哀の日

たかひら

第1話 

 二度目の流産で、もう止しにしようと、下をむいてつぶやいたんだ。

だけど妻はくじけなかった。ただ、穏やかなまなざしを、俺に向けていた。出会いたての頃と、それは変っていなかった。

 俺は、東北から上京してきたはぐれ者。会社の同期はほとんどが首都圏出身で、若々しく、おしゃれで、どことなく、勇ましかった。ビル群を見ても動じない彼らに、俺は振り回されていた。


 平凡な会社員――ではなかったと思う。最初の頃は雑用やら簡単な仕事が多く振り分けられたが、淡々とこなしていくうちに、上司からかなりの信頼を受けていた。


 「努力の天才だよー君は。本当に、うらやましいよ。これからも、がんばってね」

 「お前、本当にいつ休んでんの?まったく脱帽だよ。同期ん中じゃ抜きんでて一番だな、俺なんかこうやって、椅子で遊ぶくらいしかしてねーよ」

 「すごいイケメンだと思います!学生のころ、ずっとモテてましたよね?」


 周りは俺をこんな風に定義していた。デキル奴、とでもいうのだろうか。でも俺は、こうも言われていた。

 

 「ロボット」 「社畜」 「手柄取り」 「無口」 「暗い」 「怖い」 

 間違っては、いなかった。


 蝉が粘りながら鳴いている8月後半のうだるような暑さの日。好きな人ができた。


 「二人で、飲みに行きませんか?」


 暑さで頭がやられたのか、なんなのか、俺は同期の中で俺と同じように地方からやってきた女性を、飲みに誘った。彼女は会社内でも人気の子だった。高嶺の花と定義しても、差し支えないだろう。


 それから何度か俺はデートに誘った。社内恋愛は、どういう評価だったのだろうか。どっちにしろ、俺と彼女は二人ともおしゃべりではなかったから、あまり気づかれていなかったと思う。彼女は、誰に対しても、やさしい眼差しを向けていた。陽だまりのような美しさが、会社のフロアーを照らしていた。

 そうして、年をまたいだ春、俺の妻になった。あれは、嘘みたいに晴れた日の、夜のことだった。


場所は、都内でも有名な街。普段はあまり行かないけれど、おしゃれで、ちょっとリッチなエリア。俺は何度も下見に行った。完璧なプランを、考えていた。

 約束の日、あろうことか俺はほろ酔いで彼女のもとに向かった。お酒の力で、何とかなると思っていた。実際、何ともならないのだが、当時の俺は、バカだったかもしれないが、自分に自信が持てなかっただけなのかもしれない。とにかく、その日はさんざんだった。


 お昼は上野で、散歩をしたり、絵画を見に行ったりした。彼女はすでに酔っている俺に気づいていたのだろうか、当時の俺にはどうでもよかった。絵画もどうでもよかった。ただ横で子供のように澄んだ目をして笑っている彼女が、たまらなく愛おしく見えた。 


 夕方になる頃には、俺は気持ち悪さが勝っていた。それに気づいたか気づいていないか、彼女はすぐに帰ったらいいかもと提案してきた。それは心配によるものだった。でも俺は、そんなこと想像してなくて、でも嫌われて終るのは嫌で、彼女に実はずっと酔っていたと打ち明けた。彼女は太陽のように笑い、付き合うって言って、飲み屋に入ってくれた。


 それは俺の予約していた高いお店ではなかったけど、どうでもよかった。彼女がお手洗いに行くと同時に、キャンセルの電話を入れた。申し訳ないと感じながらも、あんまり考えたくはなかった。もうすでに、世界は美しく見え始めていた。

 彼女はとことん悪酔いの俺に付き合ってくれた。一緒にクライナーまで飲んだ。視界はどんどんうるんで美しくなった。彼女も普段言わないような言葉使いをしていた。そのギャップに惚れ込んだ。


 手をつないで二人でふらふらしながら、夜道の涼しい東京を歩いていた。どこにいるのかも分からなくなったころ。川を見つけると同時に、それが自分の知っている川だと知って、安堵と同時に、吐き気が襲った。人間、油断するといけないのだ。


 俺は側溝に吐いた。なるべく誰にも気づかれないように。まあ彼女に背中をさすってもらったのだが。涙目になりながら吐いた。こんなはずじゃないって思った。もう終わったって思った。不意に、胸から結婚指輪が入っている四角い箱がポロリと、落ちて跳ねた。それがそのまま川に落ちそうだったので、彼女は急いでそれを手にした。

