フィクションず
常陸乃ひかる
境界線
この物語はフィクションであり、実在する人物・団体とは一切関係ありませんか?
ワンルーム。あぐらをかいた男が、
「フィクションの反対は?」
飲料の入ったコップをちゃぶ台に置きながら、向かい合っている女に尋ねた。水滴が外面に張りつくコップの中では、いくつもの小さな泡が上昇してゆく。
「ノンフィクション。え、馬鹿にしてんの?」
対して女は、強めの口調で男の愚問を切り捨てた。こういった取り留めのない論議は、本日何度目だろう。たぶん片手で数えられるくらい。
「いやいや。んじゃさ、フィクションをノンフィクションで作ったらどうなる?」
「はい?」
男の疑問に、女はハエを追い払う時のような煩わしい顔つきで、目を細めた。エアコンがない部屋だから、余計に機嫌が悪いのだろう。夕暮れ時だというのに風も吹き過ぎない、家賃の安いアパート。扇風機は先日壊れた。修理屋さんを呼べば、たちまち空を飛んで修理に来てくれるが、いかんせん金が掛かる。
「いやさ。フィクションを、フィクションじゃなくするんだよ」
「え? それはフィクションじゃない?」
「え、違う違う。結局、ノンフィクションになるんだよ。ノンフィクションとして作ったあとなんだからさ」
「だって元はフィクションなんだから、どんだけ理屈並べても作り話じゃないの?」
女に根本的な指摘をされ、男は汗ばんだ腕を組みながら訝しげに空を見上げた。運送会社のマークが描かれた小型飛行物体が、あちこちに荷物を配達している。転送装置の実用は、まだまだ先の話だろうか。
――幾らか時間が経過した、夕刻。
窓の下では、世界一ウマい! と評される豆腐屋が、軽トラを爆走させながら、綺麗な三日月を描いて路地をドリフトしている。いつか車を購入し、あの軽トラに追いつき、その大豆本来の美味さを味わってみたいものだ。
「じゃあ、こうしよう。ノンフィクションを題材に作った――例えば、仮想通貨強奪事件とか。それをドラマにしたら? ノンフィクションだよな」
「なに言ってんの? それはノンフィクション・フィクションでしょ」
「……はい?」
「実話だとしても、ノンフィクションのフィクションということ。ドラマは脚色されるのがオチでしょ? 監督が居る時点でノンフィクション・フィクションなの」
「え? その言い方だと、ノンフィクションを否定した上で話すわけ?」
「ち、違っ! フィクションを作る上でのノンフィクションは大事なの!」
女は二度三度、顔の前で手を振った。持論が通らないことに腹を立てる子供のようだったが、切り返しで窺えるのは負けん気の強さだ。
「あのさあ、大体フィクションってなによ? あんた辞書でも引いたわけ?」
「ほら、クシャミする時の掛け声だろ?」
「しょーもないこと言うな」
日が落ち始め、暑さが少しずつ引いてきた。畳の上には、『フィクション』の項目が出しっぱなしになった端末。ちゃぶ台の上には、焼き魚と冷奴。
質素な夕飯を口に運びながら、男は何食わぬ顔で話を掘り返した。
「じゃあさ。もし俺たちが、このフィクション論争を題材にした寸劇をしたら、それはノンフィクションになるんだな? 作品として出さないわけだから」
「そんな物語みたいなことできるわけないでしょ! 恥ずかしい!」
「今更なに言ってんだよ!」
「で、でも確かに……わたしたちがやってるフィクション論争は、ノンフィクションよね。けどね、自分から見たほかの人は、完全なる事実に基づいてないから、厳密に言うとフィクション・ハーフになるの」
「ローカロリーのマヨネーズですか? えーと、着眼点が迷子になってきた……じゃあノンフィクションなのは自分だけだと言うんだな? だな?」
「まあそりゃ、今のわたしは、今のわたしが――こう、宿って? 実感して? 認知してるもん。ほら、これは立派なノンフィクションよ」
