ふたりの実際


「葛ノ葉先生に挨拶しにいかないか?」

「あいさつ、ですか」

 少し戸惑った声で聞き返す潤に、縞は頷いた。

「忙しいのがひと段落したらしくて、君に一度ちゃんと会いたいそうなんだ。万里のこともあるし、一度時間を作ってもらえないか」

 潤は壁に掛けられたカレンダーを見て、大学の予定などを思い出しながら答えた。

「土曜日なら一日空いてます」

「分かった。そう言っておく」

 そのままスマホで連絡し始めた縞を、潤はしばらく黙って見つめていた。

「……何か持ってった方がいいものとかあります?」

 そわそわと尋ねる潤に、縞は顔も上げて怪訝な顔をした。

「持ってった方がいいって、何が」

「手土産とか……」

「別にそんなに気を遣わなくていい。挨拶とは言っても単なる顔見せだし、君まだ学生だろ。先生の方が困るよ」

 素っ気ない物言いに潤は釈然としない顔をしたが、渋々頷いた。

「そう言えば、万里さんに会うの久しぶりかも」

「そうだったか? ……そうだったな、あの子、まだあまり外に出てないものな」

 首を傾げる縞に、潤は頷いた。

「電話は時々してるんですけどね」

「ああ、それは聞いてる。君の話は面白いってさ」

「……ほんとにそう言ってました?」

 思いがけない返しに縞は目を瞬いた。滅多に見ないような切実さをにじませた瞳がこちらを見ていて、化道蜘蛛は表情で困惑を示した。

「……こんな嘘ついてどうする」

 半ば気圧されつつ縞がそう答えると、潤ははっとしてうつむき、それからいつも通りの人懐っこい目をして微笑んだ。

「そうですよね、よかった」

 いつも何話せばいいのかわからなくて、と明るい早口で付け足した潤に、縞は訝しげな視線を向けていたが、レスポンスの早い恩師からの返信に気づいて「先生も土曜で構わないって」と言うにとどめた。


 土曜の昼過ぎ、潤と縞はあるマンションに来ていた。エントランスで既に来たことは伝えてあり、エレベーターで部屋に向かっている最中だ。

「狐の妖怪さんだっていうから、もっと和風な家に住んでるのかと思ってました」

「そういう時期もあったよ。先生、結構こまめに引っ越すんだ」

「それはまたどうして?」

「必要に迫られてという時もあるけど、まあ、いろんなところに住むのが好きなんだろう。全国に誰かしら知り合いがいるし。万里のことがあるから、しばらくはここにいるだろうけど」

 そんな話をしているうちに、ふたりが住んでいるという部屋につく。扉が開けられ、こげ茶色の髪をした女性が現れた。

「いらっしゃい。よく来てくれました」

 親しげな笑みに、縞は軽く会釈し、潤ははっとして背筋を伸ばした。

「先月ぶりです」

「は、初めまして」

「先生、こちらが前言った、友人の鈴木潤。潤、こちらが葛ノ葉先生だ」

「初めまして。葛ノ葉です。来てもらって早速悪いけど、少しだけ静かにお願いね」

「ああ、もうやってるんですね。了解です」

 ふたりを招き入れ、音をたてないように鍵を閉めた葛ノ葉に、縞は頷いた。初めて来た場所に少し落ち着かない様子の潤が、会話についていけずに口を挟む。

「やってるって、何をです?」

 潤の疑問に妖怪ふたりはそっと目配せし、「すぐ分かるよ」と微笑む。

「潤、ほらあれ」

 潤が示された方を覗き込むと、ほんの少し開けられた扉の隙間から、机に向かう万里の背中が見えた。すっと伸びた背筋に張り詰めたような緊張を見て取って、潤は声を潜めて尋ねる。

