カースメディエーター
山本アヒコ
カースメディエーター
崩れた壁と落ちた屋根。すでに使用不可能となった家屋。かろうじて屋根が残る建物も、壁には穴がありそこから見えるのは柱がいくつも折れている光景だ。いつ崩壊するかわからないので中に入ることは躊躇われる。
その数はひとつだけではない。見る限り全ての建物がそのような状態だった。ここはすでに放棄された都市なのだ。
滅びた都市に二人だけ人間がいた。崩れて細い路地を塞いだかつて壁であったレンガの山を、軽々と飛び越えて走る。二人は全身を鎧で覆われていたが、その重さを感じさせず軽やかに着地すると、速度を落とすことなく走り抜けていく。
『ゥォォォォ』
二人を追いかける無数の声。それは人の声ではない。生ける者への怨嗟に満ちたうめき声は、瘴気の塊である呪霊のものだ。二人を追うその数は二十に届こうかという数だった。
「どうやら逃げるのは無理そう」
「そうだな。やるしかない」
二人とも若い女性の声だった。
この都市が放棄される以前には人々が多く歩いていたであろう大通りに出た二人は、足を止めるとそれぞれ武器を構えた。
一人は腰から剣を抜いた。両刃の一般的なロングソード。柄や鍔には多少の装飾がなされているが、その剣身は厚くまさに実践向きのものだ。
もう一人が持っていたのは、身長より少し短い程度の杖だ。金属製の杖の先端は球形に膨らんでいて、そこにだけ美しい装飾が施されている。
走るのをやめた二人の周囲を呪霊たちが囲む。黒と赤がまだらに混ざった煙が無理矢理に人の形を成したような姿は、見る者に恐怖をあたえる。しかし武器を構える二人には恐れる様子は全く見えない。
呪霊は肉体を持たず重さも無い。物理法則に縛られず空中を自由に動き回る。二人を逃がさまいと数体の呪霊が頭上を飛んでいた。そのうち一体が空中から襲いかかった。
「フッ!」
背後から襲いかかった呪霊を、振り返りざまに剣で斬り払った。両断された呪霊は声をあげることもできず消え去った。
『ォォォォ……』
それを合図に呪霊たちが一斉に襲いかかった。しかし二人は一切慌てるそぶりを見せず、冷静に呪霊が伸ばす腕を回避し、あるいは剣と杖で打ち払う。
「ふう……終わった」
「雑魚しかいなくてよかったな」
「お疲れ様」
杖を持っていたほうが笑顔でねぎらう。こちらは兜を装着していないので顔がよく見えた。背中まである金髪を後ろで束ねている。二十歳にはなっていないであろう。
剣を持っていたほうは兜の面を上げる。こちらも若い女性だ。汗が浮かんだ顔は切れあがった目が印象的で、銀色の髪は耳がかろうじて隠れるほどの長さだった。
「しかし、ここがかつての大都市とは思えない有様だな」
かつての大通りにその面影はない。左右に並ぶ建物に無事なものは存在しなかった。壁に大穴がある程度ならましなほうで、ほとんどのものは巨人に上から踏まれたかのように崩壊している。
おそらく屋台であったであろう残骸の周囲には、果物が腐りしなびた残骸が転がっていた。それを見つけた杖を持つ女性は近づいて道に転がるそれを悲しそうに見下ろす。
「ああ……もったいない……」
「果物なんて贅沢品も昔は普通に食べられたからな……」
果物の味を思い出したのか遠い目をしていた剣士の女性は、急に視線を別の方向へ向けると、視線が鋭く変化する。
「フィテア、何か来るぞ」
視線の先の瓦礫の向こうから何かが飛び出してきた。迎撃しようとそれぞれの武器を構えた二人は、驚きで目を丸くする。
「子供っ!?」
ボロボロの服を着て顔も体も汚れた子供は、前ではなく後ろを見ながら走っていた。
「止まれ!」
剣士が叫ぶと子供が顔を前に向け、二人がいることをそこで初めて知った。
「えっ? 人が?」
驚いて思わず立ち止まる子供の後方、かつて建物だった瓦礫の小山の向こうから、先ほどと同じに見える数の呪霊があらわれた。
