お題⑤「宿題」
八月三十一日狂騒曲
僕の夏休みが終わらないまま、いったいどれくらいの時間が経ったんだろう。
小学五年生の夏休み。例年通りお母さんにどれだけ怒られてもやらなかったせいで、手付かずの宿題が山となって積もったころ。
今からこれをやったって新学期までに間に合わないのは間違いない。このままの状態で学校に行けば、間違いなく怒られる。
去年までも同じだったんだからいいじゃないって思われるかもしれないけど、今年からの新しい担任の先生は怒ると本当に怖いんだ。だから、学校に行きたくない。
じゃあ無理をしてでも宿題を終わらせればいいじゃないって言われたら、それもイヤだ。第一こんな量、夏休みの残りの期間中ずーっと徹夜してたって終わらない。
頑張ってやったところで怒られるのもイヤだし、やらなくてもっと怒られるのもイヤだ。だから僕は、完全に諦めて何もかも放置していたんだ。
「夏休み、終わらなければいいのになあ……」
学習机の上に山積みしたプリント、ドリル、日記帳その他もろもろを横目に見ながらベッドに寝転がる。このまま寝ちゃって、明日起きたら何故かぜーんぶ綺麗に終わってたりしたらいいのに。そんなことあり得ないから、夏休みが終わらなければいいのにって思う。そんなこともあり得ないから、どうしようもないんだけど。
はーっと大きくため息をついて、電気を消して寝ることにした。それが八月三十日の夜の話だった。
八月三十一日。ついに来た夏休み最終日。
僕はいつも通り昼過ぎに起きて、あくびしながら階段を降りてリビングへ向かう。多分お母さんが用意してくれてる昼ごはんを食べて、今日も手付かずの宿題の山を横に置いたままゲームでもしようかと思ってたんだ。
でも、その日はすべてがおかしくなっていた。
「お母さん?」
お母さんは当然ながら起きていた。けれど、動いていない。エプロンをつけてキッチンに立ち、片手に持った卵を割るためボウルにぶつけようとしているポーズで──止まっていた。
最初はなにか、ふざけているのかなって思った。何度声をかけても動かないから、「もお、そこまでしなくていいってば」って、肩を揺さぶりに行こうとして──揺らせなかった。
お母さんの体はガチガチに、凍りついたように固まって動かなくなっていたのだ。
怖くなって、僕はお父さんを呼ぼうとした。お父さんはいつもならこれくらいの時間帯、ソファでテレビを見ている。その日もそれは変わらなかったけど──やっぱりお父さんも止まって、動かなくなっていた。
お父さんだけじゃない。そういえば、テレビの音がしていない。見れば、バラエティ番組のひな壇で、イジられ役の芸人さんが立ち上がって司会者にツッコミに行こうとして、そのまま止まっていた。
ひいと悲鳴をあげて僕は外に出た。けれどやっぱり、家の外にある全てのものが止まっていた。車も、歩いてる人も、公園の時計も、塀の上の猫も、空を流れる雲でさえ。
だーっと街を一周駆け抜けて、戻ってきても何も変わらなかった。誰も彼も何もかも、止まったまま動かない。肩で息をしながらうなだれて家に帰った僕は、自分の部屋に戻ってわーっと泣きながら布団にくるまった。
何が起きているのかまったくわからない。どうして僕だけ普通でいられるのかわからない。もしかしたらこれは夢なのかもしれない。二の腕をつねってみて、痛くなるから絶望した。
鼻をぐずぐず言わせながら、ふと視線を動かしてみたらはっとした。机の上。積もった宿題の山。これがあるから夏休みなんて、終わらなければいいのにって思って……。
「……もしかして、宿題が終わらないから、夏休みも終わらないの?」
……そんなわけないってすぐに考え直した。痛かったけど、やっぱりこれは夢かもしれない。寝て起きたら全部元通りになるかもしれない、そう思えたら少しだけ元気になった。
布団をかぶり直して横になる。起きたばっかりだし、状況が状況だからなかなか眠れなかったけど、それでも僕は無理矢理なんとか寝てみることにした。
──けれど、起きても何も変わらなかった。どれくらい寝たのかはわからないけど、そもそも部屋の時計の秒針すら動かなくなっているので時間がまったくわからない。リビングに降りてもお父さんやお母さんはそのままだし、窓の外を眺めても鳥の一匹すら飛んでいなかった。
諦めて一旦ごはんでも食べようかなと思ったけど、そういえばお腹が空いていない。昼過ぎに起きて何も食べてないし、そこからさらに寝て時間も経ったはずなのに。
