寒蝉

橘暮四

第1話

 午後一時。無人駅。錆びた標識。打ち上げられたボート。静かに波が打ち返す砂浜。静寂の中、遠くで鳴くツクツクボウシが一匹。僕は学校をさぼり、海へ来ていた。


 九月の上旬、まだ残暑が厳しい午前九時、僕は私服で家を出た。小さな鞄にお札数枚とぬるい水を入れて。親には置き手紙を残して。高校の最寄り駅を通り過ぎ、電車をいくつも乗り換え、遂には日本海沿岸を渡るローカル線までやってきた。僕はいちばん端っこの席に座り、ぼんやりと窓の外を眺める。目の前には日本海が広がっている。線路のすぐ側にあるはずなのに、長方形に区切られた海はなんとも他人行儀だ。窓を開けて潮の匂いを吸い込んでも、あまり変わらない。アルバムから引っ張り出した思い出の風景の写真を見ているようだった。

 そうして30分ほど電車に揺られ、太陽が南中より少し西に傾いた頃、僕はある駅に着いた。無人駅で、周りに人影はない。木造の駅舎から外へ出て、駅をぐるりと回るともうそこには海がある。なんの形にも区切られていない、そのままの海だ。日本海にしては穏やかで、鮮やかな群青色をしている。見上げれば、水縹の空が。都会ではほとんど見えない空も、ここでは指先に触れそうな距離感にある。潮の匂いを思い切り吸い込み、舗装された道を少しふらふらと歩いた後、僕は直接砂浜に座り込んだ。周りに人はいなく、蝉の声もしない。緩やかな終末のような停滞が僕を包み、僕はその中心でただ海を眺めていた。


 どのくらいそうしていただろう。時間の経過を認識したのは、視界に映る水縹と群青が赤く染まった頃だ。さてこれからどうしようかとぼんやり考えていたとき、

 「やあ、君もサボり君かい?」

と背後から声がした。振り返ると、そこにはセーラー服の少女がいた。歳は同じくらい。セミロングの黒髪に透き通るような白い肌をしていて、まるで白黒映画のようだ。整った顔立ちで、僕の顔を覗き込んでいる。僕は答えるのも無視するのも面倒臭かったが、気まぐれでひとつ返事をしてみた。