「勉強してるところなんですか?」

「勉強というよりは、特訓なの。人の体の動かし方に慣れるためのね。運動なんかは一通りやって、今度は手を使う作業を試してもらってるの。今やってるのは切り絵」

 葛ノ葉の補足に潤は目を丸くする。

「すごいのよ、彼女。何を教えても上達が早いし、なんだって楽しんでやるの。ある種の才能ね、あれは」

「楽しむ才能、ですか?」

「ええ。元々は全く別の生き物だから、人間のすることを、人間と同じように楽しむのって難しいの」

「そう、ですよね……」

 頷いて神妙な顔で口をつぐんだ潤を見下ろし、縞は囁いた。

「この間作品を見せてもらったが、なかなか細かくて驚かされたよ。でも『まだ潤には見せられない!』って騒いでたな」

「それはまた、どうして……」

 戸惑う潤に、縞はあっけらかんと答えた。

「出来のいいものだけ見せたいんじゃないか。君は特別なわけだし」

 縞の何気ない言葉に潤は口ごもり、扉の向こう、静かな背中を見つめる。とくべつ、と唇が動いて、そのままゆるく引き結ばれた。ところでいつまで覗き見するんです、と縞が葛ノ葉に目配せすると、かすかな声での返事があった。

「そろそろじゃないかしら」

「そろそろって、何が?」

「ほら」

 白い指がすっと指し示したちょうどその瞬間、万里がくるりと振り向いた。

「せんせー? できたよ?」

 分かっていたかのようなタイミングの良さに縞と潤は目を丸くし、葛ノ葉はそんなふたりにいたずらっぽくウインクして万里に答えた。

「ん~? 見せて見せて」

 扉を開けて中に入っていった葛ノ葉が、驚きの声をあげる。

「あら、こんな細かいところまで切り抜きしたの?」

「ふっふーん! すごいでしょ!」

 胸を張る万里の頭を撫でてやり、葛ノ葉は部屋の外へ振り向いた。

「今日はお客さんが来てるのよ。ふたりとも、ほら」

 葛ノ葉に手招きされ、潤と縞が扉の陰から顔を出す。おきゃくさん、と幼げに繰り返した万里と目が合い、ふたりはひらひら手を振った。

「潤! 縞もいる!」

 パッと顔を輝かせた万里は、デザインカッターにキャップをつけてペン立てに戻すと扉を引き開けて潤を部屋の中に引っ張り込んだ。縞は苦笑してその後に続く。

「いつ来てたの? 全然気づかなかった!」

「今さっきだよ。集中してたから邪魔しない方がいいかなって」

「気にしなくてよかったのに。もっと早く終わらせるんだったなー」

 潤を抱きかかえて嬉しそうにする万里に、縞は机の上を指さして言った。

「切り絵できたんだろ、私たちにも見せてくれ」

「え? えーっと……」

 万里は縞の言葉に少し困ったように眉を下げて、ためらいがちに葛ノ葉の服の裾を引いた。今まで作業をしていた机を、体で隠すように立つ。

「んー……先生……」

「いいんじゃないの、そんな照れなくても。いろんな人に見てもらうのもいい刺激になるし」

 そう葛ノ葉に促され、万里はおずおずと横にずれた。縞と潤は万里の緊張をくみ取って、神妙な顔で机の前に立ち、目を見張った。

 机の上にある黒い紙に、今にも飛び立たんとする蝶が切り抜かれている。大きな目、口吻の丸み、触角や脚の一本一本、翅の小さな模様、背景の草木とあらゆる細部に至るまで。横には見本と思しき写真が並べられているが、できる限り省略しないように細心の注意が払われているのが分かる。

