エピローグ

 鉄格子のはまる暗い部屋の中、呼吸と衣擦れの音だけが響いている。

 ここに入れられてどれくらいの時間が経っただろう。幾度か日が昇り、沈んだ気がするが数えることはしなかった。


 部屋に小さなライトは置いてあった。が、つけて部屋を明るくする気分にはなれない。

 それどころか動く気力もなく、ただすみで膝を抱え、ただぼんやり前を見つめるだけの毎日だった。


「……ミモザ」


 何よりも愛しい作品『ローゼンナイト』を彩るはずだったヒロインの名を、薄汚れた壁へ向かって呟く。

 答えが返ってくるはずもない。


 この部屋には……そしてこの世界にはすでに、その名を持つ登場人物はいないからだ。


(間違った、間違ってしまった。どうしてこうなったんだ……)


 いったい何がいけなかったのだろう。己は出来ることは全てやった。

 ヒロインに相応しいミモザには激励と応援を、主人公であるエルンストには叱責と忠告を、そしてあの憎きカトレアにはけん制の手紙を送っていたのに。


 やはり無能な、物語の背景にもならない人間を手ごまにしたからだろうか?

 なら今度はもっとエルンストやミモザに接近し、彼らを直接操るのがいいだろうか?


(次は……次に生まれるときはミモザをこの作品のヒロインにしなくては……)


 一度目の転生があったのだ。きっと次もある。

 何故なら己は『ローゼンナイト』を最も愛した人間だ。愛が深かったから神が己をこの世界に転生させてくれたのだ。


 出来るなら早く次の物語をはじめたい。が、自ら命を絶たないように刃物やロープになるものは置いていないから、機会を待とう。

 ほの暗くそう考えたとき、にわかに遠くからこちらに向かって歩く靴の音を聞いた。


 刑務所に努めている刑務官の足音だとわかった。

 この時間は見回りでは無かったと思ったが、どうやら己に用があったらしい。

 鉄格子のはまった窓の向こうから彼は顏を出し、「面会だ。出ろ」と己を促した。


 彼に連れられて通されたのは、この刑務所の面会室であった。

 ガラス一枚がついた大きな窓で隔てられており、その前には小さなデスクと椅子が置かれている。

 面会人と囚人はここに座って会話するのだ。


 案外こういうところは現代日本で見たドラマと変わらないのだな、と考えながら、囚人側の椅子に腰かける。

 ガラスを挟んで向こうに座っていたのは、眼鏡をかけた痩身の男であった。


 顔立ちはおっとりとしていて頼りなくも見えるが、己を見る目は妙に鋭い。

 その眼差しに既視感を覚え、一瞬だけ何処かで会っただろうかと考えた。が見覚えは無い。

 怪訝に思いながら、その男が口を開くのを待った。


「やあ、久しぶり。この姿でははじめまして……かな?」


 親し気な口調で言われたが、その内容もよくわからないものだった。

 まじまじと彼の顔を見つめるが、やはり過去に会った記憶は無い。


 不審なものを見るような己の顔に気付いたのか、男は唇を歪めて笑った。


「まあ、わからないか。そうだな、漫画を描いていたころの私は、もっと背が低かったし、コンタクトだったからな」

「……え?」

「お互いこちらの名前のほうが馴染みがあるかね?」


 そう言って真っ直ぐにこちらを見据えた男は、聞き覚えのある名で己を呼んだ。

 ───それは己がこの世界に来る前に、親からつけられた前世の名前。


 まさかと、呼吸が早くなる。

 それを見て男は目を細めて「私はバートン。だが昔の名は……」と名乗った。


 それもまた己の名と同じくらい聞いた、親の名よりも馴染みのあるもの。

 心臓は全力疾走したかのように脈打ち、「あ、あ」と千切れ千切れの声は面会室の空気に混ざって消えていく。


 男から目を逸らさずじっと見つめていると、彼は目から鋭い光を消してにっこりと微笑む。

 親しいものを見つめるような、友愛に満ち溢れた笑顔だった。


 その仕草に思い出したのは、初めて行ったサイン会の会場だった。

 敬愛する先生は、これと同じ笑顔で己を出迎え、握手をしてくれたのだった。


「ま、さか……先生?」

「ああ、そうだよ。君が私を殺したあの日からずいぶん時間が経ったね」

「……っ!」


 肯定されて、己の心を支配したのは喜びであった。

 海よりも深く、天に上るほど心地よいそれは、どんな快感とも比べがたい。

 歓喜という言葉さえ軽く見えるほどの歓喜が、体の中を駆け巡っていく。


 感情を抑えきれず、「ああ!」と声を張り上げながら祈るように目の前で手を組んだ。

 瞼がじわりと熱くなってくる。うっすらと涙が盛り上がっていき、そして頬を伝った。


 己の様子を、敬愛する人がガラス越しにじっと見つめている。

 その事実がさらに多幸感を生み出し、「先生」と今にも泣きだしそうな声で彼を呼んだ。


「ああ、先生……先生……!何てことだ!やっぱり僕はこの世界に愛されているんだ!先生!次こそは理想の物語を創りましょう!僕と先生がいればきっと素晴らしい物語が……!」

