桜、さくら

御剣ひかる

誰にも汚されたくない思い出の場所

 太陽が立ち並ぶビルの向こう側に消えてしまうと、とたんに空が暗くなった気がする。実際にはまだ空には青色が残ってて、太陽が沈んだ方はオレンジ色に染まっているのだけど、街灯やビルの窓、店の玄関に明かりがともり始めると余計に夜の始まりだと感じる。

 桜は満開になったけど、陽がかげるとGジャンではまだ寒い。自然と体が縮こまってくるのを隣の洋介に気づかれたみたい。

「やっぱ寒いやろ。夜桜見に行くんやからGジャンじゃ寒いって言ったのに」

 ほらみぃ、って彼の表情と口調に、わたしは頬を膨らませた。

「だって、スプリングコート持ってなかったんやもん。もう冬物は季節はずれやし」

 洋介は笑って、わたしの手を強く握って自分のジャンバーのポケットに突っ込んだ。

 あったかい。

「ありがと」

「はぐれないためにちょうどいいかもな。おまえ、手ぇつないどらんと人ごみにまぎれそうや」

「ちっちゃい子じゃないし」

 まあ彼の言うように、人ごみにまぎれそうなくらいに身長は低めなんだけどさ。

 京阪電車の四条駅から八坂神社に向かう道、四条通は人でいっぱいだ。みんな神社の方面へ向かってる。

 桜が見ごろのこの時期は、清水寺で夜の特別拝観が行われてる。きっとこの人たちは八坂神社経由で清水寺に向かっているのだろう。わたしたちもそう。

 神社の境内に入る。せっかく来て素通りももったいないしお参りをした。もう夕方なのに、同じようにお賽銭箱に小銭を投げ入れ、拍手かしわでをうつ人達がたくさんいる。

「何をお願いしたん?」

 洋介に聞くと、頭をかきながら「ちゃんと就職できますようにって」と答えた。もう大学四回生だしなぁ。

 最近の就職活動はとても早くて、三回生の終わりごろからもう企業訪問というのも珍しくない。洋介も何社か訪問したみたいだけど、やっぱり厳しいっぽい。

「早苗は?」

 洋介が聞き返してくる。

「卒論がうまくまとまりますようにって」

 卒業論文は卒業必須単位だもん。スサノオノミコト様、お願いいたします。

 神社を東側に抜けると、たくさんの出店が並んでいた。とうもろこしやたこ焼きのおいしそうなにおいが立ち込め、買い求める人達でごった返している。

 ここは円山公園。桜の名所で、とても大きな枝垂桜しだれざくらが有名だ。

 京都の近くに住んでいるくせに京都にはあまり詳しくないわたしだったけど、このあたりのことは多少の知識がある。去年、初めて洋介とデートする前に観光サイトで調べたんだけどね。

 公園のそばの道を通るころには空が急激に明るさを失ってきていて、桜は外灯に淡く照らし出されていてとても綺麗だ。

 濃いピンクに輝く桜は不思議な雰囲気を醸し出してる。

 けど、そこここでござを敷いてる人達は、せっかくの桜はそっちのけで結構騒がしい。お花見っていうより酒盛りが目当てっぽく見える。

「寄ってく?」

 洋介が聞いてきた。でも、もうちょっと落ち着いた雰囲気のところがいいな。

「ううん。清水寺行こ」

「やっぱ寒いから?」

 わたしの、ちょっとばかり風流を愛する心はぜんぜん洋介には伝わらなかったらしい。

 いちいち説明するのもめんどくさいし、薄着をしてきてしまった言い訳に取られるのもしゃくだから反論はしないでおいたげる。

 わたし達は円山公園に別れを告げて南へと下っていく。

 石畳の道の両側には、足元に行灯が等間隔で置かれている。さすがにろうそくじゃないけど、これもすごく綺麗。

 ここまでくると思っていたよりも人が少ない。四条通から八坂神社へと向かっていたたくさんの人達は、もしかしたら円山公園での花見が目的だったのかもしれないな。

 三年坂の階段を上り東に入ると、道の両側に観光客を目当てにしたさまざまなみやげ物屋が並んでる。四条通の近代的な建物が多い並びとは違って、居を構えてかなりの年月が経っていることを容易に感じさせる雰囲気だ。