 恐る恐る彼女を見上げると、彼女は箱を開け、中身を見て、口を押さえて、涙を流していた。街灯の白い光に乱暴に照らされてはいたが、それは生きていた中で一番美しかったと言っても過言ではないだろう。彼女は泣きながら

 「こんな、頼りない夫を、支えて、生きて、いきたいです」と言った。顔は赤かった。俺は気持ち悪さとうれしさで、倒れそうだった。その極限状態だったからこそ、神様に、この素敵で美しい彼女を嫁にできることを、涙をながしながら感謝できたと思う。今でも、これからも、感謝している。

 

 妻が退職するとき、仲間に、上司に、全てがばれた。みんなは、祝福してくれていた。花束をもらった。タンブラーや、アクセサリー、腕時計なんかもくれた。冷やかしでおむつを大量に新居に送り付けてきた同僚もいた。声をかけてから3回目の冬。

俺は幸せという日常を歩んでいた。人生は、素晴らしいと、朝起きて、コーヒーを淹れ、まだベッドですやすや寝ている妻を見て、そう確信していた。


 新居に越してきてすぐに年が明けた。俺と妻はベランダで東京の摩天楼を眺めながら、トスカーナのワインを揺らしていた。絵にかいた幸せと言われたが、絵に描けるものなら、手に入るんだ。俺はそう信じて生きていた。妻は幸せだった。その顔もやはり、陽だまりであった。妻は、春が似合うとも言われていた。俺は、何だったのだろうか。


 だからこそ、俺は妻の健康に敏感だった。だから、二度目の流産の後、もうやめようといったんだ。諦めより、心配が勝った。

 娘がこの世にやってきた。小さい体だったが、大きな声で泣いていた。元気なお子さんだそうだ。しかし時を同じくして、太陽が沈むように、当たり前の、普遍の真理かのように、妻はこの世を去った。まだ三十路も過ぎていない体は、冷たくなっても、夜明けのように、またすぐに動き出しそうだった。あの笑顔を、俺にくれるはずだった。俺の目の前には、死んだ命と、生まれた命が、交互に映っていた。泣きはしなかった。ただ、より一層、俺は黙ってしまった。

 

 葬儀の日は、暑くも寒くもない、花曇りの日で行われた。会社には言いたくなかった。親族だけで行ったそれは、空虚だった。誰一人、嬉しそうにしているものはいなかった。だが、誰一人、極度に悲しむ人もいなかった。新しい命は、病院で眠っていた。葬儀場でふと、伊邪那美と伊邪那岐を想った。黄泉の国に行ける夫を、恨んだ。そして、気のすむまで、娘を育てようと思った。気のすむまで。

 「ねえパパ、私のママはどこに行っちゃったの?」

 この質問が、俺の胸をプレスするかの如く締め付けていた。この質問が耳に入ると同時に、目の前が暗くなり、心臓の鼓動が早まり、テレビからこちらへ視線をうつした目の前のたんぽぽのような娘を見て、吐きそうになる。いつもいつも、苦しめられていた。悪気が無いのは、十二分にわかっている。誰が悪いとか、そういうのではないのも、承知している。だから、だからこそ、こんなにも苦しいのだ。


 「ママはね、今、でっかい海の上にいるよ」妻のことを話すとき、決まって俺は娘を抱っこしていた。少しでも近くに娘がいないと、壊れてしまいそうだったから。


 「でっかい海って、あれ?」娘のか細い小さな小さな人差し指が、摩天楼の奥にぽっつりとある東京湾を指していた。娘はあれを、大きな海と知っていた。

 「あれよりも、もっと大きいとこ」

 「何、してるの?こっち、こないの?」上目づかいのその顔が、俺の網膜を刺激して、脳みその中心部に刻印される。風はないのに、のけぞる。たまらなく、たまらない。定義できない感情を、30過ぎても味わうとは、これもまた人生か。

 「ママはね、冒険に行ったんだ」

 「ぼうけん?」

 「そう、お宝探しの、大冒険だよ」

 「ママのお宝さんってなんだろうね?早く見つかるといいね!」

 「それはパパにもわからないよ」

暫く娘は外を向いていた。風が、心地よかった。妻と別れてから、何度目かの夏空だった。娘は、俺の腕の上でもぞもぞして、またこっちを向いた。


 「ママのお宝さんって、パパじゃないの?」

 「………………………………」

 「ねえ?違うかな?ねええー」

 「そりゃあ、パパにも、わから、ないよ。ほら、もう9時なるから寝る準備しようね」

 娘はもう、小学生だった。太陽を潰さなきゃいけない日が、刻々と迫ってきた。

 妻が旅立ってから、俺は娘と新居で二人暮らしをしていた。会社は辞め、新しいベンチャーに就職した。前の会社が大企業の方だったらしく、かなり丁重に迎えられた。仕事も苦ではなく、おかげさまで経済的に困ることはなかった。家も、引っ越さないで済んだ。