 「ああ、そうだよ。"も"ってことは君もサボりでしょう?どうしてセーラー服なんか着ているの?」

 「どうしてもないよ。私、女子高生なんだから。サボりでもそうじゃなくても、今のうちに可愛い服は着ておかなくちゃ。」

なるほど。妙に納得してしまった。すると彼女は立て続けに質問する。

 「というか君、見たことない顔だけどどこから来たの?少なくともここらへんじゃないでしょ。」

 「東京からだよ。海を見に来たんだ。」

 「へぇ。ずいぶん遠くから来たね。どうしてわざわざ東京から海を見に来たの?」

 「さあ。知らないよ。だけど辛いことがあったら、とりあえずは海を見るでしょ。」

 「なるほどね。じゃあ君は辛いことがあったんだ。」

 「まぁね。君もかい?」

 「そうだよ。辛くて辛くてたまらないから、今から溺死しようと思って。」

僕はぎょっとして彼女を見たが、彼女はなんでもないような表情で首を傾げて「冗談だよ」と楽しそうな声音で呟いた。

 彼女は僕の隣に腰を下ろし、続ける。

 「ていうか、東京から来たんじゃもう今日中には帰れないよ?田舎は終電早いんだから。君こそここで死のうとか思ってたんじゃないの?」

 「まさか、僕にそんな勇気はないよ。かといってすぐ帰るつもりもないし、近くの民宿にでも泊まろうかな。」

 「じゃあ私の家に来なよ。三食お風呂付き、お代はお皿洗いとお風呂掃除。なかなかいいでしょ。」

そう易々と男を家に泊めていいものなのか。彼女の危機管理能力が少し心配になる。

 「確かに魅力的だけれど、僕は今日初めて知り合った女の子の家に易々と泊まれるほど、心臓に毛が生えてないんだ。君の親御さんにも迷惑がかかるしね。遠慮しておくよ。」

 「海を見るためにわざわざ学校サボった人が何言ってるの。別にいいよ。私ん家、親いないし。」

最後の一文だけ妙に温度が低くなった気がして、再び彼女の方を向くが、彼女はすぐに立ち上がって、

 「じゃ、行こうか。着いてきて。」

とだけ言い、踵を返して歩きだした。無視することもできた僕は、ただ彼女の言うままに歩きだした。


 絵に描いたような日本家屋で夕食を食べ、風呂から上がり和室へ向かうと、彼女がお茶を淹れてくれていた。

 「やぁ、上がったね。その浴衣、大きくない?」

 「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう。」

僕は彼女の向かいに腰掛け、お茶を啜る。彼女はその一連の動きを、まるでペットのハムスターを観察するように見つめていた。僕は顔を上げ、その瞳を見つめ返す。お互い沈黙していたが、やがて彼女が首を傾げて

 「どうしたの?やっぱり女の子の寝間着姿に緊張しちゃってる?」

と意地の悪い笑顔でからかってきた。自分から見つめてきたくせに。内心でそう毒づきながら、お茶を啜る。そして尋ねる。

 「お宿代は本当に皿洗いと風呂掃除だけでいいのかな?」

すると彼女は首を傾げ、さも当たり前かのように

 「たまたま道端で見つけた花の花言葉を調べるのにも、見上げた虹の色の数を数えるのにも、理由なんてないでしょ?」

と答えた。中々詩的な返しだ。僕は笑みを隠すようにまたお茶を啜った。

 「ねぇねぇ、ていうか、傷心のサボり魔である私たちにはもっとすべき会話があるでしょ?」

 「僕は別にサボり魔ではないけどね。何だろう、思い浮かばないな。」

 「どうでもいい会話しようよ。毒にも薬にもならないような。不登校の生徒の説得にはまず下らない話から、ってよく言うでしょ。」

よく言うのだろうか?もしそうだとしたら僕は、世間の人に比べて不登校に関しての知識が乏しいのかもしれない。

 「例えばどんな話?」

 「そうだねぇ......」

彼女は少し悩んでいるような表情を浮かべ、にわかにニヤッと微笑んだ。僕は思わず身構える。

 「……私たち、運命だと思わない?」

僕は大きく息を吐き出す。なんだそんな話かと思ったが、確かに『下らない話』だ。

 「そうかな、僕はそう思わないけど。」

 「でも、私があの時あの海岸に行ったのは本当にたまたまだったんだよ?そしたら同い年で、しかも同じサボり魔くんに会うなんて、なかなかに運命的じゃない?」

僕はサボり魔じゃない、と訴えたかったが、言っても無駄そうだったので押し殺す。

 「きっと運命っていうのは、その場では分からないものだと思うんだ。人生は数え切れないほどの偶然で出来ていて、運命はその中にさらっと混じっている。奴は偶然と同じ姿をしていて、僕たちが気付かぬ間に僕たちの目の前を通り過ぎていく。僕たちがそれを運命だと気付くのは、きっと全てが終わって…死んだ後だ。自身の人生を初めて俯瞰で見た時、あぁあれは運命だったんだな、って気付くんだよ。心を許せる親友と出会ったのはただの偶然かもしれないし、街中で赤の他人と袖が触れ合ったのは運命かもしれない。だから、生きている間にこれは運命だ、って感じても、それは運命とは言いきれないんだよ。」

 「でもそれ、悲しくない?運命的な何かがあったとしても、それに気づくのが死んだ後なんて。」

 「別に悲しいことはいけないことじゃないよ。人間にとって一番大切な感情は悲哀だ。」

 「うーんそれは分かるけれど…やっぱり私たちは絶対運命だよ。」

 「どうして?」

 「きっと、運命か運命じゃないかは私たち自身が決めることなんだよ。人生に溢れる偶然の中からあるひとつを取り出して、それに特別な意味を付けたなら、それが運命になるんだよ。」

 「意味が分からない。」

 「つまり、サボり魔の私たちがあの時あの場所で出会ったっていう『偶然』に、私たちはお互い励まし合うために出会ったっていう『意味』を私が付けたから、それは運命になるんだよ。」