 道には、また人の賑わいが戻ってる。けど、公園での馬鹿騒ぎじゃなくて落ち着いた雰囲気の人々だ。なんとなく、ほっとしている自分がいる。

 早苗って、どこか古風やなと洋介に言われたことがある。そうかもしれないね。

 その洋介は、みやげ物屋に並ぶ、ちょっと変わった品々に目を取られている。京都の名産と並んで、どこかのキャラクターを「パクッた」グッズが結構おいているんだよね。

 こういうのを買うのって、日本のキャラクターグッズを好む外国人か、ちょっとマニアックな趣味の人ぐらいじゃないかな? 店先に並んでいると目を引くのは確かだけど。

 坂を上りきると、仁王門に到着。二〇〇〇年代に入って改修されて昔より綺麗になっている。鮮やか過ぎて違和感を覚えるのは、やっぱりわたしが古風だからだろうか。

「拝観料払ってくる。早苗はここで待ってろよ」

 門をくぐったところで、洋介が、まるで小さな子に言い聞かせるような口調で告げると、つないでいた手を放して行ってしまった。

「もう、また子ども扱い?」

 洋介の背中に文句をぶつけてみても彼は振り返りもしなかった。人々の話し声に消されて届かなかったのかもしれない。

 絶え間なく流れていく人々。でも思っていたより混雑してなくてよかった。

 桜、楽しみ。綺麗だろうなぁ。

 そんなことを考えていると、洋介が戻ってきた。拝観チケットを渡してきた彼はびっくりした顔になった。

「手、めっちゃ冷たいやんか。大丈夫か?」

 言われて、自分があまり寒さを感じていないことに気づいた。空気の冷たさに体が慣れちゃったのかもしれない。

「うん、大丈夫。それよりも早く行こ」

 わたし達はまた手をつないで、清水寺の境内を歩いた。

 人の流れにゆるっと乗って清水の舞台に到着だ。昼間とはまた違った雰囲気だね。薄暗い中であたりがほんのりとライトアップされている。

 舞台からは遠くに京都の夜景が広がってる。手前には白色のライトに照らし出されたソメイヨシノ。都会の喧騒を遠くに押しやって咲き誇る薄紅色の花達に思わずわぁっと声が出た。

 とても、綺麗だ。

 あっちこっちのスマホのフラッシュが、ちょっと興ざめだけれど。

「ママ、だっこぉ」

 わたしの隣にいる小さな、たぶん幼稚園くらいの子が母親に抱っこをせがんでいる。

 まだ二十台半ばくらいに見えるお母さんは笑顔で女の子を抱き上げている。隣には多分お父さんだろうな、若い男の人が寄り添っていた。

 小さな子がいるだけで、なんだかほほえましい。

「なんや? 抱っこがうらやましいん?」

 また洋介は……。少々うんざりしたので、ちょっとやり返したい。

「そうやってすぐ子ども扱いするけどさ、わたしの方が洋介よりも博識なんやで」

「お、博識ときましたか」洋介は面白がっている。「で、どんなことをご存知なんですかー?」

「清水の舞台の高さって知ってる?」

「一〇メートルちょいやっけ?」

「うん。で、江戸時代にほんとにこっから飛び降りる人がおったんは、知ってる?」

「え、マジ?」

「マジマジ。普通こんな高さから飛んだらヤバいやん? 実際、結構死んじゃったらしいよ」

「なんでそんなアホなこと」

「清水の舞台から飛び降りて助かったら、願い事が叶うってウワサがあったんやって」

 今とは違ってそういうデマも信じられやすかったのかもね。

 あ、でも、デマはSNSとかでもよく広がってるから、昔も今もおんなじか。

 そんなことを考えてたら。

「じゃあ……、この下に生えている桜の根元には、死体が埋まってるんか? あぁなるほど、それで桜が見事に咲いてるんやな」

 洋介も何か感心してるような顔って思ったら、また茶化してとんでもないことを言い出した。

「ちがうよ!」

 せっかくの桜にケチをつけた洋介に一言物申すとばかりに口を開きかけたわたしよりも早く、さっきの女の子が声を上げた。わたし達の話を聞いてたみたい。わたしの隣で大人に抱かれているんだから聞こえていても不思議じゃない。

「ここはそんなとこ、ちゃう。ここはパパとママのおもいでのばしょなんや」

 女の子は必死に訴えかけてくる。表情は真剣そのものだ。彼女を抱いた母親が、ちょっと困った顔をして「すいません」という。若いカップルの戯言に子供が反応したことに対して謝っているのかな。

 でも謝るのはわたし達の方だ。せっかくの美観を楽しむ心に水を差してしまった。

「いえ、いいんです」わたしは母親に一声かけてから、女の子と目を合わせた。「ごめんね、おねえちゃんたち、変なこと言ったね」

「そうや。したいなんて、ないんやで」

「うん。綺麗な桜があるだけやね」

 わたしの言葉に、女の子は、ぱぁっと顔をほころばせた。

「ここはパパがママにぷろーずしたところやって。だからさくらがいるんやーって」

 ぷろーず? あぁ、プロポーズのことか。

 母親を見ると顔を赤らめている。「さくらちゃん、ママ恥ずかしいからそんなこと言わんとって」とやさしくたしなめている。隣の父親は頭を掻いて苦笑いを浮かべていた。

 あったかそうな家族。あこがれるな。

「さくらちゃん、ここ好き?」

「うん。はじめてきたけど、だいすき」

 さくらちゃんの笑顔は、周囲に咲き誇る桜に負けないほど輝いていた。

 やがてさくらちゃんと彼女の両親は一足先に舞台を後にした。さくらちゃんは、小さな手を一生懸命に振って、見えなくなるまで別れの挨拶をしてくれた。

「おれたちも行こっか」

 洋介が声をかけてくる。

「うん」

 洋介は、またわたしの手をつないで彼のジャンバーのポケットに入れた。

 やっぱ、あったかい。

「ありがと」

 今度は憎まれ口をたたかずに、洋介は笑って、ぎゅっと手を握ってくれた。

「ねぇ、地主神社寄っていい?」

「奥の神社?」

「そうそう、恋みくじ引きたいねん」

 つないだ手のぬくもりを確かめ合うように強く握りあい、わたし達も歩き出す。

 人にはそれぞれ大切な場所がある。誰にも汚されたくない思い出がある。今日、さくらちゃんがそれを思い出させてくれた。

 わたしも、初めて洋介とここにきたときはもっとときめいていた。この場所が誰かに悪く言われようものなら、それがたとえ冗談でも反論したかもしれない。

 あのころの気持ち、大事にしないと。洋介といることがあたりまえになって、ありがたみさえなくならないように。

 きっとこれから桜を見ると思い出すだろう女の子の笑顔に、心の中でもう一度、ありがとうと告げた。



(了)


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桜、さくら 御剣ひかる @miturugihikaru

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