剣士は地面を強く蹴り子供へ向かって駆ける。フィテアも一瞬遅れてそれに続いた。
「え? え?」
混乱している子供はその場に立ち尽くしている。その背中へ触れようとした呪霊を剣が両断する。続けて襲いかかってきた二体はフィテアが杖を素早く振ると、当たった瞬間にはじけ飛んで消滅した。
「動くな! 下手に動かれると守れない」
子供を挟んで二人は背中合わせに武器を構える。呪霊たちは三人を囲んでゆっくりと回りながら襲う機会を狙っていた。
「フィテア、来るぞ!」
「わかってます!」
子供を守りながら戦うのは初めてだったが、無事に二人は呪霊たちに勝利することができた。それでも呪霊との連戦は体力の消費が激しく、全身が汗で濡れていた。
「ふう……」
「終わった……?」
「そのようだな」
二人が顔を見合わせて弱々しい笑みを浮かべると、同時に同じ方向へ顔を向ける。
「っ?」
突然向けられた視線に、子供はおろおろと左右に目が泳ぐ。
「お前はここで何をしてるんだ」
「何って……ここに住んでるんだよ……」
「こんな瘴気に汚染されて、呪霊だらけの放棄された都市にお前ひとりだけでか? 信じられないな。本当のことを言え」
「な、なんだよ……嘘なんか……」
子供が言いかけた瞬間、その右目から一筋の血がどろりと垂れ落ちた。
「わっ! だ、大丈夫なのキミ?」
フィテアが慌てて布を取り出して血を拭く。それでも血は右目から滲み出てくる。
「やばい、あいつらがまた来た」
「あいつらとは?」
「さっきのバケモノだよ! 近づくと血が出るんだ」
「何だそれは……」
怪訝そうにしていたが、何かに気づいた様子で顔を横へ向ける。その先から確かに呪霊たちの気配を感じた。これまでの経験から得たその感覚は、これまで外れたことは無い。
「……とにかくここから離れるぞ」
「わっ!」
剣士は脇に抱えるようにして子供を抱き上げると、呪霊の気配から逃げるため走り出した。フィテアもそれを追って走る。
「ここならしばらく大丈夫」
子供がそう言うと二人は足を止めた。場所は都市の中心部から外れた、裕福な商人の屋敷であったであろう場所だ。壁のほとんどは崩れているが、四方の柱は無事で屋根も残っているため、かろうじて建物として使える状態である。
「なぜわかるんだ」
「体のムズムズがなくなった。血も止まった」
「意味がわからない」
「バケモノが近づいてくると体がムズムズして、もっと近くなると目とか鼻から血が出るんだ。離れるとそれがなくなる」
「嘘を言うならもっとマシな嘘を言え」
「嘘じゃない。オレがここまで案内しただろ」
呪霊から逃げる際、二人は最初はかなり慎重に動いた。足手まといになる子供がいるうえに、戦力となるのはたった二人だ。
さらに土地勘も無い。ならばとここで住んでるという子供に道案内を諦め半分で頼んでみた。すると道だけではなく、呪霊の位置まで二人に教え始めた。
姿の見えない呪霊の位置を教えることを最初は信じていなかったのだが、二度三度と呪霊の奇襲を当てたり、この先に呪霊がいると言うので偵察してみれば実際にいた。なので半信半疑ながら子供の指示に従ってみれば、呪霊の奇襲や見つかることもなく移動できたのだった。
「きっとこの子が言っていることは嘘じゃありません」
「しかし、信じられない」
「ですが、そんな力を持っていないと、この呪霊だらけの場所で生きてはいけなかったでしょう」
フィテアがそう言うと、不承不承ながら頷く。
「それじゃ、あらためまして。私の名前はフィテア。あっちはラギーネ。キミの名前は?」
「……トーキ」
「トーキ君っていうんだ。この都市にずっと住んでるの?」
トーキは頷く。
「そう。お父さんやお母さんは?」
「わかんない……姉ちゃんがいたけど、バケモノに捕まって、それで……」
「辛いことを聞いてごめんね……」
そのときトーキの腹が鳴った。フィテアも自分が空腹であることに気づく。
「ラギーネ、とにかく休憩しましょう」