「これ……」

「あのね、先生のお友達が撮ってくれた写真をね、加工してもらったのを切ってたの。……どうかな」

 万里のどこか自信のなさそうな説明に、作品を真剣な表情で見つめていた潤は、笑顔で答えた。

「すごい!」

「……そう、かな?」

「うん! すごいよ、細かくて綺麗……!」

「ああ、前見た時よりすごい。練習したんだな」

 潤と縞の飾らない言葉に、万里はようやく表情を緩ませる。

「えへへ。嬉しい」

 ぎゅむ、とひときわ強く潤を抱きすくめ、万里は上機嫌に笑った。

「これで完成?」

「それでもいいんだけど……写真が、素敵だから。色もつけてみたくて」

 万里はまだ少し気恥ずかしげな顔のまま答える。縞は葛ノ葉に小声で尋ねた。

「切り絵に色をつけるのってどうやるんです」

「色紙を切って、裏側に貼るんですって。私も試しにやってみたんだけど、ほら、糊をつけたりするときに細い部分が切れたりして結構大変」

「なるほど」

 頷いた縞の横で、万里がぐんと背伸びをした。今いる中で一番大きな体がぐうと伸ばされて、掌がのびやかに空気を掻く。

「でも、今日はもうおやすみ。ずっと細かいとこばっかやってたから、もうできない」

 ごき、と肩を鳴らし、万里はため息をついた。

「先生、あたしおなかすいた」

「そうね、朝からずっと集中してたものね。おやつにしましょう。ふたりもどうぞ」

「すみません、いただきます」 

 葛ノ葉のいれたコーヒーの香ばしい匂いが部屋の中を満たしている。

「楽しいよ、特訓」

 ミルクと砂糖たっぷりのカフェオレとクッキーを楽しみながら、万里はリラックスした様子で言った。

「先生に言われていろいろ試したけど、切り絵が一番好き」

「ふうん、二番目は?」

「二番目? ……わかんない。絵を描くのと歌を歌うのは同じくらい」

「同率二位ってやつか。他に何した?」

「カメラ、少し触らせてもらったの。でも、撮ってみてもあんまり素敵な感じにならなくて」

「あれはなあ、難しいよ。練習以外に必要なものがある」

「必要なもの?」

「人間が素敵だと思うものを見つける目だ。センスと言うらしい」

「せんす?」

 万里が扇子の発音でそう繰り返したので、縞はくすくす笑って首を横に振る。楽しげなふたりを横目で見つつ、潤は居心地悪そうにコーヒーに口をつけた。実際、居心地は悪い。妖怪が三、人間が一。しかしそれよりも前に自分以外全員顔見知りだ。

「潤さん」

 人のふりをすることの難しさについての話をそういうものかと聞いていると、馴染みの薄い声で名を呼ばれて、潤ははっと顔をあげた。

「はい」

 葛ノ葉はその固い声に、暖かい視線で答えた。緊張しないで、とその笑みが言っている。

「今日は来てくれてありがとう。呼びつけてしまってごめんなさい」

「いえ、そんな、とんでもないです。お招きありがとうございます」

 しどろもどろに答える潤を、縞が万里の相手をしながら面白そうに見ている。縞さんが来いって言ったのに、と恨めしく思いながら、小さなクッキーに手を伸ばした。

「縞から聞いていると思うけど、私は人間社会で暮らしていきたい妖怪の支援をしています。万里ちゃんみたいに直接預かるケースはそこまで多くはなくて、普段は相談を受けて、専門的なことであれば然るべきところに紹介することの方が多いかな」

