同棲相手
常陸乃ひかる
感情の相違
『わたしは生まれつき、泣き声を発せない』
けど、あの人は違った。
昨今、わたしは自分の不注意で大怪我をした。
そんな時、あの人はわたしを病院へ連れていってくれた。
温厚な性格からは想像もつかないほどの形相で医師に詰め寄っていた。
助かるのか? それとも手遅れなのか? と。
すると医師は言った。大丈夫、助かる命であると。
手術は無事に終わり、此岸と彼岸の狭間をウロウロしていたわたしは、数日して現世に戻ってきた。目を開けるなり、あの人は大粒の涙を流しながら、わたしの手を優しく握ってくれた。今思うと、怪我が治ったことより、あの人がわたしなんかのために泣いてくれたことが嬉しくて。
それで、決して緩むことのない口元が少しばかり――
『ただいま』
と、ささやいた。
なにより、ヤブが多いこのご時世、紳士的な医者には感謝してもしきれない。
あの人との出会いは五年前。
身寄りのないわたしを、快く家へ迎え入れてくれた。
が、わたしは警戒心が強く、当初はろくに話もできなかった。
それでもあの人は、しわの寄った顔で話しかけ、いつも笑顔を見せてくれた。
わたしもそれに応えて、耳を傾けるフリをしていた。
次第にあの人の性格の良さもわかってきた。
良い歳して独り者で、不器用ゆえに、料理も掃除も下手で――
来る日も来る日も、必死にわたしに好かれようとして。
孤独同士、紆余曲折ありながらも親睦を深めていった。
そんなこんなで、あの人はあと数日で定年退職を迎えるらしい。
会社では大した役職にもつけず、六十五まで齢を重ねてしまったという。
良い人ほど出世できない。道理かもしれない。
あの人の出勤最後の日の朝、わたしはろくな言葉もかけずベッドで寝続けていた。あの人が仕事に行ってからは起きては食べて、寝ては食べて――
それを繰り返しているうちに、日は沈んだ。わたしは頃合いを見計らい、ふらっと玄関へ移動し、今か今かとあの人の帰りを待っていると、重みのあるいつもの足音が近づいてきた。
わたしは傷の具合が良くなったのを知らせるように、玄関のドアが開くやいなや、
『おかえりなさい!』
と、大きな声を出した。
同じくらい大きな声であの人は、元気になったのか! と、また泣いていた。
良い歳したオジサンなのに、とんだ泣き虫である。
そんなことより、だいぶ腹が減っていたので二言目には、
『お腹が空いた』
と声音を使った。我ながら、現金な生き物であると実感する。
あの人が持つエコバッグには、いつもの二倍ほどの商品が入っていた。
配偶者も、友人と呼べる人物も居ないからこそ、わたしとともに、労働者としての最後の夜を過ごしたかったのだろう。だから、わたしは心の底から言った。
『お疲れさま! そして、あすからもよろしく!』
それから一年もすると、急に別れがやってきた。
あの人は病を患い、入院してしまったのだ。無論、あの人が退院するまで家で待ち続けるつもりだったが、入院した次の日にはもう、あの人の親戚の家で一時的に暮らすことになってしまった。そこではわたしを温かく迎えてくれたが、四六時中あの人の容体が気がかりで、ご飯が喉を通らなかった。
あっという間である、数日後なんてものは。
こういうとき『訃報』と言うらしい。木枯らしが全国で吹き荒れる中、あの人は、さらっと帰らぬ人となってしまったのだ。享年、六十六歳。あの人の親族が今後について話し合っている横で、わたしは無関心な態度を取ることしかできず、
『わたしは泣けないから』
目前で起きていることを理解しながら、情けない現実を告げた。わたしは人間ではないから泣き声を発せないし、アイツらと違って遠吠えも出来ない。
わたしの感情を尻目に、あの人の親族たちは引き取り先について話している。うちは無理とか、そんな余裕はないとか、純粋にニガテとか――どうやらわたしは、よくよく厄介者である。
いやはや、保健所だけは勘弁してほしいところだが。外へ逃げ出すにしても、十年も生きているわたしにとっては自殺行為である。
結局、正式な引き取り先は、一時的にわたしを預かってくれた家に決まった。
ひとまず安堵。ひとまず整理。
――わたしは、これからも生まれつきの鳴き声を駆使して、適当に媚びを売れば良いのだ。気まぐれとか自由奔放とか、つまらない偏見が人間たちに蔓延しているのならば、それに従えば良い。
しょせん人間なんて、わたしたちと同じなのに。
大きくなったわたしたちみたいなモンなのに。
主人が死んだくらいで悲しむわけ――
いや。あの人が、わたしのために流した涙の分くらいは、長生きしようか。
それがはなむけになると信じて、にゃー。
同棲相手 常陸乃ひかる @consan123
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