TV maniacs

 テレビは相変わらずニュース速報を続けている。

 政府が専門家を招いて災害対策本部を設立するというが、一体何の専門家がこの事態に対応できるのだろう。



 私はハンガーにかけたままの校章つきのポロシャツに着替えて、紺のスカートを履く。

 布地が薄い方が夏用の制服だが、箪笥の中で一緒に置いておいたらどれが冬物でどれが夏物かわからなくなってしまった。

 鏡の中にいつもと変わらない私がいて、皆原さんの姿で着替えることを想像すると、変わらなくてよかったと思った。



 時刻は九時十分。あと二十分でホームルームが始まる頃だ。

 リビングに戻って、網戸の向こうで揺れる垣根の葉の先がブリーチしたばかりの髪のように茶色くなり始めたのを見ていると、庭先で声がした。


「行くわよ、すずちゃん」

 世界の終わりを経験したように錆びてひしゃげた自転車を引いた彼女がいた。

 私は網戸を開けて外に出る。玄関にローファーを取りに行こうかと思ったが、百円均一で買ったサンダルをつっかけて網戸を閉めた。


「普通高校生で行くわよなんていう子いないよ」

「普通の女子高生なんか知らねえよ」

「お兄ちゃんが付き合ってたのギャルだったもんね」

「うるせえ」

 彼女の姿をした兄が自転車にまたがり、サドルの後ろを叩く。私は少し迷って後ろに乗り、細い背に手を回した。



 リモコンで早送りを押したように夏の終わりの街の風景が高速で後ろに流れていく。

 兄が前屈みで自転車を漕ぐたび、肩より少し下で切りそろえた、染めなくても少し明るい髪が鼻先に触れる。恐竜の化石を思わせる鋭い背骨の凹凸が頬に当たった。

 微かな体温と腰の細さが伝わって、自分がろくでもない大人になった気持ちになる。


「サンダルのまま学校行くのか」

「ううん、校門から見るだけ。どんな風か見て、行けそうだったら行く」

 兄が吐き捨てるように笑う。背中からほのかに香るのは男性用の汗拭きシートのメンソールとグレープフルーツの混じった匂いだ。香りまでは似ていないことが救いだった。



 俯いて町のひとびとの顔を見ないようにしていた私の耳に否応なく声が響いてくる。

 彼女の声で彼女が絶対に上げない悲鳴のような笑い声がした。

 兄がペダルを踏む足をアスファルトに下ろす。

 顔を上げると、見慣れた校舎が鉄製の校門の間から覗いた。


 男子の制服を着た彼女と女子の制服を着た彼女が五人いた。

 男子の方がズボンのポケットの部分を摘んで、貴族の令嬢のように一礼し、他の四人が一斉に笑う。

 朝起きた彼が制服に着替える前に一度裸になって鏡の前に立ったのを思い浮かべ、彼よりも自分の想像に気が滅入った。

「行けそうか、駄目そうか」

 兄は爆弾を仕掛けるテロリストのような目で校舎を眺めた。

「駄目そう」

 兄は答えずにアスファルトに下ろした足をまたペダルに乗せた。



 学校が遠ざかっていく。

 女子たちの制服を思い出す。みんな秋用のシャツに薄いブルーやクリーム色のベストを着ていた。衣替えの時期でもないのに、みんなある日から示し合わせたように季節に合わせた制服に替える。

 私はいつも一日出遅れて衣替えをする。知らない連絡網があって、私だけ外されているような気持ちになる。


 私はふと気づいて骨の輪郭が浮き出した背に顔を埋めた。

 今、彼女の顔をしていない私は真夏に冬服で登校してきたような存在だ。顔の前に髪を掻き合わせて、逃亡犯のように下を向く。



 自転車が止まったのは河川敷だった。

 普段は草野球をする中年や、犬の散歩に来た老人がまばらな影を作る草むらの坂道に、今日は誰もいない。

 兄は自転車から降りて煙草を取り出す。

 彼女の唇がラッキーストライクを唇に挟み、慣れた手つきで火をつける。

 煙はちょうど私の目の位置に流れて、私は自転車を降りた。


「阿呆くさいな」

 兄が煙と一緒に吐き出す。何が、と聞く気にならなかった。

「皆原さんだっけ? 仲よかったのか」

「別に、授業で少し話して、一回学校の外で偶然会って、そのくらい」

「なら、よかったな」

 何で、と聞く気にならなかった。


 俯き気味に河川敷を眺めていると、川の水が光を受けてくしゃくしゃのアルミホイルの表面のように輝いた。

 光の先にふたりの彼女がいる。片方がもう片方の袖を掴み、何か言い争っていた。

「だから、本当かって証拠はどこにあるの」


 兄が灰を落として小さく笑った。

「今の俺たちは全員匿名だからな」

 私は顔を上げて兄を見る。

「みんな同じ顔してるだろ。さっき会社に行った親父の服を着た誰かが成り代わって、家に戻ってきて、俺たちが気づけるかって話だ」

「怖いこと言う……」


 言い争うふたりの片方が手を振りほどき、振り返りもせずに去っていく。


「『かくも長き不在』って古いフランス映画があってさ」

 長い睫毛で目の下に影を作りながら煙草片手に映画の話をする兄は、ひどく彼女らしかった。

「カフェをやってる女が十年以上前にゲシュタポに連行された旦那そっくりの浮浪者を見つけるんだ。そいつは記憶がなくて、本当に旦那かどうかわからないまま、女がその男と暮らすんだよ」

「そういうことがあるかもって言いたいの?」

「さあな」


 私は学校で見かけた五人の中に本物の彼女がいるのを思い浮かべる。

 姿が突然変わってしまった他人のふりをして生きる本当の皆原さんがいてもおかしくない。普段は上げない悲鳴のような笑い声を上げる女の子のふりをして生きる彼女に、私は気づけるだろうか。



 スニーカーの底が砂利を噛む音に視線をやると、車道を挟んだ向かいの道路に彼女が立っていた。

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