腹時計を止めた
夜橋拳
第1話
十七歳の女は目を覚ました。
女のどこにでもいる十七歳で、昨日と変わらない顔をしていた
「ふぁ~あ」
大きなあくびや伸びをして、ベッドの上から起き上がる。
女はこの場所に全く見覚えがなかった。
辺りを見回し、古ぼけた日記を見つけた。自分の名前が自分の字で書いてあったのでそれは自分のものなのかな? と思い、持って開いた。
日記の一ページ目を開くとこんなことが書いてある。
『あなた(わたし)はあなた自身の発明 腹時計 により十七歳まで若返っている。
腹時計とは、人の年齢を止めたり若返らせたりすることができる。しかし記憶は当時の年齢(腹時計を止めた瞬間)の記憶が最新の記憶として脳に記憶される。
一日寝ると記憶はリセットされる。
あなたは時間を止めている、記憶がないのはそのせい。
朝起きると不満気な顔をした子供がやって来るけど、彼は自分のお手伝いさんだから安心すること』
「へー、わたしってば凄いもん作ってんじゃん」
日記に書いてある通りだと、自分は腹時計なるものを発明し、それで自分は若返り、時間を止めている。
そして、その腹時計とやらは今も変わらず動いており(止まっているけども)、効果を発揮している。
「おはようございます」
部屋の扉から、穏やかな顔をした老いた男が入って来た。
「あなたは誰ですか?」
「あなたの世話をしている者です」
世話をしている、の間違いではないだろうかと思うほど、男は女と年齢が離れている。
女から見ても、この男の年齢は七十五から八十位だと思った。
おかしい、女はそう思った。
自分の世話をしている人物は、「不満毛そうな顔をした子供」のはずだ。
それなのに、目の前にいるのは、「穏やかな顔をした老人」がいる。
書き間違いだろうか、間抜けは大人になっても直っていなかったらしい。
「朝食ができています。食卓までご案内します」
男は丁寧な口調で、そして朗らかに言う。
女は男に着いて行く。
食卓に着くと、目玉焼きが乗ったトーストと、コーヒーが二つあった。香ばしい匂いが女の鼻くすぐる。
「おいしそうですね」
「そうでしょう、そうでしょう。トーストは焼き立てが一番です。早く食べましょう」
二人は席に着き、トーストを食べ始める。
「おいしいです」
「ありがとうございます」
「こんなこと言っちゃ失礼かもしれませんけど、おじいさんが震える手で作ったとは思えないかんじです」
「ははは、本当に失礼ですね。でも、このトーストと目玉焼きは私が作ったんですよ。子供の頃から母に作っていたので、こんな震える手になっても自然と作れてしまうんです」
女の失礼な言葉にも男は笑って返す。
大人だなーと女は思った。
「お母さんに作ってあげてたんですか? 作ってもらったじゃなくて」
「ええ、作ってあげてました。母は仕事熱心な方でね、家事は私の仕事でした」
うわ、と女は顔を歪ませて声に出した。
「酷いお母さんですね」
「いえ、そんなことはないですよ。世のため、私のために働く母はとてもかっこよかったです」
「お父さんはどうしたんですか?」
「父は私が生まれたくらいに死んでしまいました。父が死ぬまでは父が家事をしてくれてたんですがね」
「お父さんはいい人だったんですね」
「ええ、父は会社で働きながら家事をするという、なかなかハードなことをいつもやっていましたからね。親らしいと言えば、圧倒的に母より父の方が親らしかったです」
二人は朝食を食べ終え、歯磨きを終え、顔を洗うと、男が、
「何か、今日したいことはありますか」
と聞いてきた。
この手慣れた感じからすると、やはり男はいつも自分の世話をしてくれているのだろう。
なら、そのお礼も兼ねて女は、
「あなたが今日したいことをしましょう」
「じゃあ……」と男は少し考えて、
「一緒に散歩をしましょう」
*
「今日は良く晴れていますね」
空を見上げた男が言う。
確かに今日は良く晴れている。雲一つなく、絵の具で塗ったような青い空が広がって、近所の畑の向日葵が太陽の方を向いていた。
女は男のスピードに合わせて歩いた。男もできるだけ早く歩こうとしていた。
終始無言でいるわけにもいかず、恐らく覚えていないだけで何度もしたであろう質問をした。
「ねえ、おじいさん。わたしの研究は役に立ってる?」
「ええ、役に立っていますよ」
「どんなふうに役に立ってるの?」
「例えば、とても重い病気にかかった人が、その病気の治し方がわかるまで生きることができたり、孫の入学式までは生きていたいという老人が使ったりします」
「へー、わたしみたいに時間を止めて若いままでいる人はいないの?」