 俺の父母は、大きめの農家を経営しているので、都心には来れなかった。でも俺を見捨てるわけじゃなく、事あるごとに新鮮な野菜を送ってくれた。これから成長期を迎える娘にとって、ありがたいサポートをしてくれる。妻の方の親族も、たまに食事に行ったりして、仲良くしてもらっている。恵まれているのには、変わらない。


 娘は、まるで神様に導かれているかのように、賢く、可憐な女の子に育っていった。俺も、休日はほとんど娘と一緒にいた。たまに来る質問が、胸を締め付けたが、ぐっとこらえて、答えていた。娘は、両親と違って、よくしゃべる子だった。

 「パパ、洗濯物一緒にしないでよ、キモい」

 「はいはい」

 「パパ!今日のご飯何?」

 「今日はね………」

 「パパ!ったくもう学校に遅れちゃうよ弁当早くして!!」

 「そのメイクの時間を家事に投資してくれって…………」

 「女の子はかわいくあるもんでしょ!?早く作って!」


 思春期が訪れると、娘は絵に描いたように豹変していった。そのスピードは徐々に来ていたのだが、止められなかった。良くしゃべり、元気で、目が優しくて、可憐な俺の娘は、金髪の、訳のわからないくらい短いスカートを履いた、メイクに何時間も投資する子になっていた。

 

 「行ってきまーす」

 「こんな夜中にどこ行くんだよ」

 「え?渋谷!」

 「俺は心配だ……」

 「大丈夫だって、じゃあねー」


 最近は夜に遊ぶことも多くなっていった。止めなければいけないのは分かっていたが、止める気力がなかった。なぜだろう。徐々に徐々に妻の面影が浮かんでくる。娘の顔はいくらメイクをしても、妻とそっくりだった。

 「誕生日おめでとう!」 

 「あ!やった!パパありがとう!」

 娘が17歳の誕生日を迎えた。相変わらず金髪のままで、快活な女子になっていた。


 誕生日は毎年質素であった。家族の人数が多ければもっとにぎやかなものになるのだが、こればっかりはどうしようもない。


 俺は、この日だけ、酒を解禁していた。いつからか、日常的に酒を飲むのは止めていた。とはいっても、毎年娘のパーティーが終わってから、深夜に独りでこっそり飲むだけだ。相手がいなくとも、俺の口はいつもあの時のワインで満たされている。


 「ねえパパ」

 「何?」ショートケーキを咀嚼しながら聞く。彼女の顔は、いつもの陽だまりだったが、少し陰っていたのを俺は見逃さなかった。

 「パパって、私の誕生日の後だけお酒飲むよね。毎年」

 「え……」

 「娘を舐めないほうがいいよ、バレバレ」

 「そうだったのか………」

 「あともう一つ、隠してることあるでしょ」

 「何?」

 「ママさ、私産んで死んじゃったんだよね」


 白いショートケーキが、黒色に見えた。椅子から落ちたかのような浮遊感を感じ、生きた心地を得るのに必死になっていた。


 「パパはさ、昔っからママのことになると嘘ばっかつくよね」


 俺は固まっていた。その愚痴の言い方が、在りし日の妻そのものだったからだ。俺は娘に、妻の死因をごまかしていた。ごまかさないと、無理だ。


 「女に隠し事なんて、ばれるに決まってるじゃん」


 娘の顔を見れなかった。俺は、黙った。下を向いていた。


 「ねえ、パパ」娘が席を立ち、俺の左側に立つ。テレビはどうでもいいバラエティが流れていた。消してはいけないと、強く感じた。彼女は、テーブルにあったリモコンを手にして、テレビを消した。

 

 「パパは、ママの代わりに私が来て、嫌、ですか?」


 うるうるとした声が家にこだました。勢いよく顔を上げると、娘が、あんなにも元気に生きている娘が、消えてしまいそうなろうそくのように、弱く、笑っていた。


 俺はどうすることもなく、抱きしめた。何も言わず、ただ、抱きしめた。娘は、泣いていた。その涙の意味は、分からない。けれど、娘も生まれてからずっと、母の存在について悩んでいたことを、俺はついに知った。苦しいのは、俺だけではなかった。そんな当たり前のことを、やっと、目の当たりにしたんだ。