「そうなんですね」

 潤は頷き、カップに口をつけた。

「いつ頃からそういう活動を?」

「そうねえ。記録をつけ始めたのは幕末くらいから」

「ばくまつ」

「それより前にも、頼られたら世話はするようにしてたから、具体的にいつからって言うのは分からないの。ごめんなさいね」

 スケールの大きさに茫然とする潤に気づかず、葛ノ葉は粛々と説明を続ける。

「恥ずかしいことにね、記録に残すことの重要性に気づくことが遅かったのよ。縞の面倒を少し見てたのもその頃」

「縞さん幕末生まれなんですか!?」

 潤の大声に、談笑していたふたりはびっくりした顔をして、葛ノ葉はきょとんとした表情で縞を見た。

「言ってなかったの?」

「トシの話なんかしませんよ、聞かれたこともないし。あー、潤、その……私は幕末生まれじゃない。私が先生と知り合ったのは、そこそこ大きくなってからだ」

「じゃあいつ生まれなんです?」

「細かいところまでは数えてないんだが……一六〇〇年の後半……いや、真ん中あたりだな」

「は、はあ……」

「縞、もしかしてものすごい年上?」

「そうだな。でも君と先生ほどの年の差じゃないよ」

 万里の無邪気な質問に平然と答える縞に、潤はじゃあ先生はいくつなんだろう、と思考が明後日の方向に飛んで行った。葛ノ葉は咳ばらいを一つして、全員の視線を集める。

「まあ、長くやってきているけれど、世相の移り変わりも激しいから、どうにかついていくので精一杯なのだけどね」

「は、はい」

 受けた衝撃の大きさにまだ完全には立ち直れないまま潤は頷いた。

「はい」

 潤が頷くと、葛ノ葉はそっと縞に目配せした。縞は頷き、万里に尋ねる。

「万里、私が見てない絵も見せてもらっていいか? どこに置いてある?」

「あたしの部屋にあるよ。持ってくる?」

「いや、私がそっちに行こう」

「潤は?」

「潤は先生とちょっと話があるからな」

 万里はカフェオレの最後の一口を飲み干し、不思議そうな目で葛ノ葉と潤を交互に見た。縞に目配せされて、潤はぎこちなく微笑んでみせる。

「わかった。縞、いこ」

 万里はふいと立ち上がり、縞の手を引いて部屋を出て行った。その背中を見送ってから、潤は恐る恐る葛ノ葉に向き直る。

「それでその、話って……」

「ちょっと万里ちゃんには難しい話だから」

 意味ありげな前置きに、潤は内心肝を冷やした。

「万里ちゃんを助けたあなたはまだ学生だし、縞も人としての生活が得意なわけじゃないから、私が面倒を見させてもらうことにしたの。今日はそのことを、改めて説明したくて」

「はい」

「そんな緊張しないで。今後の話を少しするだけですから」

「はい……」

 それでも潤の表情はこわばったままだ。葛ノ葉は傍らのクリアファイルから紙の束を差し出した。

「万里さんはあなたへの恩返しを望んでいます。蟷螂という本性から見ると、料理上手などの民話に残っているような分かりやすいメリットは期待できません。その点は分かってください」

 手渡された資料を茫然と見つめる潤を置いて、葛ノ葉は流暢に続ける。

「万里さんはしばらく私のところで、ひとまず一般常識を一通り学んでもらいます。これは短く見積もって四年。それから彼女自身の希望を聞いて、進路の選択をしてもらいます。それとはまた別に、三年は私と一緒に暮らしてもらうけれど、その後は要相談。一人暮らしを選ぶか、それとももう少し私と暮らすか、あなたと暮らすか。それ以外にもいろいろ選択肢はあります」

 そこまで一息に言って、葛ノ葉はコーヒーに口をつけた。 

「今言ったことはあくまで予定であって、状況によって変わってきます。それは万里さんの希望を優先してのこともあったり、あなたの事情を汲んでのこともある」

「私の……?」

「たとえば、あなたが就職して転勤があったらどうするか、とか」

「は、はあ……」

 自分の知らないところで固められていた方針に戸惑う潤を置いて、葛ノ葉の説明は続く。資料を見ると、今までの説明にあったこと以外にも、緊急時の連絡先や、病院の連絡先なども書いてある。普通の病院に連れて行くわけにもいかないのだろうとは思ってはいたが、相談できるところがあるのかと潤は驚いた。

「……と、今までした話は全て、あなたと万里さんの関係性が良好であり、人間との社会生活が可能であれば、という前提のもとに成り立つ話。今のところは見つかっていないけど、どうしてもヒトとしての暮らしができない、というような点が彼女にあれば、恩返しの内容もまた変わってきます。そのことが分かった時点であなたには連絡します……ここまでで、何か質問は?」

「え? ええと……こういうことって、今までもあったんですか」

「はい。全国各地で、それなりに。最近は滅多にないけれど」

「そうなんですね……全員にこういうことを?」

「それは場合によります。今回は結構手厚くやっているけれども、妖怪と人間両方が自立して、双方の合意があれば相談窓口として連絡先を渡すだけのこともあります」

 他には? と首を傾げる葛ノ葉に、潤は一瞬口ごもり、それから不安そうな声で尋ねた。

「……どうして、ここまでしていただけるんですか?」

「……難しい質問ですね」

 潤の問いに葛ノ葉は苦笑し、しかしそれほど時間をおかずにこう続けた。

「違う生き物同士での共存というのは難しくて、慣れていない場合はもちろん、そうでなくてもちょっとしたことでうまくいかなくなることもある。私はそういうときの保険が必要だと思うし、それができるからやっている。……という答えで、納得してもらえますか。もう少し込み入った説明をすると、時間がかかりすぎてしまうから」

