ポーラスター

丹生 執

第1話

 船に乗っていた。手漕ぎボートのような小さな船。ひとりでに進む、小さな船。私は揺れて揺れて、水平線を睨む。何もない。果てすらも、ない。


   ○


 病痾は梔子色の薫風。解けない暗号。時が止まって、車輪が回り出す。

 ノイズを呟くトランジスタ・ラジオが海に沈む。悲鳴を上げる乾いた蠍が海に沈む。ピチカートを奏でるヴァイオリンが海に沈む。第三の眼。溢れた涙は須臾の間に、海に紛れてかき消えた。闃然の水底。泥を吐く神と律法を貫く車軸。

 燃え盛る苦艾に脳が軋る。踏み躙った姫空木に船が軋る。混沌を否定する繊月に車輪が軋る。薔薇の麻薬を探した。

 双色の扉と双色の鍵。転換するマーブルの渦流。不幸の象徴。スプーンの上のヘテロクロミアの左眼。渺茫の原野。遺灰に埋まるジギタリスの蕾。煙に巻く。蒼ざめた月。

 苦艾の炎に飛び込む鵲。醜怪な花鶏。譫妄に囚われた極楽鳥。夜露に氷る鶸。血を舐める鵯。首を刈られた鶫が嗤い、声を失った比翼が落ちる。

 インクの溶けた綴じ本。宇宙を司る冷たい青林檎。蝋燭を吹き消す狡猾な鼬。腐った杭に貫かれる野兎。砕け散る香水壜。焼け落ちる陋屋。腐臭。折れた櫂。隻脚の人魚は溺れて死んだ。

 終末は蠱惑の煌き。車輪は空転をやめ、また時が皮膚を裂く。


   ○


 船が沈み始めて、世界が壊れ始める。私は真白の闇が迫るのを感じながら、瞼を閉じて雨の律動を聴いた。いつまでも、聴いた。





 終幕。

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