「そうだな……さすがに疲れた」
フィテアとラギーネは壁の残骸に腰を下ろす。室内にあった机や椅子などの家具はただの残骸になり果てていて、他に座れそうなものはなかった。トーキも同じように座る。
フィテアたちは斜め掛けに背負っていた袋を地面に置くと、中身を取り出す。袋は小さくあまり物は入っていないようだ。
フィテアは袋なかから小袋を取り出した。その中身は干し肉だ。それをナイフで切り取り、トーキへ差し出す。トーキはしばらく動かなかったが、フィテアが笑顔で見つめ続けていると、やがて受け取った。
「フィテア、あまりそいつにやりすぎるなよ。食料はもう残り少ない」
「わかってる。水もほとんど使い切ってしまってるし」
フィテアは袋の中から真鍮でできた円筒形の容器を取り出した。太さと長さも親指ぐらい。蓋を外すと杖の先端である球体に中身の液体をゆっくりかける。
「なにしてるんだ?」
干し肉を噛みながらトーキが言った。
「聖水で杖を聖別しているの。こうすることで呪霊を倒せるようになるんだよ」
ラギーネも同じように聖水を剣にかけている。
「その胸の模様、教会にあるやつと同じだ。二人は教会のシスターなのか?」
「シスターじゃないんだ。教会聖化隊の隊員だよ」
「聖歌隊? 歌を歌うってこと?」
「違うよ。歌うんじゃなくて、聖化隊は呪霊たちに支配された土地を解放するのが目的。私たち二人はそのために来たんだ」
現在この大陸の半分以上が呪霊たちが徘徊する、瘴気に満ちた人の住めない土地になってしまっていた。呪霊たちを排除し、人類が居住可能な土地を奪回するのが彼女たち【教会聖化隊】の役割だった。
ラギーネは聖水を剣にかけ終わると、空になった容器へ水袋から水を入れて蓋を閉めると、両手で包み目を閉じる。
「聖なる主神よ、その力を私に分け与え水に祝福を……」
祈りを込めたその言葉とともに、手で包んだ容器がわずかに光る。光はすぐに消え、目を開けたラギーネは満足そうに真鍮の容器を見ている。
「あれは何をやったんだ?」
「ああやって聖なる主神のお力を借りて水を聖水にするんだよ」
そう言われてもトーキは不思議そうにラギーネを見ていた。年齢相応の表情にフィテアは微笑むと、もうひときれ干し肉をトーキにあげた。
「フィテア、そっちの聖水の残りは」
「まだあと二本あります。ですが残りの水が……」
ラギーネの問いに、フィテアは自分の水袋を触りながら目を細めた。水袋は平らにつぶれていて中身がないことがわかる。この水は聖水を作るだけではなく飲み水でもあるため、現在の状況はあまり良いものではない。
「こっちも水を使い切った。さすがに今回はここが限界か……」
「そうですね。それに……」
二人が干し肉を噛むトーキに目を向けた。こんな場所に少年をひとり残していくわけにはいかない。生き残った人々を助けることも彼女たちの任務なのだ。
二人の視線に気づいたトーキは顔をそちらへ向けると、干し肉を飲み込んだ。
「……あんたら、水がいるのか? だったらあっちのほうに井戸があるぞ」
「なぜそれを知っている」
「たまに使うからだよ。他にも井戸はあるけどここから近いのはそこ。食べ物も残ってる」
「本当なのか」
「本当だよ! なんで信じないんだ嫌なやつだな!」
トーキとラギーネがにらみ合い、それを見たフィテアが苦笑する。
「休憩するんでしょラギーナ。トーキ君も。ほら干し肉まだあるよ?」
「……食べるっ」
ラギーナはため息をつくと自分の干し肉を取り出し、ナイフで削り食べ始めた。
腹が満たされたトーキは疲れていたのだろう。座ったまま眠り始めた。フィテアは地面に自分のマントを敷くと、その上にトーキを寝かせた。それを見たラギーネの唇が片側だけ歪む。
「……いいのか?」
「もう移動するのは無理でしょう。すぐ夜になる」
「火はどうする」
「大きな火はさすがに危ないと思う。たいまつ用に小さな火種だけ作って、見えないように石とかで壁を作ればいいと思う」
