コピーアンドペースト全人類皆原さん
木古おうみ
supernova
たとえば朝、気になってる女の子が起こしに来てくれるっていうのは、男の子なら一度は誰もが夢に見ることだと思う。
女の私でも少しいいなと思う。
でも、それが両手で数えるほどしか話したことがない同級生で、勝手に私の部屋にいて、しかも、東京から仕事を辞めて帰ってきたばかりの兄の洋服を着ていたら、少し嫌だなと思うんじゃないか。
今まさに私がそう思ってるみたいに。
「
寝起きの掠れた声で私が言うと、彼女は兄そっくりに眉をひそめた。
「リョウ、起きろ。リビングに来い。えらいことになってるから」
私をリョウと呼ぶのは家族だけ。何から聞けばいいか戸惑う私の胸のあたりを見て、彼女は吐き捨てた。
「メガデスなんか着て寝てんのか」
ドアを閉める音がして、私は古着屋で買ったけれど着て行く場所がないバンドTシャツのよれた襟を見下ろした。
寝間着のままリビングに降りると、彼女が三人いた。
父の誕生日に私が上げたシャツを着てテーブルの木目を見つめている彼女。
エプロンをつけて、何度目かの禁煙を宣言した母が食器棚の奥にしまったマルボロを手にしている彼女。
椅子に立膝をついて座る、兄と同じ服の彼女。
「リョウ、無事だったの?」
エプロン姿の彼女がパニック映画のような台詞を言う。
「みんながみんなこうなった訳じゃないんだな」
Yシャツの彼女が老眼鏡を押し上げるような仕草をして、何もない眉間を擦った。
「どうなってるの……」
私が呟くと、兄の服を着た彼女が残りふたりを指差す。
「わかってると思うけど、一応こっちが親父で、こっちがお袋な。それでこれが俺」
「どうなってるの……」
私がもう一度呟くと、Yシャツの彼女がリモコンをテレビに向けた。
また彼女の顔が液晶の中にふたつある。
「未曾有の事態であります。本日未明から各地で様々な方の姿が……変身、変身としか言いようがありません。こちらの女性の姿に変身するという事態が多発しています。私をご覧いただいてもわかります通り、私キャスターの伊藤ですが、変身は日本を重点的に世界各地で起こっていると見られ……」
ニュースの顔に不釣り合いなしどろもどろの声で、スーツにヘルメットを被った彼女が言う。
その隣にワイプで同じ顔が映し出されていた。
昔、信用ならないソースのネットニュースに“世界中のひとが夢で見たことがある男の顔”というトピックがあったのを思い出す。
中年にも若くも見える、無害そうなのに不気味な男の顔。
“この少女は誰?”
赤い太字のゴシック体の見出しが彼女の額の上に映る。
狭い額に垂れる寝癖直しのスプレーで少し濡れた前髪。ニキビ跡などひとつもない白い頬。睫毛も瞼も重たく少し眠そうに見える瞳。カッターで裂いた傷に似た薄い唇。
「そういうことだから」
彼女と同じ顔に皺を寄せた父が言う。
「そういうことって言ってもね」
母が手汗で歪んだ煙草の箱を押し潰す。
「ヘルメットなんかしてもしょうがねえよな」
埃を被ったテレビの画面がザラついたのを見て、リモコンの電源ボタンを押した兄が言った。
「お前、皆原さんって言ってた。知ってんのか」
世界中のひとが突如変身してしまった少女のプロトタイプを私知っている。
二年三組。出席番号二十八番。
おうし座。B型。
短距離走が得意で持久走が苦手。
選択授業は美術と世界史。
部活は写真部。LINEのアイコンは猫。
趣味は写真と音楽。
ソール・ライターというニューヨークにいた傘の写真ばかり撮る写真家が好き。
平成の初期に活躍していた、ロッキンオンに載ってるようなバンドが好き。ほとんどは解散か活動休止しているから、ボーカルが現在やってるバンドを細々と追いかけて、昔のライブ映像を見る。
中学のとき、気取った趣味だと言われて嫌な思いをしてから、流行りの芸人とアイドルはとりあえず覚えるようにしている。
猫は雑種の太ってるやつが一番好き。
「同級生、同じクラスの子」
芸能人と同じクラスだったというように兄が「そりゃすげえ」と言う。
何もすごくない。私が知ってる情報のほとんどは、クラスで別の子と話していたことか、彼女がSNSで呟いていたことだ。
私に向けて発信されたことはひとつもない。
私が皆原さんと話す機会は唯一、情報科の授業でパソコンの実習があるときだけ。
たまたま振り分けられた席で隣になった皆原さんはコピーアンドペーストのやり方も知らなかった。
寝癖を消すスプレーのミントの香りがする髪を耳にかけて、彼女はいつも私の画面を覗き込んだ。
その仕草も、詳しいんだねと笑った少し低い声も、同級生と思えないくらい大人に見えた。
私はショートカットキーの使い方を教える代わりに、彼女が小さなタブで開いたELLEGARDEN活動再開のニュースとSNSのアカウントを盗み見た。
父は細すぎる首にネクタイを巻きながら立ち上がる。
「会社に行くの?」
母はそれを驚いたような目で見る。
「病院とか、行った方がいいんじゃない?」
「病院で治るものじゃないだろ。混んでそうだし、何科に行けばいいかわからないしな」
父は困ったように笑いながら首を振った。
「泌尿器科」と呟いた兄は無視した。
皆原さんの声で泌尿器科という言葉を聞きたくなかった。
父と母がリビングを出て、いつもと変わらない私は彼女の姿をした無職の兄と取り残された。
「学校どうしよう」
兄は首筋を掻きながら、「サボれよ」と言う。
授業も単位も今頃想像したくない騒ぎになっている教師や同級生たちもどうでもいい。
今、気になるのはひとつ。世界中の人間の原典になってしまった皆原さんがどうしているか、だ。
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