 「わたし………ママに………似てますか………」

 「ああ」

 「わたしは………ママに……抱っこしてほしかった…………」

 「ああ」


 娘は、生まれたときと同じように、泣きじゃくった。元気いっぱいに、泣いていた。泣きつかれて娘は、すやすやと眠っていた。俺は妻が寝ていたベッドに娘を寝かせ、仏壇へと向かった。


 仏壇は、ご先祖様のものという建前で建てたから、妻の写真はなかった。線香をあげて、祈る。娘は、立派な子に育ちました、と。

 それから、俺はワインを飲むことにした。毎年、ボジョレーを飲んでいたのだが、今年は買っていなかった。その代わり、俺はこの家に17年もおきっぱのワインがあることを知っていた。


 娘が眠っているそばで、そのワインと、妻が使っていたガラケーを取り出した。ずっと、ワインの横で眠っていた。最後の最後に、妻が持っていたもの。


 ベランダに向かい、二脚ある椅子の片方に座る。いついかなる時も、片方は女性が座っている。しかし今日は一人だ。娘の、17歳の、妻が旅立って、17年の、4月の、花曇りの日。


 グラスを揺らし、口に含む。予見はしていたが、面白いくらいにおいしくなかった。それでもよかった。思い出は、そんなもんだ。


 ガラケーの充電が終わった。俺は部屋に一度戻り、蚊に刺された腿をポリポリ掻きながら、もう一度ベランダに向かった。


 ガラケーを立ち上げると、特にめぼしいものはなかった。昔見たまんまであった。


 端末に、ボイスが残っていた。これは、聞いたことがあっただろうか、まあ、最新に更新されたものだから、聞いてはいるだろう。そう感じて、俺はまた、何気なくそれを再生した。



 「はあ、はあ、はあ、生まれた?」遠くで妻の声が聞こえる。この数秒、俺はこれが初めて聞くものだと知った。摩天楼の眼前で、俺の体はまた硬直した。


 「はい!元気な女の子ですよ!」俺がまだ病院に行く前のワンシーン。

 「ギャー!ギャー!ギャー!」

 「はあ、はあ、はあ、」妻は息を切らしている。

 「良かった………ちゃんと…………産まれてきて………ねえ……タクト」


 視界がぼやけてきた。ブラックアウトとは違った類の、初めてのものだった。摩天楼が、丸いぽつぽつに変化した。光っていて、まるで花火を見ているかのようだった。鼻水が出てきたあたりから、俺は、自分が涙を流していることに気が付いた。


 人に、自分の名前を呼ばれると、人はここまで喜べるということを、妻は教えてくれた。


 「う…………あい………たいよ……会いたいよ!」そう、空に言った。


 それから、俺はおいしくないワインを飲んだ。浴びるように飲んだ。もう、知らなかった。涙は、止まらなかった。ワインでなのか、涙なのか、分からない。俺の服は濡れていた。あの会社にいたときから、変わってない、部屋着用の黒いシャツ。今日は、汚れていた。


 「ありがとう、…………………マナ」


 妻の名前は、世界一美しく東京の夜空に溶けていった。でもすぐに、応答する人がそばにいないことを悟った。


 反対側にある空虚な椅子を見て、涙があふれた。口がへの字に曲がった。過呼吸になった。顔が熱かった。子供みたいだった。子供でよかった。ただ、泣いた。

 

 ガラガラガラ


 「ママの名前って、『マナ』だったんだね、すごい、きれいな名前」


 泣きじゃくった顔で見たのは、娘のカナだった。


 俺はもう、抱きしめることしかできなかった。けれど、ふらついてしまった。カナは俺を支えて立っていた。近づいた顔は、マナと変わらなかった。


 ベッドに連れていかれ、泣いた顔を拭いてくれた。カナは、美しかった。眠ってしまう少し前に、握りしめたマナの携帯を開けた。待ち受けには、若い俺と、マナが映っていた。その顔は、やっぱり、マナそのものだった。俺はまた、涙が止まらなくなった。もう戻らなくなったマナを想って、泣いた。外では、カナがグラスをいじっていた。飲んだか、飲んでいないかは分からない。でもうるんだ瞳に映った彼女の姿は

、世界で一番ワインに似合っていた。


 「今日は、哀の日だ」そう、つぶやいて、俺の記憶は途絶えた。

 


 





 

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