「……それしかないか」
ほどなくして周囲は闇に包まれた。本当に小さな種火だけが唯一の明かりで、それも積んだ廃材で囲まれているのでほとんど意味をなしていない。
「……フィテア、起きているか」
「ええ」
いつもならどちらかが見張りをしながら交互に睡眠を取る。だがまだ起きていた。
「あいつについて、どう思う」
「家族を失いひとりきりでこんな場所にいるは、とても辛かったでしょうね」
「そういうことじゃない。本当にあいつはここで暮らしていたのか? ありえない。大量の呪霊が彷徨う瘴気の澱みのなかだぞ。普通ならすぐに殺されている」
「それこそ、あの呪霊を感知する力でしょ?」
「信じられるか。同じ聖化隊ならまだしも、ただの子供だぞ。それに、フィテアも知っているはずだ。これまで見てきた場所に、生き残りは一人もいなかった」
「…………」
フィテアとラギーネの二人はいくつもの場所を偵察してきたが、呪霊たちによって占拠された都市や村で生き残った人間は『一人もいなかった』のだ。
五年前、大陸の南東に突如現れた【澱みの冥穴】はそこから噴出する瘴気によって人々の心身を犯し、無現かのごとくあふれ出てくる呪霊たちはあっという間にいくつもの都市と村を滅ぼした。
瘴気と呪霊はとてつもない早さで大陸を汚染していったが、半年ほど前にまだ滅んでいない各国の騎士と魔法使いを大量投入した電撃侵攻作戦によって澱みの冥穴は封印され、大陸全てが飲み込まれることはなくなった。
しかしその被害は甚大だった。各国の最大戦力をありったけ集めたのだが、そのほとんどが犠牲となってしまっている。そのため今残っている戦力はあまりに少ない。フィテアとラギーネがたった二人でこのように危険な先行偵察をしているのも、それが原因である。
最低でも五人以上で行くべきなのだが、それすらできないほど戦力は払底してしまっている。しかし、そうでもしなければ人類が危険な状態だった。
それほどまでに世界は食料不足なのだ。大陸の穀倉地帯のほとんどを呪霊によって占拠された状態であり、このままでは大量の餓死者がでるのが目に見えていた。そのため呪霊たちを早急に殲滅し、土地を取り戻さなくてはならない。
だがそのための戦力が、人員がいない。なので偵察を行い、少ない戦力でも取り戻せるであろう場所を特定するのが急務だった。その偵察に出せる人員もない。ではどうするのか。
最少人数で強行偵察を行い、何があっても奪還可能な土地を発見し報告する。一名なら難しいが、二名なら最悪『一人を囮にしてもう一人が逃げればよい』
フィテアとラギーネは、その人命をを無視した最悪の作戦に参加した二人だった。彼女だけでなく、他に多数の人間が同じ過酷な任務を行っていた。それほどまでに現在の人類は滅亡の淵に立たされている。
「……私たちの任務は、奪還可能な場所を見つけてそれを報告すること。たとえ……どちらかが死のうとも、必ずそれを報告しなければ私たちに未来はない。そのためには、子供を一人見捨てるのは仕方がないことだ……」
「何を……言ってっ! 唯一の生き残りなのに。それにトーキは、これまでずっと一人で耐えてきたのに!」
「それがおかしいと言っている。この都市が呪霊たちに占拠されたのは三年前のはずだ。その間あんな子供が生き残れるわけがない」
「だからそれは、あの子の力で」
「……もう寝ろ。とにかく明日になってから決めよう。あの子供をどうするのか」
「…………」
フィテアはそれ以上何も言わず、地面に寝転ぶ。
目を閉じて眠ろうと思いながらも、どうしても考えてしまう。食料も水も尽きた。これ以上先へ進むのは無理だ。この都市では弱い呪霊しか今のところ見ていない。戦力を集中すれば奪還可能に思える。この情報は必ず持ち帰らなければならない。しかしトーキは足でまといになる。だが、彼の能力はかなり有用だ。
まとまらない考えをいじり回しているうちに眠りに落ちていた。