滅茶苦茶だ。だけど、なぜか頭ごなしに否定する気にもなれなかった。

 「僕は別に、意味を感じてはいないけどね。」

 「そんなの関係ないよ。私が運命だって決めたなら私だけにとっての運命になるし、君も運命だって決めたならそれは私たちにとっての運命になる。」

 「あぁ、確かにそうかもね。」

滅茶苦茶だけど、嫌いじゃない。彼女との会話は、妙に心地よかった。


 僕たちはそれから何日間か、こんな『下らない話』をして過ごした。例えば、ある日僕が「幸せとは充足から最も離れた場所にいる事だ」と言ったら、彼女は「幸せとは充足に漸近し続ける事だよ」と言った。ある日は彼女が「君は悲観主義者だね」と言ったら、僕が「ただ逃げているだけだよ」と返した。「なら君は楽観主義者だね」と僕が言ったら、彼女は「私はただ諦めているだけだよ」と笑った。

 そして気が向いたら、ふたりであの海岸に向かった。そこで何をするでもなく、ただたわいもない話をした。それだけの詰まらない日々を過ごしていた。


 「今夜、花火を観に行かない?」

僕らが出会って6日目の昼、冷やし中華を啜りながら彼女は言った。まだ残暑は厳しい。

 「九月も中旬なのに、花火なんて上がるんだ。」

 「うん、あの花火大会はいつもこの時期なんだよ。この花火が終わると夏も終わるってこの辺では言われてる。」

へぇ、と軽く頷き、最後まで残ったキュウリやら錦糸玉子やらを口に運ぶ。麺と具材のバランスをとりながら食べるというのは少し苦手だ。

 「ほら、私たちがいつも行ってるあの海岸で見られるし。あそこなら人も来ないから穴場だよ。だから行こうよ!」

彼女は返事も曖昧に冷やし中華の具材と格闘し続ける僕を見て、行く気がないと思ったのだろうか。押し気味で勧めてくる。僕としても断る理由はないし、花火大会へ誘う女の子を無視し続けるのはなんだか道理に反しているような気がした。

 「あぁ、もちろん行くよ。花火なんて久しぶりだからね。」

すると彼女はたちまち笑顔になり、「楽しみだね」と言った。まるで演じているかと思うほどに、その時彼女は年相応の女の子だった。

 太陽が沈み始めた頃、僕たちは海岸に向かって歩き始めた。「太陽が沈み始めた頃」なんて、ほんの少し前まではもう十五分ほど後の時間を指していたのにな、とぼんやり思う。花火なんて上がらなくても、季節は巡っている。

 隣を歩く彼女は、麦わら帽子に白いワンピースを身にまとっている。普段彼女が外出する時は、近くの商店へ買い物に行く時でさえセーラー服を着ていたので、少し違和感を感じる。

 「今日はセーラー服じゃないんだね。」

 「セーラー服は、花火を見るための正装じゃないよ。」

 「なら浴衣が一番合うと思うけれど。」

 「浴衣は動きにくいんだよ。細かい男の子はモテないよ?」

いつものように僕をからかいながらも、彼女はいつもより上機嫌だ。よほど花火が楽しみらしい。あるいは、もしかしたら。彼女は誰かと花火を観るのが久しぶりだから喜んでいるのかもしれない。彼女と出会った時、彼女は家に家族がいないと言った。言った通り、彼女は一人暮らしをしていた。その理由は言っていなかったし尋ねなかったけど、一人暮らしには大きすぎる日本家屋や男性用の浴衣、仏壇に飾ってある女性の写真などそれを推理できるのに十分な材料はあった。まぁ、かと言って探偵みたいにそれを暴き立てようなんて思わないけれど。

 そんなことを考えていたら、いつもの海岸にたどり着いた。砂浜に直接座り込み、10分ほど経った頃、


 ぱっ


 夏の夜空に花が咲いた。最初の一発から堰が切れたように、次々と色とりどりの花火が冷たい空を染めていく。ここは打ち上げ場所からは少し距離があるが、障害物がない上に空気も澄んでいるからか、やけに大きく見える。花火なんて幼い頃から何度も見てきたのに、なぜか目の前の景色から目が離せなくなっていた。

 体感時間5分ほど、二人とも黙って空を見上げていると、彼女がぽつりと

 「どうして君は…学校をサボったの?」

と呟いた。破裂音でかき消されそうなほど小さな声だ。彼女の方を見ると、真っ直ぐ夜空を見上げている。一瞬独り言かとも思ったが、彼女の眼は少し緊張を孕んでいた。とりあえず、何か返そうと思った。