「潤さん。私は妖怪に人と同じ暮らしをさせたいわけじゃない。私と同じ選択をさせたいわけじゃない。ただ、当事者の望む形をどうにかして作れないか、どうにかして続けられないか、それをずっと模索し続けているだけなの」

 静かな言葉に、潤は頷くほかない。

「あなたがもう知り合っている妖怪とは、基本的には人の姿でやり取りしていると思うけど……それぞれ全然違う生活の形がある。それに縞みたいに、それまでとは生活をがらりと変えたいという希望を持つこともある。私はそれぞれの理想を尊重したい」

 尊重。尊び、重んじる。その言葉が重たく感じられて、潤は無意識に膝の上の手を握りしめる。

「万里ちゃんにしてもそう。あなたに恩返しをしたいという気持ちを支えたい」

 静かにそう言い切ってから、葛ノ葉は表情を少し和らげた。

「けれど私はあくまで第三者。優先されるべきは私ではなく、当事者ふたりだから。あなたの意思も、ここで確認させてほしい」

「私の意思ですか……?」

「簡単な質問ですよ。……あの子に慕われるのは、迷惑じゃない?」

「そんな! 迷惑だなんて、そんなことありません!」

 反射的に否定してから、潤は一瞬視線を泳がせた。

「ただ、私……分からなくて」

 戸惑った表情で言葉を探す潤を、葛ノ葉は急かさずに待った。

「わたしは、そうしてもらえるだけのことをしたんでしょうか……?」

 途方に暮れた表情で、潤は小さくそうこぼした。無邪気な好意を戸惑いながら受け止める傍ら、その疑問は常に付きまとっていた。指摘されるまで忘れていたようなことだったことなのに、万里は恩を返そうと努力を続けている。いくら才能があろうと、その負担はきっとちいさいものではないはずなのだ。その縋るような視線に葛ノ葉は目を瞬いた。

「私は今日あなたと会ったばかりだし、その質問に答えることはできません」

 葛ノ葉は真摯な声でそう答え、それからすぐに表情をほころばせた。視線はリビングの扉に向けられている。

「でもあのふたりはきっと、その答えには迷わないでしょうね」

 葛ノ葉の言葉に頷いて、潤は深く頭を下げた。自分がしたことの重みに無頓着であったことが恥ずかしく、いたたまれない。うつむく潤の視界の端に何かが横切り、パッと顔をあげる。

「えっ?」

「あら」

 ちょろちょろと机の上を走る小蜘蛛に、葛ノ葉は微笑んだ。

「ちょうど終わったところだから、戻ってきても大丈夫よ」

 それを聞いて小蜘蛛はさっと姿を消し、入れ替わるようにリビングの扉が開いて縞と万里が戻ってくる。

「縞の刺繍も今度見せて」

「まあ、別に嫌とは言わないけど……大したものじゃないよ、本当に」

 じゃれあうふたりに「ふたりとも、飲み物のおかわりは?」と問いかけ、葛ノ葉は台所に立った。カルガモの子のように葛ノ葉についていった万里を目で追いつつ、縞が何気なく問いかける。

「どうだった? 大丈夫か?」

「どうって……いや、大丈夫です」

「そう」

 縞は潤の隣に腰を下ろし、まるで関係のないことを尋ねた。

「君は切り絵ってやったことあるのか?」

「ない、ですかね……? 中学の授業でやったって言ってた知り合いもいますけど」

「そんなものか。私、貼り絵は少しやったけどすぐ飽きちゃったからな」

「貼り絵ですか」

「うん。でもやっぱりこう……紙よりは糸の方が手に馴染む」

「そういうものなんですね」

 長い指が糸を繰るように動き、潤はつい視線を奪われる。その本性、八本の器用な脚を頭の中に思い浮かべ、それから自分の手を見下ろす。体の造りがまるで異なる生き物の姿で生きるということがどういうことなのか上手く想像できないでいると、手の甲を軽くつつかれた。