「それは……いませんね」
「えー、なんでですか?」
「生活するお金がないからです。あなたは腹時計の発明で、使いきれないほどのお金があって、私のようなものを雇うことができますが、普通の人はありません」
「でも、いないってことはお金持ちの人もやらないんですよね、それってなんでですか?」
「時間を巻き戻せば、そこまでの記憶しか記憶されないからです。良い記憶も、悪い記憶も、忘れたくないものってるんですよ」
「ふーん、全然わかんない」
「でしょうね」
ははは、と二人は笑いあった。
*
家に帰る。
外から見てみるとこんなに立派な家だったんだなと、女は自分に感心する。
「さて、昼食は何にしましょうか」
「冷やし中華が食べたいです」
「わかりました」
男は冷蔵庫の中から麺、ハム、きゅうり、冷やし中華用のたれを取り出した。
「ずいぶん用意がいいんですね」
「昨日食べたいとおっしゃっていましたから」
「え、そうなんですか」
「そうですよ」
男は冷やし中華を女に作り、一緒に食べ始めた。
「おじいさんって何歳なんですか」
「今年で八十五歳ですかね」
「えー、若―い!」
正直女はそこまで違いは分からないが、七十五歳くらいだと思っていた。
はきはき喋れているし、背中が曲がっていないし、そういうところを含めたらもっと若く見えても良かった。
「健康で若い顔は母から譲り受けました」
「へ―、お母さんも若作り何ですね」
「そういうあなたも実年齢より若く見えますよ」
女は十七歳だが、十五歳くらいでも通じる顔だった。
「えー、そうですか?」
「そうですよ」
ぷくー、と女は頬を膨らませる。
「若いってことはいいことですよ。思うように体も動くし、頭も回る」
「じゃあなんでおじいさんは、腹時計を使って若返らないんですか」
「わたしにも忘れたくない記憶があるんですよ」
「忘れたくない記憶ってどんな記憶ですか」
少し間を置いて、男は言う。
「父と母、死んでしまいましたが妻と息子のことですね」
「息子さんと奥さん、亡くなってしまわれたんですか?」
「ええ、妻は寿命。息子は事故で」
「腹時計を使えば、そんなことも忘れられますよ」
「忘れたくないんですよ」
「なんで忘れたくないんですか」
「忘れると言うことは、なかったことにすることと同じです。私は、二人を、そして父と母をなかったことにはしたくありません」
「へー、そういうもんなんですか」
「そういうもんですよ」
「わたしは、嫌なことがあったらすぐ忘れたいですね」
ちょうど、冷やし中華を食べ終わった。
*
昼を食べ終えた後、二人は将棋やらオセロやらをやっていた。その途中にテレビを見たりしていたのだが、女の全く知らないニュースや、女が時間を巻き戻す前の時代とはかけ離れたテレビのノリに、一体どのくらい十七歳でいたのだろうと思い、男と話した。
「えー! じゃあもうQUEEN流行ってないの⁉」
「あなたが時間を巻き戻す前ですら、もう流行ってはいませんでしたよ」
「違うもん! ボヘミアン・ラプソティがイマジンを超えて一位に選ばれたんだもん!」
「大昔の話ですよ、それ」
「そんなぁ……天下のフレディが…………」
女はがっくりと肩を落とす。
男は携帯から音楽を流す。
「おお! 素敵な音楽ね」
「これも昔の音楽ですけどね」
「ところで、その機械はなに?」
「これはスマートフォンと言います。この時代の携帯電話ですよ」
「電話ってこんな小さくなったんだー! すごい」
女がスマホに感心していると、男は小さいキーボードを持ってきてこう言った。
「その曲は私が作ったんですよ」
「え、そうなの! すごい!」
嘘である。
ちなみに、昨日も付いた嘘である。
男はキーボードでその曲を弾いた。
たいしてうまくなかったが、女は褒めた。
男は嬉しくなって年甲斐もなく何時間も弾いた。
女はいつまでも褒めていた。
*
そんなことをしている間に夜になった。
夕食を食べ終え、風呂に入り、女は朝起きた時の見覚えのなかったベッドに入った。
「今日は楽しかったよ、おじいさん」
「私もですよ」
「明日もよろしく、覚えてないと思うけど。おやすみ」
「はい、おやすみ」
女が眠りについたことを確認し、男は部屋を出る。
「……あ」
男は大事なことを忘れていたことを思い出し、部屋に戻るためにドアを開けた。そしてその場でこう言った。
「おやすみ、母さん」
腹時計を止めた 夜橋拳 @yoruhasikobusi0824
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