 「聞きたい?」

 「君が言ってもいいなら、聞きたい。言いたくないなら、聞きたくない。」

どちらかといえば言いたくない。だけど、花火の音でそんな心の声も聞こえない。

 「僕は勝手に信頼して、勝手に裏切られただけだよ。」

鮮やかな痛みを伴い、一週間ほど前までの記憶を思い出す。僕は少しずつ話し始めた。


 ─僕は、秋の学校祭の実行委員長だった。僕の学校はそこそこの進学校で、大抵の生徒は学校祭よりもその先の定期試験の方が大事だ。そのため、学校祭はあまり盛んではなく、実行委員も各クラス1名、ジャンケンで負けた人が渋々やるようなものだった。委員長なんて尚更だ。今年も委員長決めの会議が紛糾すると思われていたが、今年は僕が立候補してすんなりと決まった。先生達からは泣いて感謝されたが、僕が立候補したのは崇高な理由でもなんでもなく、言ってしまえば下心だ。さしずめ僕は、前代の学校祭実行委員長、1個上の幼なじみの姉さんに、いい所を見せたかったのだ。僕はきっと、姉さんに恋をしていたのだと思う。引継ぎの時の姉さんの託すような目、それだけを信じて頑張ろうと思った。

 姉さんは、3年生が代々発表している劇の代表となった。受験を迎える3年生は下級生以上にやる気がなかったが、姉さんのリーダーシップと熱量が徐々に伝播し、3年生の劇は次第に熱を帯びていった。学校祭本番の2週間前にもなると、今年の3年生は何か違うらしいと校内外でも割と話題になった。僕は姉さんほどの統率力もないので、1・2年生は相変わらず冷めていたけれど。

 事件は学校祭本番一週間前に起こった。3年生の劇のリハーサル中、主役の生徒が大怪我をしたのだ。原因は、実行委員の機材管理不足だ。ある委員が機材の固定をしっかりしていなかった為に、それが倒れ主役が下敷きになってしまった。─


 ここで僕は一度大きく息を吐き出す。この先は、出来るなら一生思い出したくはなかった。呼吸と動悸を抑えて、また静かに話し出す。


 ─僕が学校を飛び出した理由はここからだ。機材管理を怠ったある委員、彼は、3年生に対して機材管理を怠ったのは委員長だと弁明したのだ。素っ頓狂な法螺話だが、彼は彼の取り巻きを使い、それを真実かのように周りに吹聴した。僕の少ない友人関係では、火消しも出来なかった。たちまち噂話は真実となり、僕は3年生たちから厳しい糾弾を受けた。謂れのない批判を受けるのはやはり辛かったが、僕はそれほど傷ついてはいなかった。なぜなら、姉さんはきちんと真実を分かってくれると思っていたから。だけど、現実はもっと残酷に不平等だった。姉さんは僕の顔を見るなり金属みたいな冷たい声音で、

 「心底失望をした。」

と呟いて去っていった。僕は「こっちのセリフだ。」と呟いた。その時僕は、姉さんよりももっと奥の何かを見つめていた。─


 「その後僕は、学校祭関連の書類を1枚ずつシュレッダーにかけていった。初恋の人へのラブレターを書くみたいに、丁寧に。けれどその紙屑たちが恨めしかったから、それらを学校の中庭で燃やした。そしてその灰の色が呪いの様に見えたから、僕は学校から逃げ出した。」

僕は自分が思ったよりも淡々とした口調で話していることに驚きつつ、喉の奥に変なつっかかりを覚えた。嗚咽の様な、吐き気の様な。その正体が分からなくて、僕は彼女に助けを乞う様な目線を送る。彼女はとっくに花が散った夜空をずっと見つめていたが、にわかにこちらを向いた。感情の読み取れない、人形の様な美しい表情だった。僕はそれを汚そうとしたのだろうか、喉の奥のつっかかりを彼女に向かって吐き出す。

 「僕は、たとえ誰にも見てもらえなかったとしても、途中で委員長を投げ出すべきじゃなかったのかもしれない。本当はそのことを酷く後悔しているのかもしれない。だから出会った時君が言ったように、僕は自殺しにここへ来たのかもしれない。何にも分かんないんだよ。僕が誰に対して絶望しているのかさえ。濡れ衣を着せた委員の彼にか、姉さんにか、世界にか、それとも、勝手に信頼して勝手に裏切られて、そのことを一丁前に悲しんでいる自分自身にか。なぁ、教えてくれよ。視界が藍色で、何にも見えねぇんだよ。」

