?」


 交換したバットにスプレーを吹き付けながら、清田が藤王に話し掛ける。


「今日は何で藤王さんが四番なんです? 藤王さんならこの場面で打てる言うんですか?」


 藤王はチラリと記者席の真希をを見て、視線を清田に戻した。


「俺には信じてくれる人達がいる。結果が出なくても応援してくれていた人達もいる。俺が四番に相応しいかは分からへん。でもそんな人達を喜ばせたいんや」


 藤王は今の気持ちを素直に話した。


「俺は優勝したい。監督が俺よりその力があると見たから、こんな大事な試合に藤王さんを四番にしたんやろ。この打席、俺は必ず出塁します。ほんまの四番やったら結果を出して下さい」

「お前そんな勝手な事言い…」

「頼んますよ」


 清田は言いたい事を言い終わると、藤王に背を向けバッターボックスに向った。


――出塁するって言うても簡単やない、今の俺に出来るのか……。


 清田は、今までは目一杯長く持っていたバットを短く握った。フルスイングで長打狙いの清田にとって初めての試みだ。


 デビットが清田に対する二球目を投げ込む。


「グッ」


 清田は高めのストレートをかろうじてバットに当てたが、真後ろに飛んでバックネットに直撃する。ボールがバットに当った瞬間、また肩に激痛が走る。だが、泣き言など言っている場合ではない。