「やっぱり大丈夫じゃないだろ」

「…………」

「帰りに話聞くよ」

「はい……顔に出てました?」

 潤は台所にちらと目をやって、親指と人差し指で小さく隙間を作ってみせた。少しだけ。潤はやっぱりと嘆息して、それから軽く頬の内側を噛んだ。葛ノ葉と万里が戻ってくる。善良な一市民、どこにでもいる隣人を意識して、なるべく自然に口角をあげて待つ。

 


「そろそろお暇するか」

 縞がそう呟くと、万里は不満げに眉を下げた。

「ふたりとももう帰っちゃうの?」

「何、またすぐ遊びに行くよ」

 袖を引く万里を軽くあしらい、縞はさっさと支度を済ませてしまった。あっけにとられていた潤も、鞄を引き寄せて立ち上がる。

「先生、万里さん。お邪魔しました」

「いえいえ。大したおもてなしもできずにごめんなさいね」

「潤、また来てね」

 玄関までついてきた万里が、何か言いたげにそわそわしているので、潤は内心首を傾げた。

「潤、あのね」

 もじもじと指を組みながら、万里は靴を履く潤にそっと話しかけた。顔をあげた潤と目が合って、気恥ずかしそうに目を伏せる。

「切り絵、今度はもっとも―っと、すごいの作るから。だからまた見に来て?」

 期待のこもった視線で見つめられ、潤はゆっくりと瞬きした。一瞬視線を泳がせて、それから目を合わせて頷く。

「うん、もちろん。楽しみにしてる」

 手を取って微笑む万里に笑みを返し、潤は縞と共にその場を辞した。

 


「で? どうした?」

 喫茶店に入ってテーブルに案内されるなり、縞は端的に尋ねた。

「まあ、先生が君に何を話すかは事前に聞いてた。大丈夫だろうと思ったから連れて行ったんだが……。何が嫌だった? 言い方がきつかったか?」

「いやその、そういうのじゃなくて」

 ずけずけと聞いてくる縞に慌てつつ、潤はやってきた店員に紅茶を二つ頼むと小さく告白した。

「今更自分のしたことの大きさが分かって……少し戸惑ってるんです」

「へえ」

 先を促す縞の視線から気まずげに目をそらし、潤は不安そうな声で続ける。

「金木犀さんに言われるまで忘れていたようなことだったのに、今になってそれに何かが返ってくるなんて思ってなくて……自分がそうしてもらえるだけのことをしたとも、思えなくて。万里さんが恩返ししたいって思う気持ちに、どう答えたらいいのかわからなくて」

 潤の戸惑いを縞はしげしげと見やって、それから小さくこぼした。

「昔の人間たちもそうだったのかもな」

「昔の……?」

「君みたいに生き物に情けをかけてやった人間のことさ」

 どこか沈んだ声で答えた縞は、背もたれに体重を預けた。どうしたもんかな、と天井を仰いで小さく唸り、それから運ばれてきたアイスティーで舌を湿らせた。

「ちょっと嫌な話をするか。異類婚姻譚について。いろいろ省くから分からないところがあったら後から聞いてくれ」

 不穏な前置きの後に、縞は僅かに目を伏せて語り始めた。

「私もそれなりに長生きだし、先生について各地を転々としてた時期もある。だからまあ人間と妖怪の交流を、それなりの数見てきた。そこで一匹、貧乏な百姓に助けられてそこに嫁に行ったやつがいた」

 不機嫌な声で続ける縞に、潤は頷いた。

「まあ、しばらくの間は上手くやれてた。私も時々顔を見に行ったんだが、まあよく人になじんで、楽しそうだったよ。だけどな」

 かつかつ、と指がテーブルをたたいた指が、潤の視線に気づいて気まずそうにひっこめられた。苛立ちを押し込めるように腕を組み、椅子に深く座りなおす。

「……正体がバレた途端、そいつは家を叩きだされた。先生はそいつを引き取って養生させたけど、結局良くならなくて失意のまま死んだ」

 地を這うような低い声で潤は続ける。

「これで終わっていればまだよかったんだけどな。何年か、いや十何年後だな、そこを訪れた時、その話が語り継がれるようになっていた。まあ私が見ていたことと同じ話だった、ほとんどは」