僕は最低だ。こんなことを言っておいて、彼女に期待しているのだから。

 すると彼女は僕にゼロ距離まで近づく。女の子の匂いが、柔らかい肌の感触が、五感を通じて脳に伝わる。


そして彼女の唇が優しく、僕の唇に触れた。


 あぁ、彼女はやはり、僕の期待を裏切らない。僕たちはその後二人並んで帰ったが、気が付いたら布団の上で、道中のことはあまり覚えていない。


 翌日の朝、つまり僕たちが出会って7日目の朝、大きな違和感がふたつあった。

 ひとつは、枕元の目覚まし時計が鳴らなかったこと。彼女が作る朝食に間に合うようにと貸してくれた目覚まし時計のスイッチがオフになっていたのだ。そのおかげで普段より2時間も遅く起きてしまった。

 もうひとつは、彼女が家のどこにもいなかったこと。買い物に行っているのかとも思ったが、財布もかばんも家に置いてあるのはおかしい。ある不快な想像が頭をもたげ、家の中をうろついていると、彼女の他にもうひとつ無くなっているものに気が付いた。想像は確かな質量を伴い、僕はあの海岸へ走り出した。

 海岸はいつものように静かだった。しかし、昨日彼女が言っていた通り、夏が終わったような涼しさだった。まるで全く違う海岸のようだ。僕たちがいつも座って話をしていた所まで歩くと、砂浜にひとつのガラス瓶が刺さっていた。覗き込むと、1枚の紙が。ガラス瓶を引っこ抜き、コルクを抜いてその紙を見ると、地図が描かれていた。ある場所を指しているらしい。歩いて5分位だ。歩くのもじれったいので、地図を横目に見つつ走った。

 地図で示されたのは、目下に断崖絶壁を持つ岬だった。そこに来て初めて目に付いたものはぽつんと置かれた墓石。割と新しめだ。そこに彫られている苗字は彼女の家の表札にあるのと同じ。供えられた花の鮮やかな赤に目が眩む。近づくと、墓石の前にふたつの円筒状の物体があることに気が付いた。ひとつは先ほどと同じように紙の入ったガラス瓶。もうひとつは、水の入ったペットボトル。僕はそれに見覚えがあった。なぜならそれは、僕が家出した時からずっとかばんの中に入れていたから。

 僕はガラス瓶を拾い上げ、中の紙を取り出す。先ほどとは違い、2~3枚の紙にはびっしりと文字が書かれている。丸っこいけれど芯のあるようなこの字は彼女の字だろう。1番上の紙から、ゆっくり読み始めていく。


拝啓

 急にいなくなって、こんな煩わしいことをしてごめんなさい。分かっているとは思うけれど、目覚まし時計に細工をしたのも私です。そこまでしてでも、私には貴方に伝えるべき言葉があるのです。我儘ですが、どうか許してください。

 以前私が貴方に零したように、私には家に両親がいません。母は一年前に亡くなり、父は東京の会社に勤め久しく帰っていないからです。父は一年前までは機会を見つけては帰ってきていたのですが。

 私の母は、2年ほど前に重い肺の病に罹り、寝たきりの生活となってしまいました。常に誰かが見張って、看病をしてやらないといけないような。ですが父は東京を離れられないうえ、祖父が遺した無駄に大きい家以外には資産も貯金もそれほど無いため入院もさせられず、必然私が看病をせねばなりませんでした。母の看病は別に苦でもありませんでしたが、やはり高校に行けず友達にも会えないのは、多少寂しかったのだと思います。

 私はそれを表に見せないよう振舞っていましたが、母にはばれていたのでしょう。一年前の夏、母は優しい嘘を吐きました。ある日、母が今日はとても調子が良いから花火大会に行っておいで、せめて久しぶりに友達と遊んでおいで、と私に言いました。今でははっきりとそれが嘘だと分かりますが、私は久しぶりに友人と会いたいという気持ちが強く、その嘘を信じてしまいました。いや、違うのかもしれません。本当は、嘘だって分かっていたのかもしれません。私はただ、母の優しさに甘えただけなのかもしれません。