 清田はまたバットを短く持って構えた。


 追い込まれた三球目は、外角高めにボールの釣り球を投げ込まれるが清田は見逃した。


 四球目は外のスライダーをカットした。


 五球目は内角のストレートが外れてボールとなる。


 六球目もストレートを当てるが、振り遅れでファールになる。


 毎球ボールがバットに当たる度に清田の顔が苦痛に歪む。


『追い込まれてから粘る清田。カウントはツーボールツーストライクです』

『驚きましたね。フルスイングが持ち味の清田選手が、デビット相手にここまで粘れるなんて』


 実況席も感心する中、清田は激痛に耐え、喰らい付いて粘っている。


「あいつ、肩が痛いのに無理しやがって」


 ベンチでグラウンドを見詰める橋本が呟く。だが、言葉とは裏腹に、橋本の表情には強い期待が込められている。


――今の俺には、デビットの球を打ち返す力は無い。出塁するにはこうするしかないんや。


 清田は来る球、来る球、懸命に喰らい付いて粘り続けていた。


「ボール」


 十二球目、ボールが外角に外れ、清田はとうとうフォアボールを奪い取った。 


 一塁に立つと、清田は何とか自分の役割を果たせた安堵感から、天に向かって大きく息を吐いた。


「さあ頼むで、藤王さんあんたの力を見せてくれや」


 清田は一塁ベース上で腕を組んだ。


「よし!」


 記者席の真希は思わず両手を握り、席から立ち上がる。


 同じように他社の記者からも声が上がった。


 その時、真希の目にシャインズベンチから投手コーチが飛び出す姿が映る。


「まさかピッチャー交代ですか?」

「いや、そんな筈はないやろ。藤王と勝負するかどうかの確認やと思うで」


 ベテラン記者の岸部はそう推測した。


「次は俺の番か」


 藤王はネクストバッターズサークルで立ち上がり、目の前にかざしたバットを見つめた。


 その時、野川がベンチから藤王に向かい歩いて来た。


「え?」


 藤王は驚いた。


 ここまでの野川のミラクル采配なら何があっても不思議じゃない。まさか交代もあるのだろうか。


「何て顔してやがんだよ」


 野川は不安そうな顔をしている藤王をからかうように笑った。


「代打ですか?」

「ばかやろう! お前にはこの声が聞こえねえのか?」

「え?」


 野川がスタンドを指差す。藤王はグラウンド内ばかり見ていた視線を上げてスタンドを見回した。


 応援団やサラリーマン、若い女性や老人や子供達まで老若男女さまざま人々が藤王の名前を叫び応援していた。その一人一人の顔に自分への期待が込められているのを感じる。


 やがてその応援の声は一体となって、スタンド全体から沸き起こるような藤王コールに変わる。


「こ、これは……」


 藤王は震えた。


 怖いのではない。自分に向けられた期待の大きさに、心が揺さぶられるのだ。


「どうだ、体が震えるだろ。俺はな、この声援を歓喜の声にしたくていつも努力してきた。今日までの努力を信じろ! お前にも声援を歓喜の声に変える力がある」


 野川はいつに無く雄弁な自分が不思議な気がした。


 今、この場面で藤王に自分の経験を伝えたい。その思いが言葉になっていた。


「お前は四番なんだ。もっと自分勝手で良い、次につなごうなんて考えるな」


 藤王は野川の言葉を一言一言噛み締めて聞いている。


「あそこに打ち込んでこい!」


 野川はそう言ってレフトスタンドを指差した。


「はい!」


 藤王の目から迷いが消えた。


――俺は人々の期待に応える。


「ここで打って、俺も四番になる!!」


 藤王はバッターボックスに向かい歩き出した。


 マウンド上では投手コーチがデビットに、藤王と勝負するか意思を確認していた。


「じゃあ勝負するんだな」

「今の藤王を敬遠するのなら、俺は今すぐ荷物をまとめて故郷に帰るネ」


 ベンチとしては勝ち越しのランナーを出しても藤王を敬遠して、五番と勝負するつもりだった。


 だが、デビットのプライドがそれを許さない。いろいろ言動に問題のあるデビットだが、実力は一級品で気持ち良くプレイさせる事が一番なのだ。


 投手コーチはデビットの意思に任せてベンチに下がる。


 試合の再開だ。


 真希は記者席から食い入るようにグラウンドを見詰めている。


――いよいよ藤王さんの打席が始まる。


 真希は今まで見てきた藤王の努力を思い出していた。


――スポーツは努力した量が必ず結果に結びつく物ではない。いやそれはスポーツに限らずさまざまな事でも同じだろう。

――時に努力の大きさに比べ、手にした結果が報われない事など世間にいくらでもある。

――少年の頃から脇目も振らずヒーローの姿だけを追い続けて来た藤王さん。

――今日だけは、この打席だけは、努力が報われる結果になって欲しい。


 真希は熱い視線を送り続けた。


 グラウンドでは藤王が決意を秘めて右打席に入る。


 藤王は両手で握ったバットの先でコンコンとホームベースを叩く。


 不思議と心が落ち着き無になっていく。


 そのバットを真っ直ぐに持ち上げ目の前にかざす。


 野川に憧れて、いつの間にか自分の物になった、バッティングの構えに入る前に行う儀式だ。もう何千回繰り返した動作だろうか。だが、いつに無く落ち着いているのに藤王は気付く。