まあそれはいいかなと思い直して、重いため息をつきながらテーブルについた。両肘をついても怒られることがないのはちょっとだけ快適かもしれない。それよりこれからどうしよう。
寝る前に予想したことが、もし正しければ……宿題を終わらせたら元通りの世界になるのかもしれない。逆に言えば……宿題が終わるまで永遠にこのままかもしれない。じゃあ、しょうがないから宿題をやるしかないか、と思った。
────思った、けど、だ。自分でもびっくりするくらいの悪知恵が働いた。
「このままみんなは動かないし、時間も進まないし、お腹も空かない。なら、無理して急いで終わらせることもなくない?」
そう考えた瞬間、次にはもう、じゃあ何をして遊ぼうかという気持ちにしかならなかった。
部屋に戻ってゲームの電源を入れてみる。なんと、動いた。インターネットに繋いで他の人とプレイするってことはできなさそうだけど、一人でやる分には十分だ。
飽きるまでやって、次は外に出てみる。本屋さんに行ってマンガを立ち読みする。店員さんも止まってるから、怒られることなんてない。
一旦家に戻って水着を持ってきて、学校のプールに忍び込む。先生も誰も監視してない中、好き放題泳ぐのはすっごく楽しい。
その帰りに駄菓子屋さんでアイスをもらう。……さすがに泥棒するのは気が引けたから、レジのところにお金を置いて。冷凍庫も止まっていたけど、アイスも溶けることなく止まっていたから何の問題もなかった。
最高じゃん! 誰にも何にも怒られずに好きなだけ遊べる終わらない夏休み、最高! 宿題をしないだけでずーっとこのまま暮らせるって考えたら、もうワクワクしてしょうがなかった。
結局その日は宿題に手をつけず、眠くなったなーと思った時に寝た。次に起きた時も、世界は止まったままだった。
やっぱり最高! 宿題なんか一生やらなくていいや! そんな気持ちで次の日も、その次の日もずっと、ずーっと遊んで暮らし続け──
────られると思ったのはせいぜい五日くらいの間までだった。
ゲームなんてやり続けてればそのうち終わる。マンガも読みたいものを読み終わって、けれど続きは来ないからずっと途中のままだ。誰もいないプールって結構寂しくてすぐ飽きるし。アイスだって毎日買ってればお金がなくなるし、かといって怖いから泥棒する気にはなれない。
何より、街の人もテレビの中の人も、お父さんもお母さんも動かないまま喋ってくれないのはイヤだ。いくらお腹が空かなくっても、ご飯が食べられないのもイヤだ。
だから僕は宿題をやり始めた。時間は止まっているんだからゆっくりやってもいいのかもしれないけど、早くみんなに会いたいから急いでやることにした。
鉛筆を走らせて、走らせて、走らせて、目がかすんでもう無理って思ったころに眠る。起きたらまた机に向かって、鉛筆を走らせて、走らせて、目がかすむまで走らせ続ける。
それをずーっと繰り返していた。早く元の世界に戻りたかった。僕が宿題をやらなかったせいで止められてしまった世界を、元に戻してやりたかった。
そして、最後のプリント一枚、最後の行、最後の文字、句点。そこまでやり終えて──僕は燃え尽きた。
耐えきれなくなってベッドに横たわる。このまましばらく眠りたかった。起きたらきっと、世界は元通りになってるんだろうし──
「休みだからっていつまで寝てるの! もう夏休み終わるのに、こんな生活リズムのままで学校行けると思ってるの!?」
──思ってたよりずっと早く、元通りになっていた。
かちこち針を動かして時を刻み始めた時計は昼過ぎを指しているし、そんな時間になっても起きてこない僕を、お母さんが起こしにきたんだ。
「わかってるよお、でもゆうべはあんまり眠れてないんだよお、もうちょっと寝かせて……」
「何言ってるの、もうこんな時間なんだし十分寝たでしょ! 早く起きてご飯食べなさい、オムライス作ったから」
お母さんに布団をはぎ取られちゃったから、仕方なく起きてリビングに行く。お父さんがソファに座って、芸人さんが「何言うとんねん!」とツッコんでるのを見て笑っていた。
それを見て僕も笑いながら、オムライスの味を噛み締めていると──「ちょっと! なんで洗濯機に水着が入ってるのよ! あんたいつの間にプールなんか行ったの!?」──お母さんに怒られちゃって、それでまた、笑ったんだ。
2021夏の5題 9さい @Q___x_ai
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