 息絶えた母が発見されたのは、私が浴衣姿で家に帰ってきた時です。母の横には水の少し残ったペットボトルと睡眠薬の空箱がありました。

 父は母の死の報せを聞いて家に帰ると、私の失敗を酷く責めました。お前がちゃんと見ていたら、妻が自殺することなどなかったのだ、と。そんなことを言っていた気がしますが、あまり覚えていません。ただ酷く責められたことと、母の死から3日ほど経って葬式も終わった頃には父は何も言わなくなったことは覚えています。


 貴方が今後悔しているように、私も一年間ずっと後悔しています。あの日夏祭りに行かなければ、母は死ななかったのではないか。今でも隣で、諦めかけたように笑っているのではないか。じゃあ、もし私が夏祭りに行かなかったら、私は今後悔していなかったのか?それも違うように感じます。行かなかったら行かなかったで、なぜ母の好意を無下にして友達に会いに行かなかったのか、又は母は死にたがってたのにどうして早めに逝かせてやらなかったのか、と後悔するでしょう。つまり、後悔のない選択肢なんて存在しないのです。どの選択肢を選んだかなんて、後悔の多寡しか違いが無いのです。なぜそう言いきれるのか、理由は簡単です。私たちは後悔する時、常に選ばなかった選択肢の中で最善の未来を想像するから。その選択肢を選んだとしてもその内の最善の未来になるとも限らないのに。その最善の未来と実際の現状とのギャップの名前を、私たちは後悔と呼ぶのです。


 私が一週間前貴方に声を掛けたのも、後悔の量が少ない選択肢を選びたかったためです。あの時私は貴方と同じように、自殺しようとしていました。重い後悔を胸に抱えて、その重さで海に沈んでしまおうと。ちなみに私がこの一年間死のうとしなかったのは、ただ単に死ぬ理由が無かったからです。生きる理由が無かったように。そして、夏になったので死のうと思いました。母が死んだ季節だし、海も冷たくないから。が、私はついに海の目の前に立った時、ある別の後悔が私の足を重くしているのに気が付きました。「私が死んでも誰も悲しまない」と。それは次第に膨らんで、私の足を止めてしまいました。困惑しその場で立ち尽くしていると、視界の端に君を見たのです。私と同じ、死にたがっているだけの君を。だから君に声を掛けた。私が死んだ時に涙を流してくれる人が欲しかったから。君が言ったように、人にとって一番大切な悲哀の感情を、誰かに遺したかったから。晩夏に地面から出てきた寒蝉が、それでも一週間鳴き続けるように。


 私の一生を見届けてくれて、ありがとう。


追記

 君の毒水を勝手に使っちゃった。ごめんね。またね。



 読み終えても、僕は彼女の意図通りにはなっていなかった。一滴の涙すら流していなかった。確かに悲しいという感情はあるけれど、何故かそれが泣くという行為に繋がらないのだ。雨が降っているから洗濯物を干す、みたいなちぐはぐさを感じる。さらに、悲しさを上回る感情があった。小さい頃読んだ絵本の題名を思い出した時のような、すっと全身を通り抜ける快感だ。


 そうか、僕は後悔していたんだな。

 そうか、僕は死にたがってたんだな。


 僕はガラス瓶の隣に置いてあったペットボトルを持ち上げる。中身は毒水だ。学校祭前の危険物取扱状況の確認と称して化学実験室に入った時、手頃な劇物を拝借して水に溶かしていた。使いどきを失ってそのままにしていたが、彼女にはばれていたらしい。当然だよな。自覚が乏しいとはいえ自殺したがっていた奴が、何の準備もしていない訳が無い。彼女がこれを飲んだらしく、三分の一ほど中身が減っている。僕はキャップを取り、飲み口を見つめる。彼女がこの光景を見ていたら、間接キスを意識しちゃってるの?とからかってきそうだなとぼんやり思う。

 そして、ぐっと毒水を呷る。喉の奥が少し痺れる。一週間も鞄の中で放置していたからか、ぬるい上に少し臭い。けれど、毒水なんて腐っていても関係ない。飲み干すと、目眩が訪れる。平衡感覚が狂い、水平線が溶けていく。足元がふらつき、気が付くと僕は断崖絶壁へ身を投げ出していた。逆さまな世界で、日光を反射した水面が涼しく光る。もう秋だなと思う。

 

 海に飛び込む直前、初めて世界が真っ直ぐに見えた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

寒蝉 橘暮四 @hosai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