 藤王はそのまま構えには入らず、前へと伸ばしたバットは左腕と一体になり、真っ直ぐレフトスタンドを指して止まった。


 藤王自身、明確にホームラン予告をする意思は無かった。ただ、当たり前のように自然と腕が伸びていた。


『こ、これは…』


 緊張で片山の声が上ずる。


『予告です! ホームラン予告です!! 十五年前、野川が残した伝説の試合と同じホームラン予告です!』


 片山の絶叫と同時に、ウォーッと大歓声が超満員のスタンドから湧き上がる。


「か、監督の指示ですか?」


 ベンチの最前列で、驚いた松下が横に居る野川を見る。


「ばかやろう! 俺は予告までは指示してねえよ」


――やるじゃねえか、藤王。見事伝説を作って見ろよ。


 野川は嬉しそうに笑っていた。


「おもろい! おもろいで藤王さん! 見せてくれ、あんたの四番としての底力を」


 清田が一塁ベース上で手を叩き喜ぶ。


 記者席でも大騒ぎになっている。ベテラン記者達は、十五年前の伝説の試合の再現を思い出し興奮していた。


「藤王さん!」


 真希は今まで聞いた事がないくらい、心臓の音が高鳴っているのを感じた。


 真希の目に藤王の姿が今までにないくらい大きく映る。デビットの言葉の意味が分かる気がした。


――絶対に打ってくれる。


 真希は少しも疑う事無く、そう確信していた。


「藤王、確かにお前は可能性を感じさせる打者ダ。だが、それは今のお前が許される行為ではなイ」


 マウンド上のデビットは怒りに震えて、バッターボックスの藤王を睨みつけた。


「面白い。お返しに、お前をコメディアンにしてやろウ」


 デビットはニヤリと笑いセットポジションに入った。


 藤王への第一球。デビットの手から離れたボールは、ゴウと唸りをあげ藤王の顔面を目掛けて飛んでいく。


 一瞬の間にボールは藤王の顔面へと近づく。


 誰もが藤王の顔面にボールがぶつかった、と思い悲鳴を上げた。


 だが藤王は一ミリも動かない。


 それどころか、瞬きすらもせず前を見続け、ボールは顔面ギリギリを通過してキャッチャーのミットに収まった。


 一瞬、球場全体が目の前の出来事を理解出来ずに止まったようになる。


「ボ、ボール!」


 戸惑った審判が一呼吸遅れてコールする。


 止まっていたスタンドもすぐに賞賛の大歓声に変わった。


『危険なボールをピクリともせず見送りました藤王! 剣術の達人のような見切りを見せました!』


 片山も遅れて絶叫した。


 藤王の目には、デビットの手からボールが離れた瞬間に軌道がはっきりと見えていた。


 ギリギリで当たらない。分かっていたからこそ、驚きも興奮も無かった。


 藤王は球場の興奮もお構い無しに、何事もなかったかのように平然とした顔で儀式を始める。


 最後はまた構えには入らず、前へと伸びて行ったバットは左腕と一体になり、真っ直ぐレフトスタンドを指して止まった。


『挑発にも臆しません藤王! 再度ホームラン予告、ホームラン予告です!』

『藤王選手、ナイスファイト!』


 実況の二人も興奮で声が上ずる。


 ウオーッと球場全体が異様な空気に包まれる。


「バカな……確かに俺が完全にコントロールした絶対当たらない投球だっタ。だが、あれを投げ込まれて怯まない打者などいなイ」


 デビットは驚いたのも束の間、すぐにニヤリと不適に笑った。


「嬉しいゾ藤王。お前はやはり偉大な打者だっタ。だが、その打者を打ち取る事こそ、俺の喜ビ。百マイルのボールで黙らせてヤル」


 デビットがセットポジションに入ると球場全体の視線が投手と打者に注がれる。


 投手と打者の間が、そこだけ別世界のように静まり返る。


 藤王は存在を感じさせない程、静かに構えている。数秒後に迎えるクライマックスに向けて、力を内に溜め込んでいるようだった。


 デビットが渾身の力を込めてボールを放つ。

 

 ビシュッと手から離れたボールは、空気を切り裂くようにホームベース目掛けて真っ直ぐに伸びて行く。


 ボールの軌道を見極めてスイングを始める藤王。


 スイングする藤王のバットと、真っ直ぐに高速で伸びて来るボールがみるみる近づく。


 ガッ!