 その言葉と、深く吐き出したため息の震えに、潤は小さく身を固くした。この話がどこに行きつくか、はっきりと見えてきたからだ。この化道蜘蛛は最初から、親切に教えていてくれた。嫌な話をするかって。私と無関係ではないことで。

「最後だけは違った。『正体を見られた以上、ここで暮らすことはできませんといって去っていった』……そう、結ばれていたんだ。他の地域でも伝わっているような話に乗っかって、ヨソモノのあいつにしたことをなかったことにした。体裁が悪いからだ。だってあいつは何の悪意だって持っていなかった」

 なるべく感情をあらわにしないようにと骨を折っているのが眉間の皴で分かった。腕は固く組まれたまま、死を悼むように目が伏せられて、沈黙がふたりの間に降りた。店内の周囲のざわつきが、透明な壁でも挟んだかのように遠い。縞はもう何度目か分からないため息の後、少しだけ落ち着きを取り戻した様子で言った。

「正直に白状しよう。私は今もこのことに怒っている。ずっとずっと怒っている。死に際にあいつが自分を追い出した男の名を呼んだ時だって怒っていた。あの男の冷たさを隠したあの村にも怒っている。私は今も、人間が好きだと胸を張って言うことはできない。私は先生ほど人全体を信じてはいない。……けれども、そういうやつだけじゃないのも知っている。君はもちろん、知り合いの夫に死ぬまで正体を見ようとしなかったびっくりするほどの正直者だっていた。本当に、本当に難しいところだ」

 一転心底悩ましげな声で言う縞に、潤はあいまいに頷いた。縞は顔をあげ、切実な声で

「……戸惑うのは分かる。どうしたらいいのか分からないことも。それでも、ひどいことはしないであげてほしい。君に望むのはそれだけだ。それ以外のことは、ただ君のしたいように任せる。このままでもよし、あの子が自活できるようになったら一緒に暮らすでもよし……縁を切るなら、なるべく穏当に頼む」

 最後の付け足しに、潤はぶんぶん首を横に振る。その慌てように縞はようやく腕組みをほどいて肩の力を抜いた。

「まあ、君がそんなひどいことしないだろってのはほとんど確信してるわけだし。単なる確認作業だ、こんなのは」

「そう、ですか」

 単なる確認でこんな話はしない。潤は動揺を隠すためにうつむいた。潤が万里を手ひどく裏切れば、縞はずっとずっとそのことで怒るのだろう。当事者が死んだとしても、きっとずっと長い時間。そして悲劇が終わった後も、また他の誰かに手を差し伸べることをやめたりはしないのだ。

 その想像は恐ろしく、それでいてひどく悲しくて、潤は言葉が出てこない。

「当事者なんかもう皆いないのに、他人の私がいつまでも気にしてるのもおかしな話だけどな」

 そんな自嘲で締めくくろうとする縞に、潤は反射的に声をあげた。

「おかしいことじゃないです」

 思いがけずよく響いた声に、縞は目を丸くしている。通路を挟んで隣のテーブルにいた客がちらとこちらを見て、縞の鋭い目つきに慌てて目をそらす。そのことに気づけないまま、潤は苦しげに言葉を絞り出した。

「……おかしいことじゃないです、絶対」

 それしか言えずに、潤はうつむいた。視界が滲み、あ、と思った瞬間には涙が零れ落ちていた。おい、と焦った声に、ガタガタと椅子が鳴る音がしたが、潤は顔をあげることができなかった。