夜のうちに呪霊に襲撃されることはなかった。十分な睡眠をとったトーキは元気そうだ。フィテアは途中で見張りを交替したのだが、それまでの睡眠でかなり体力が回復している。ラギーネも同様だ。
夜明け直後、朝日が崩壊した都市を明るく照らす。低く伸びる影に隠れるようにして、三人は朝食である干し肉の欠片を飲み込む。
「よし。お前が昨日言っていた井戸と食料がある場所へ案内しろ」
「……わかった」
用意を整えたラギーネの言葉に不満そうな顔をしながらも、素直に従う。
三人は瓦礫の隙間を縫うようにして移動する。トーキを先頭に進んでいるといつしか石畳で舗装されたひろい道へ出る。
「ここは?」
「貴族のやつらが住んでた場所だよ」
周囲を見れば、敷地を囲む壁はレンガを規則正しく積み上げて鉄柵を巡らせていたものや、綺麗に剪定されていただろう生け垣があった。ただし、その全ての壁はほとんど崩壊し、生け垣であったであろう場所は剪定されず放置されたため、枝が無軌道に伸びてかつての面影はどこにもない。
建物も同様で、美しい大理石の小山になっていたり、レンガの残骸から木製の折れた柱が突き出ていたりと、貴族の暮らしていた場所とは到底思えない光景だった。
「ここだよ」
瓦礫を乗り越えると広い庭になっていた。荒れ果てているがその広さもあり街中に比べると綺麗に見える。
「こっちこっち」
小走りのトーキに導かれるまま崩壊した建物の裏へまわると、確かに井戸があった。桶を引き上げるための滑車もちゃんと残っている。無事に水袋を満杯にできた。
「トーキ君。食べ物がある場所はどこかな」
「こっちだよ」
井戸から少し離れた場所にある小屋か何かの残骸へ向かう。そこには残骸にまぎれて地下へ繋がる扉があった。鉄製で頑丈そうなので、建物の崩壊で壊れなかったようだ。
トーキが開けるのに苦労していたのでフィテアが手伝う。地下倉庫は狭くフィテアはしゃがまないと入れない。背が高いラギーネならさらに苦労しそうだった。
地下倉庫にはいくつかの壷が並べられていた。ひとつをのぞいてみると大量の塩が詰められていた。手で探るとその中に数種類の野菜が埋められていた。保存食らしい。ほかにも香辛料らしきものと、精製前の麦があった。この麦は少なくとも三年以上前のものだが、保存状態は悪くない。
「これを食べてたの」
「うん、そう」
「食料があるならこの場所にずっといればよかったんじゃないか」
「バケモノは毎日いろんな場所にやって来るんだ。ずっとここにいたらすぐに捕まるよ。壷も重くて持ち歩けないし」
ラギ-ネの質問にトーキはぶっきらぼうに答えた。
トーキの年齢は十一か十二あたりだろう。しかしまともに食べていないだろう体は、骨と皮だけに見えるほど痩せ細っていて、荷物を抱えて呪霊から逃げるのは不可能だろう。
「よし、食料を袋へつめるぞ」
「……待って!」
トーキが急に大きな声を出したので怪訝そうに顔を向ける。トーキの片目と鼻から血が垂れた。
「バケモノが来てる!」
フィテアとラギーネは素早く武器を構え、油断なく周囲へ目を巡らせる。視界で捉えるよりより先に、足元へ忍び寄った冷気で存在を感知した。
実際には存在しない冷気だが、何度も呪霊と戦ってきた二人には慣れ親しんだ感覚である。目に見えない瘴気が肌を這う。
三人を囲む大量の呪霊の姿が見えた。呪霊はゆっくりと包囲を狭めてくる。その数はもしかすれば百以上もいるのではないだろうか。
「これは……かなり危ないな……」
「大丈夫トーキ君!」
トーキは鼻を手で押さえているが血が止まる様子は無い。ついには両目から血が垂れ始めた。少年の両目はにじり寄ってくる呪霊ではなく、そのさらに向こうへ向けられていた。
「何だあれは……」
ラギーネの力無い声に振り向くと、フィテアもそれを見た。
呪霊たちの後ろに立っていたのは、城の城壁ほどの身長を持つ巨人だった。その大きさだけでも異常だが、腕が四本あり首がないという異形。