「よし、それじゃあ聞く。認知してない、お前の知らない自分――例えば、赤ん坊の頃のお前までもが、フィクションってことになるんだな? だな?」
「ちがっ! それは……だって、わたし生まれた時のこと……覚えてるもん!」
女は顔を赤くしながら、男が飲んでいた飲料を横取りすると、コップの残りを一気に胃へ流しこんだ。が、飲まなければ良かったと後悔したのは、それが炭酸飲料だったから。
「小学校の記憶も曖昧な奴がなに言ってんだよ。つまりお前は、フィクション・クォーターかつマジョリティ・ノンフィクション女ってことだからな」
「ちょっとなに言ってるのか……。だって覚えてなくても、それは紛れもなく自分のことだもん。とにかく、わたしはノンフィクションなの」
そうして、女はそっぽを向いた。どこからか、我が家の食卓とは別の匂いが香ってくる。あすは野菜炒めでも作ろうか。
「お前から見た他人は、みんなフィクション?」
「あれ? じゃあ、わたしも他人から見たらフィクションなの?」
「自分以外もノンフィクションと認めないと、そうなってしまうな。それに残念ながら、お前はすでに俺を認めてるんだよ」
「な、なにを根拠に……」
ふたりの取り留めのない論争に、本日も終わりが見え始めた。いつもなら男が言い負かされて、悲壮と敗北で己を慰める行為に走るのだが、今日ばかりは澄んだ目線を逸らさず、女の顔へ注ぎ続けた。
「お前はさっき、『わたしたちがやってるフィクション論争』って言ったな。複数形を使った時点で、俺を認めてたんだ。そう、心のどこかで無意識に」
「っ、それは……」
女が箸を置いた、おかずを咀嚼しながら。不意にその顔が赤くなり、目尻には涙を浮かべていた。今度ばかりは反論をしようとはしていない。
「だって、同棲して五年も経つのに……わたしはずっと待ってるのに……!」
女が絞り出した声音や、必死に留める涙を放っておけば、古臭いサンダルを履いて、イケメンアンドロイドがうろつく夜の街へ走り去ってしまうだろう。
「待たせて悪かった。ここ最近、お前の存在が当たり前すぎて……」
男は会話を繋ぎ止めるように箸を置いて立ち上がると、茶箪笥に忍ばせておいた小さな箱を取り出し、ボロアパートに似つかわしくない一品を蛍光灯の下へ露にした。小さな宝石がきらりと光る、小ぢんまりとしたリングを目にした途端、女の両眼からはそれよりも絢爛と輝くものが溢れ出してきた。堪えていた感情は、わけがわからないという様子で、「それ……」という嬌声に変わった。
「いや、その……これから、新しい物語を作っていきたい、っていう俺からのお願いかな。もちろん作り話じゃなくて、ノンフィクションの人生を。ふたりだけの人生を作っていきたい。だから俺と結婚してください」
「……よ、喜んで!」
煌びやかな都会の片隅に浮かぶ、ボロアパートの小さな薄明かりが、今夜ばかりはどのネオンよりも輝いて見えた。まだ現実味を帯びないプロポーズの言葉が心地良すぎて、そのあとふたりは途方もなく黙りこくっていた。
「――さて。日々、報道という名のフィクションが繰り返される世界の片隅。そんな浮世で、あなたの側に居てくれる大事な人は本物ですか?」
「え? てか、あんた誰に言ってんの……?」
「そりゃ、画面の前の皆様だろ」
「あぁ、フィクションの住人たちね。カクヨムっていうフィクションのサイトで、わたしたちが棲む現実世界での出来事を、文字として読んでるんでしょ? 変なの」
「ははっ。文字で物語を楽しむなんて、フィクションの住人は風情があるなあ」
フィクションず 常陸乃ひかる @consan123
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