一旦休み

 一応夢物質の有無を調べる方法はだいたい見当がついてきたが、私はどうしても夢物質を血中から有無だけでも調べることができないかとずっと考えていた。試薬を用いて反応させ、その色等の濃さから夢物質の濃度を調べることはできないか、など、今後夢物質について収集をする上で体内の夢物質濃度を調べることは必要不可欠ではないかと考えている。そして私をこの考えに至らしめる要因は他にもあった。あの治験のときのように毎回分離の作業をすることは少人数ならあまり手間にならないが、今後多くの人を相手に夢の分析やその具現化を試みることを考えると気が滅入りそうだ。だからせめて分離作業だけでも自動化できればと考えていた。

 こっちの方は試薬を作るより比べるまでもなく簡単だった。どういった手順で行えばいいかについては既にわかっているのであとは外注して設計と形にする作業をしてもらえばいいだけである。もしくは自分でやることもできるのだろうか。いや、電子工作は得意な方ではないし、あまり自分でそういったことをするのは難しいのではなかろうか。ここは外注するのが一番丸く収められるだろう。ここで私の悪い癖が出た。勉強のためにも少し考えてみるかといった気分になってしまうことだ。こういう回り道を選んでしまうから時間がなくなっていくのである。仕方がない。これを考えつつ別の作業を進めるとしよう。何しろ私にはやらなければならないことがいっぱいある。タバコを吸って休憩しながら今後のことを考えていた。「本当はタバコを吸っている間はこんなことを考えたくないんだけどな」と独り言を言った。最近はひとりごとが増えてきた。


 そういえばまたカウンセリングの日が近いことを思い出した。明日あたりだった気がする、とスマートフォンに入っているカレンダーアプリケーションを開いて確認する。最近は記憶をほぼ外部に記録することで記憶保持を外注している。便利な時代になったものだなと感じた。昔は紙のカレンダーに書き込んでいたっけ。あれも便利だったがこちらのほうが持ち物を減らせるしインターネットのつながるところであればあらゆる場所からアクセスすることができるという面を持っている。インターネットが普及した昨今では、インターネットに接続できる環境であることは普通で、山奥や渓谷にでも行かない限りこれを可能にしていた。「インターネットが使える場所ならば俗世である」という言説を随分前に漫画かなにかで目にしたことを覚えている。これをもとにして考えるなら現代では瞬く間に俗世が減っている。そのうち俗世でない場所は我々人間には認知できない場所のみになるのではないかと、このとき悲しさに近いものを感じた。人間は俗世から逃げることができない時代はすぐそこに迫っていた。私は浄土が案外好きな方なのかもしれない。浄土に行くことによって俗世から洗い流された自分を見て、俗世で雁字搦がんじがらめにされるこの日常から逃れることができていた。


 予定を確認したところカウンセリングの日は明日で間違いなかった。何を話したらいいのだろうか。カウンセラーは話をさせることがとても上手で、もし私が今、時間を埋めることだけを考えているのであればこの心配は杞憂だった。しかし相談したいことが最近になってできてきたことも感じていた。話の流れを作ることに長けているカウンセラーの前で自分が話したいことを話すのは難しいようにすら思っていた。実際は最近どうですかと聞かれたときに、実は……と話し始めたらいいのだが、こういう心配をする人間に育ってしまった以上仕方があるまい。メモでも作っていくかという気持ちに切り替え、筆記用具を手にした。


 カウンセリングの日が来た。憂鬱だ。獏として仕事をしている以上このカウンセリングから逃れることはできない。みんなこうしてきたんだと自分に言い聞かせて家を出る気持ちを固めた。


 電車に乗るのは苦手だ。社会に組み込まれていることを感じる。みんな同じ顔をしているように見えてくる。みんな同じことを考えているのだろうか。世界や社会の輪の中で電車が車輪とともに回り、全てが廻っていく。うまく廻っていくように思わされている。目の前がぐるぐる回っている気がする。回る、まわる、廻る、まわる。いや、落ち着いたほうがいい。しかしどれほど落ち着いたところで社会に巻き込まれていることへの嫌悪を拭うことは不可能である。わたしは自分で自分の生き方を見つけ、そのように生きることしかできないのである。今日も電車への嫌悪感を胸に抱きながら今日も社会の波に飲まれていく。この話をカウンセリングでもしてもいいのではないだろうかとすら思えてくる。そもそもカウンセリング中は何を話してもいいのである。今はこんなこと考える必要もなかろう。カウンセリングまであと少ししか時間がない。焦りが募っていく。何を話そうかなど最初から考えていなかったのでこれから話題が思いついたのならそれについて話しても咎められたりはしないだろう。


 カウンセリングの時間が来た。先述の通り、カウンセラーは話の流れを作る技術に非常に長けており、ここからどうやって自分の話をしていくか、それを考え続けている。まあどうにでもなるのだろう。今までもこうしてきたのである。


 一応一段落つけるところまで滞りなく終わった。いつもどおり最近どうですかという質問から入り、その質問に対してわたしの近況の悩みを話した。特筆すべき点も、なにか私に有益な返答があるわけでもなくカウンセリングの時間は終わってしまった。それに私が受けるカウンセリングにおいて私の普段の精神というのはあまり重視されていないのではなかろうか。私にとって必要なのは獏のスーパーバイザではなく、心療内科のカウンセリングであることをなんとなく感じる時間になった。

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@otyn0308

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