 バットとボールがインパクトする。

 

 全ての人々が、時間が止まったようにその一点を集中して見詰めている。


 キーンと高い音をたて、ボールがレフトスタンドに向って飛んでいく。


 野川と松下が、真希と岸部が、清田が、桂木が、美月が、実況席の二人が、選手達全員が、全ての観客が、テレビの前のファンが、それぞれが無言で打球の行方を追う。


 スッとレフトスタンドにボールが飛び込むと、今まで止まっていた時間が動き出す。


『ホ、ホームラン……サヨナラ予告ホームラン達成! タイマーズ優勝です!! 再び伝説が起こりました!!』


 片山の絶叫が涙声になる。


 ウオオオオーーと球場全体が大きな歓喜の声に包まれる。


 揺れている。


 球場全体が大きなうねりで揺れている。

「ありがとう……ありがとう……」


 巽は特別観覧席で、人目もはばからず大泣きしている。


 ウオオオオ! と両腕を天に突き上げ雄叫びを上げる藤王。


 藤王はファーストに走り出す前に一瞬真希の方を見て微笑んだ。


「これでええ! これでええで! 来シーズンはあんたを越えて、俺が本当の四番になってやる!」


 清田もガッツポーズしながらベースを回る。


「見事だ藤王。だが、これが終わりではナイ。ここから俺達の戦いが始まるノダ」


 デビットはボールの消えたレフトスタンドを眺めて呟いた。


「伝説だ! 俺達は歴史に名前を残したんだ!」


 そう叫んだ橋本に続き、桂木やその他の選手達も一斉にベンチを飛び出し、清田と藤王をホームベースまで迎えに行く。


「藤王がやってくれましたよ監督!」


 喜んでベンチを飛び出す松下。


「後はまかせたぞ」


 野川は松下の背中にぼそりとつぶやき、静かにベンチの奥に消えて行った。


「藤王さんが……」


 記者席を飛び出した真希は、感動で言葉が続かなかった。藤王が微笑んでくれた事が、心が通じ合えたようで嬉しかった。


 グラウンドに出た真希は、ふと違和感に気が付いた。野川監督がいないのだ。



 歓喜に沸く球場とは別世界のように静かな駐車場。ユニフォーム姿のまま、着替えを詰め込んだバッグを抱え、夜逃げのように周りを伺いながら歩いている野川いた。


「お父さん!」

「うわっ」


 急に呼び止められて驚く野川。


 呼び止めたのは美月だった。


「なんだよ美月か、驚かせやがって。なんでお前が球場にいるんだ?」

「お父さんの最後のユニフォーム姿を見ておこうと思ってね」


 美月は父に対し、わだかまりの無い顔で笑った。


「……なんだ、分かっていたのか……」

「お父さんの娘やからね」


 美月にそう言われて野川も笑顔になる。


「インチキして取った優勝だ……選手に罪はないが、俺は祝福される訳にはいかねえからな。後は松下に任せるよ」


 二人のやり取りを物陰から聞いていた者がいた。真希だ。


 やはり、野川は自分の欲の為に明日のテレビを利用したのではなかったのだ。真希はかばんの中にしまっているノートを処分する事に決めた。


「さあ、藤王さんのインタビューに行かなくっちゃ」


 真希は二人に気が付かれないように駐車場を後にした。


「酷使に耐えてくれた桂木、新人なのに無理して使った清田、出番が無くてもひたすら努力し続けた藤王、それに無茶な采配に付いて来てくれた選手達、みんな良くやってくれたよ」


 野川は遠い昔を懐かしむように言った。


「何よりも俺を信じて支えてくれた松下。俺はチームから去るが、あいつが居れば大丈夫だ」


 野川は笑顔で頷いた。


「タイマーズから離れるのに満足そうな顔やね、お父さん。寂しくはないの?」


 美月は、チームから離れるのに笑顔を浮かべる父を不思議に感じた。


「今、俺はとても満足だ。長年愛したタイマーズを守れたんだからな」


 美月は父の気持ちが分かり納得した。


「やっぱりね」

「何が?」


 野川は美月の言葉の意味が分からず、そう聞いた。


「お父さんは昔も今も皆が認める……」


 美月はまだ歓声に沸く球場を見詰めた。


「永遠のミスタータイマーズやね」


 夜空にはきれいな満月が輝いていた。

                                 了

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