「泣くなよ、きみ。悪かったって。言い方がきつかったか? 話し方が怖かった? 別に責めるつもりがあったわけじゃなかったんだ、ああくそ、どうして私はいつもこう……」

 おたおたと鞄をあさってハンカチを取り出し、テーブルに身を乗り出して涙を拭おうとする縞から顔を背け、潤はぐいと頬を拭った。

「そんな強くこするなって」

「縞さん」

 縞の焦りをさえぎって言った。

「私、万里さんとこれからどうするのか……まだ、ちゃんと決められそうにないです」

 真剣な声に、縞は手を下ろして頷く。

「うん」

「でも、万里さんが……ううん、縞さんや、葛ノ葉先生も、怒ったり、悲しんだりするようなことはしたくない。それは本当に心からそう思うから、だから……」

 潤は深く息を吸って、静かな声で問いかけた。

「私のこと、見ててくれますか。傷つけそうになったら、止めてくれますか」

 縞は潤を見下ろし、その濡れた瞳にひたと視線を合わせる。ふたりはしばらく見つめあい、縞ははっきり首を縦に振った。

「あの話をした以上、私にはその頼みを聞く責任がある。……ありがとう。私の話を聞いて、そこまで真剣に考えてくれて」

 縞の礼に、潤は緩く首を横に振った。礼を言われるようなことじゃないのだ、他人に自分の行動をゆだねるなんて無責任なことなのだから。


 喫茶店を出てすぐ、縞はどこかぼんやりとした表情で潤に尋ねた。

「君さあ、愛って何だか分かるか。好きってどういうことだか分かるか」

 脈絡のない質問に、潤は縞のいる方を振り向いた。深刻ではないものの、それなりに真面目な表情だったので、潤もそれなりの真面目さで答える。

「分かりません。人の気持ちってこう……不定形なので」

「不定形か」

 そうつぶやいたきり考え込む縞に、潤は「こんな話で悩ませてもな」と思い、話を逸らすことにした。

「縞さんの愛はどんな形をしてますか?」

 抽象的な問いかけに、縞はしばらく考え込んでから短く答えた。

「うかつに触ると刺さる」

「刺さっちゃいますか……」

「正直持て余している」

 途方に暮れた顔をする縞に、潤はあっさり答える。

「いいんじゃないですか、刺さっても。結局最後に笑えてれば」

「血が出るようなやつでもか?」

「最近そういうドラマやってますよ」

「血が出るようなやつが? 君、そういうの好きなのか?」

「私は別に……」

「なんだそれ」

 縞は苦笑して、それから興味が出てきたのか、面白がるような顔をして潤に尋ねる。

「君の愛はどんな形だ? 形があればの話だが」

「そうですね……」

 潤は首を傾げ、真面目くさった顔で答えた。

「ゲル状かもしれない。それかスライム」

「……君わざと変なこと言ってないか? 大丈夫か? 疲れたのか?」

「失礼な。真面目に言ってるんですよ」

 縞の心配を肩をすくめてやり過ごし、またすたすたと歩き始めた。縞は懲りずに愛の形について考えている。

「今度万里にも聞いてみるか」

「やめまておきしょうよ……混乱させそうなので……」

 縞は縞の呆れ顔にけたけたと笑い、それからふっと寂しげな表情で言った。

「万里の愛の形が何であったとしても」

 独り言のようなささやかさで落とされた言葉を、しかし潤はきちんと拾い上げた。視線を合わさないまま、縞は小さな声で続ける。

「自分をないがしろにするようなことしてほしくないな……」

 潤は慎重に縞の表情をうかがい、それから一つ尋ねる。

「縞さんは、愛が嫌いですか」

「分からないものの好き嫌いは断定できない。でも、恐ろしいと思う」

 刺さって血が出るし、と縞がどこか途方に暮れた顔をして言うので、潤は神妙な表情でこう告げた。

「恐れようが、遠ざけようが、気づけばそこにあるものだと思いますよ」

「……妖怪なんかよりよっぽど恐ろしいな」

 縞が冗談めかして笑うので、潤もにっこり笑顔を作る。

「気をつけましょうね、お互いに」

 身を滅ぼすような愛なんてろくでもない。頭でそう思っていたとしても、いざそうなってしまえばきっと止まれない。そんな予感を腹の底に隠して潤は縞の背中を見送った。

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結び目アソート 司田由楽 @shidaraku

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