地面を震わせる足音ととも近づいてくると、その全体がより確認できるようになる。何も身に着けていない裸は盛り上がった筋肉で覆われていた。首は無いが胸の中央に巨大な目がひとつ、黄色の瞳をこちらへ向けている。四つある手に指はそれぞれ三本だけ。ただしどれもが太く丸太のようで、関節も人間よりひとつ多く長い。肌は赤黒い紫といった色で体毛は見当たらず、股間に性器は無い。
「そんな……まさか冥呪体が……しかもあの大きさは特大級……」
呆然としていた三人の中、最初に我に返ったのはフィテアだった。
「ラギーネ! あれは無理です! 逃げますよ!」
「っ……ああ!」
「トーキ君も走って!」
三人は巨人とは反対方向へ走る。その先には呪霊たちが立ち塞がっていたが、あの巨体に比べればマシに決まっていた。ラーギネが走りながら呪霊を切り刻み、その後をフィテアがトーキを守りながら続く。
「大丈夫ですか!」
「だいじょうぶ……」
言葉とは逆に、トーキは苦しそうだ。両目と鼻から赤い血を垂らし続けながら必死で走る。抱え上げて走ることができればいいが、そうすると呪霊たちを攻撃するのは難しい。そうなればあっという間に呪霊の餌食になってしまう。
「おおおおおっ!」
何とか三人は呪霊の包囲から抜け出すことができた。このまま逃げ切ることができればと考えたが、それは淡い理想と消えた。ふと頭上に何かの気配を感じて見上げると、いくつもの岩やレンガ木材が三人へと落下していた。
「ラギーネ! 危ない!」
叫ぶと同時にトーキを抱えてフィテアは横に跳んだ。ラギーネの無事を確認する暇もなく、瓦礫が地面へ激突する。
巻き上がる土埃のなかフィテアが叫ぶ。
「ラギーネ! 無事なの!」
「ああ、大丈夫だ!」
土埃が薄れるとラギーネが立つ姿が見えて胸を撫でおろす。しかしそれは一瞬の安堵だった。周囲を呪霊たちに囲まれている。まだ遠いが、冥呪体の巨人は確実に歩いて来ていた。トーキの顔は血で染まっている。
呪霊たちが一斉に襲いかかってきた。それに絶望することなく、フィテアとラギーネは武器を手に立ち向かう。その瞳には戦意の炎が消えず揺らめいている。
しかしたった二人では、四方八方どころか宙を飛ぶ呪霊たちに対応するのは難しい。徐々に押し込まれてしまう。
トーキの全身を襲うムズムスとした感触はすでに痛みになり、体の自由がきかないほどになってきた。目と鼻からの出血は止まらず、意識も霞がかかったようで周囲の光景をうまく認識できていない。
その体が急に浮き上がったかと思うと、空を飛び地面へ叩きつけられた。その痛みで意識が回復した。立ち上がるが、足はふらついている。
「逃げてトーキ君!」
フィテアの叫びが聞こえたが、その姿は呪霊に遮られて見えない。彼女がトーキの体を呪霊の包囲の外へ投げたのだ。
「逃げなさい!」
まだ意識が朦朧としたままのトーキは、言われるがままどこかへ向けて駆け出した。
走っているつもりだが、足はよろめいていて歩いているのと変わらない。それでも言われた通り逃げようと足を動かす。目は右左とあらぬ方向へ不意に動き、視線が定まらない。なので足元の石に気づかずに転ぶ。
「うあ……」
声が漏れたが、地面へ胸を打ち付けたことによる反応だ。声に苦痛の様子はなく、生気がない。トーキの意識はほぼ失われていた。
それでもトーキは立ち上がり、また進む。後方からは巨人の足音が聞こえる。周囲は崩壊した街並みがただ広がるのみ。人の姿はトーキだけだ。
(なんでオレはここにいるんだ?)
白いもやがかかった意識の中で、トーキは自問する。とにかく体が痛い。どこがというわけではなく、全身のいたるところが痛く、血液に毒が混ぜられているかのようだ。両目と鼻からの出血は止まることはなく、垂れ落ちた血が点々と道に続いている。
(オレは……そうだ姉ちゃんと……いや……姉ちゃんは二人だっけ?)