「君が望む物語なんて、この世にはないよ」


 無情な声が、己をさえぎる。

 何を言われたか一瞬理解できず、「え?」と目を見開いてガラスの向こうにいる男を凝視した。


 聞き違いかとも思ったが、真剣な目をした彼は今一度「『物語』なんてないよ」と駄目押しするように告げる。

 歓喜の心が凍った。呆然とする己の前で、彼は非常に穏やかな口調で語り続けた。


「この世界は君にも、もちろん私にも自由に出来る『物語』などではない。この世界の人々は生きていて、他所から入って来た人間が好きにしていいものじゃないんだ」

「せんせい?な、に……を……」

「もっとも私もこのことに気付いたのはごく最近だったがね。それまでは彼らを自分が生み出した『キャラクター』だとしか考えられなかった」


 穏やかだが冷たい声にだった。

 それを聞いていくうちに、胸の中にあったはずの暖かい気持ちがしゅるしゅるとしぼんでいき……代わるように芽生えたのは、マグマのような灼熱の怒り。


 昔からこの激情をコントロール出来なかった己は、かっと目を見開いて目の前にあるガラス窓を叩く。

 万力の力をこめたせいか、だん!と部屋中に響き渡る音が手とガラスの間から壊れんばかりの音が響いた。


「酷い!酷い!!先生はやっぱり僕を裏切るんだ!好きだったのに!こんなに愛したのに!どうして僕の愛を踏みにじることをするんですか!!」


 幾度も幾度もガラスを叩く。

 この窓が無いならば、今すぐにでも目の前の男に掴みかかって、思い切り殴りつけていたに違いない。


 許せない!許せない!と叫んでいると、背後にいた刑務官が慌てた様子で己を取り押さえた。

 非常に体格のいい男で、今は女の身である己の体はあっさりと机に押さえつけられる。


 それでももがき、顔を何とか前に向けて、怒りのままに敬愛する人を睨みつけた。

 己は酷く醜く、まるで般若のような顔をしていただろう。それでも彼はじっと冷静に己の姿を見下ろしていた。


「読者の期待に応えられなかったのは、申し訳なく思うよ。恐らく僕は……漫画家に向いていなかったのだろう」

「そんなこと!それは僕も否定する言葉だ!!」


 怒りの炎に薪をくべるようなことをされ、口から唾を飛ばしながら彼を罵る。

 己が知る限り思いつく限りの汚く鋭い言葉。だがそれらを浴びながらも、敬愛する人の態度は変わらなかった。


 いや、ほんの少しだけ悲しそうな目をしていたか───……怒りで我を忘れた己の見間違いかもしれない。


 しばらくして罵声が尽き己の声が枯れたころ、男は深くため息をついた。

 そして何かを思い返すように目を閉じて、そして再び語りだす。


「私はね。自ら生み出したキャラクターの可能性すらわかっていなかったんだ。特にリザリー……彼女は主役になれる人物だったよ」

「何を、あんな端役……!あんなのは何の役にも立たないじゃありませんか!」


 再熱した感情に任せて怒鳴りつけようとした己をとどめるように、男は穏やかな目で首を横に振った。


「彼らはキャラクターじゃない。この世界に住む人間だ。だがやはり私は、彼らを作者としての目線で見てしまう」


 君と同じだ、と微笑んだ彼は、何かを諦めてたように眉をたれ下げていた。


「だから私はこの街を去るよ。何処か遠くで、彼らの活躍を聞くくらいが恐らくちょうどいい」


 言いながら、彼は席を立った。

 己が暴れたこともあり、面会時間が早まったのだろう。

 隣にいた刑務官に一言、二言告げた彼は、まるで未練が無くなったかのようにあっさりと己に背を向けた。


 また見捨てられた───!


 そう思って「待って、先生……!」と扉に向かって歩き出す彼に手を伸ばす。

 が、その歩みは止まらず、彼はただ一度だけちらりと肩越しに振り返った。


「君も罪を償って……出来るならこの世界で精一杯生きて悔いてくれ。それが作者(わたし)が読者(きみ)に望む復讐だよ」


 それだけ言い残し、敬愛する人は己のもとを去っていく。

 がしゃん!と閉じられた扉が何よりも絶望的に聞こえて、「ああ」と吐息とともに声が漏れた。

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―ファンレター―果たして、物語に落とされた『転生者』は登場人物にとって恐怖になり得るのか? 天藤けいじ @amatou2020

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