意識にかかる濃い霧の向こうに見えたのは、鎧を着た二人の影。顔は茫洋としてわからない。髪の長いほうがこちらへ何か叫んでいるようだが、よく聞こえない。
(何を言ってるのか聞こえない……)
足を引きずるように歩くトーキへ、一体の呪霊が近づいてきていた。しかしそれに気づくどころか、何も見えていない状態だった。ただ機械的に足を動かすトーキの背中に呪霊が触れた瞬間、たいまつを押し付けられたような熱さと痛み、ハンマーで殴られたかと思うほどの衝撃を受けて体が弾き飛ばされた。
「ガハッ」
『キィイイイ』
呪霊も無事ではなかった。トーキに触れた瞬間、その腕が消滅したのだ。
強烈な痛みに意識を取り戻し、周囲を見るトーキ。
「ここは……」
周囲に崩壊した建物の瓦礫が転がっているのは同じだが、その材質が違っていた。頑丈な石やレンガといった建材は見当たらず、薄い板きれや子供でも折れそうなほど細い木材とぼろきれ同然の布。ここは貧しい人間たちが集まる貧民街であった場所だった。
トーキは急に寒さを感じて腕をさすった。それは濃い瘴気に触れたときに感じる冷気。それだけではなく、体のいたるところに痛みが生じる。呪霊たちが近いのだ。
いつの間にかトーキはおびただしい数の呪霊に囲まれていた。いや、彼は自分から呪霊たちの領域に飛び込んでしまっていたのだ。
周囲の瓦礫に混じっていくつもの奇妙な物体が転がっていた。人間大ほどもある結晶だ。黒色に近い紫の結晶は棘のように鋭い切っ先を無数に伸ばしていた。これはただの結晶ではない証拠に、中心部分には苦悶にうめく人間の顔が見える。
【冥呪結晶】は人間の死体を触媒に瘴気が結晶化したものだ。この結晶は瘴気を生み出す。瘴気が濃くなれば呪霊が生まれ、その呪霊が人間を殺しその死体は冥呪結晶となる。こうやって呪霊はこの大陸を汚染していった。
その汚れた結晶がいたるところに転がっている。この貧民街にいた人間たちは逃げることもできず殺され、その死体は全て結晶の触媒となってしまっていた。
『ォォォォ』
呪霊たちが一斉にトーキは群がってきた。満足に動かない体で逃げる。とにかく前へ、伸ばされる呪霊の腕をかいくぐり、地面へ倒れそうになっても手をついて体勢を立て直す。一度転んでしまえばあとはなぶり殺しにされるだけだ。
それでもさすがに限界がくる。顔に触れそうになった呪霊の手を、反射的に手で払ってしまった。呪霊の腕が弾けるように消滅したが、同時に衝撃波が全身を襲う。
「ぐぇっ!」
トーキの体が宙を舞い、かろうじて残っていた板壁を突き破った。
「ああっ……」
呻くトーキの右手はねじくれた模様を描くミミズ腫れと、無数に浮き出た水泡によって爛れてしまっている。
「ハァハァ……」
弱々しい息は今にも止まってしまいそうだ。それに同情する心を待たない呪霊は、ゆくりと包囲しながら近づいてくる。
「……?」
倒れたトーキの目の前に、冥呪結晶があった。なぜかそれが気になり、地面を這い近づくと、閉じ込められた人間の顔が見えた。十五才ぐらいの少女だった。
(この顔……)
トーキはこの都市の貧民街で暮らしていた。父と母と姉の三人家族。父と母が二人とも働いていたが生活は貧しく、食事がない日もよくあることだった。
それでもトーキは自分が不幸だと思ったことはなかった。姉がいたからだ。長く赤いくせ毛も持つ姉は、貧民であることを感じさせない明るい笑顔を持つ少女だった。生まれたときからトーキの世話をしていて、彼にとって二人目の母のような存在でもあった。
幸せな世界はある日突然崩壊した。大量の呪霊が都市に押し寄せたからだ。
たしかに呪霊の支配地域は迫ってきていたが、この都市はまだ余裕があるはずだった。奇襲を受けた都市の防衛隊は効果的な戦闘ができるはずもなく、瞬く間に数を減らす。
防衛隊が守るべき対象は都市と、それを治める貴族たちのみだ。貧民街の住人は、もちろん助ける対象に入るわけもなく、放置された。
トーキは姉に手を引かれながら逃げる。あちこちで断末魔の悲鳴が聞こえた。それを気にしている余裕などない。次の瞬間には自分が叫んでいるかもしれないのだ。
「はあはあ……」
「トーキ早くっ! あっ……」
姉が転倒する。その直前に手をはなしたおかげでトーキは転ばずにすんだ。
「姉ちゃん!」
「逃げてトーキ!」
姉の足を呪霊が掴んでいた。虚ろな眼窩は彼女を得物と定め赤く澱んだ光を放つ。
「逃げるのっ!」
「わ、わあああああああっ!」
トーキはひたすらに走った。姉の悲鳴を聞きたくなくて両耳を塞ぎながら。両目からあふれる涙を手で拭くことができず何も見えない。
どこを走っているのかもわからず、ただただ逃げる。しかし何かにつまづき、転倒した。痛みにうめいていると、一体の呪霊が近づいてきた。
(ああ……死んじゃうんだ……)
諦めたトーキは目を閉じる。
その直後、激痛に思わず叫び、意識を失った。
「……姉ちゃん」
冥呪結晶の中にいたのは、間違いなく三年前に別れたトーキの姉だった。
なぜかあの時、トーキは生きていた。目を覚ましたあと姉を探したが、いたるところに呪霊が徘徊していて、迂闊に動くことがでいなかった。
あれから三年間、トーキがこの都市から逃げなかったのは姉を探すためだった。もしかしたら生き残っているのかもしれないと、わずかな希望にすがって。しかし、その希望はこれで砕かれた。
結晶の中で目と口を開いた姉は恐怖に叫んでいるようにも、トーキに語りかけているようにも見えた。
「うう……」
両手を強く握りしめた。両目から血液が混じった涙がこぼれ落ちる。
すぐ側までにじり寄った呪霊が手を伸ばすが、それを手で弾いた。
「ぐあああっ」
『ォォォ』
呪霊の腕が消滅したが、その代償に左手が爛れ激痛が全身を痺れさせる。それを無視して立ち上がり、姉が閉じ込められた結晶に触れた。
瞬間、結晶は青い光とともに消滅する。姉の体もろともに。
「そんな、うそ……」
呆然と姉がいた場所を見ていると、ひとつだけ残っているものがあった。冥呪結晶の欠片だ。薪ほどの長さで、鋭利な槍の穂先を思わせる形をしている。
トーキはそれを拾う。掴むと手のひらを焼かれるような痛みがあったが、気にならない。限界まで強く握りしめる。
フィテアとラギーネはすでに体力の限界に気づいている。巨人から逃げながら多数の呪霊と戦うというのは、たった二人では到底無理な行いだった。
「ここが死に場所か」
「諦めるのは……まって、何か変」
巨人と呪霊たちが動きを止めていた。二人ではなく違う方向を気にしているようだ。
「青い光?」
「あれは、まさかトーキ君?」
こちらへ歩いてくるのは間違いなくトーキだった。右手に青く光る何かを握っている。
『ボォォォ』
巨人が声をあげてトーキへ向かう。フィテアは守らなければと思ったが、もう体が動かない。「逃げて!」と叫んだが、聞こえないのか巨人へ向ける足は止まらない。
巨人が四本ある腕の左側二本の拳を振り下ろした。逃げるそぶりも見せず、トーキは迫る拳に向けて右腕を突き出した。
巨人の腕が二本、肩まで消滅した。叫びながら右腕を振り下ろしたが、それも同じく少年の一振りで消滅する。
トーキが右手に持つのは青く光る結晶の剣だった。爛れた手から流れる血が、握る冥呪結晶に触れると青色の結晶となって成長したものだ。
トーキの血は呪霊を拒絶する。その強烈な拒否反応は自らの肉体を爛れさせるが、その代償に呪霊に対して最強の武器となる。
全ての腕を失った巨人に向かってトーキは駆け、太い足首に青い結晶剣を振り下ろした。片足を失った巨人はふらふらと揺れて後方へ倒れる。
「わああああああっ!」
トーキは倒れた巨人の頭部へ剣を振り下ろした。その剣の長さからはありえない事に、巨人の頭部から股間までを両断してしまった。二つに分かれた巨人の体は音もなく消滅する。
トーキはその場にしばらく立っていたが、その体から急に力が抜けて地面へ倒れてしまった。フィテアは慌てて駆け寄る。
「トーキ君! よかった息はある。でも両手の傷がひどい。何があればこんなことに」
「おいフィテア!」
「ラギーネ。そうだ、呪霊は?」
「いつの間にか消えていた。それより、そいつだ。一体何が起こったんだ……」
「わからないけど、確かなのはこの子に私たちが助けられたということ」
意識を失ったトーキの顔と両手は血で染められてひどく汚れている。フィテアとラギーネも血こそ出ていないが同じような状態だ。
その中で青い結晶だけが美しく輝いていた。
カースメディエーター 山本アヒコ @lostoman916
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