お題④「アイスコーヒー」
わたしと朝子
「ねえ、学校サボってどっか行っちゃわない?」
あれは確か高校二年生のころ。そろそろ受験に向けて本格的に頑張らないといけないって、みんなピリピリし始めてたころ。
同じクラスにいるだけで、一言も喋ったことのなかったはずのわたしと朝子は、そんなやりとりを駅のホームで交わしただけで海に行った。
朝子は変わり者で、クラスでも浮いていた。授業中、先生に変な質問をしたり、そもそも授業に出なかったり。保健室で寝て過ごしていたかと思えば屋上に侵入してぼうっとしてたり。お昼ごはんは毎日一人で食べて、部活にも入っていなかった。
そんな朝子が当時どうしてわたしに話しかけてきたのかは、未だにわからない。ただ毎朝、同じ駅から同じ電車で学校に通っていただけで、さっき言ったみたいに喋ったことすらなかったのに。
そして、そんな唐突なお誘いに、わたしが乗ってしまった理由も未だにわからないままだ。
なんとなく知らない電車に乗ってみたわたしと朝子は、気がついたら海までやって来ていた。海水浴ができるようなところでもなく、ただ海があって、波の音が聞けて、それだけの場所。
買っていなかった分の切符代を駅員さんに直接支払って、さびれた町に足を踏み入れたわたしと朝子は、あてもなくぶらぶら歩いたりして、会話らしき会話も一切しなかった。どうしてわたしを誘ったの、なんで学校行かないの、とか、そんなことも訊かずに。
ただ、なんとなく、無責任にこれでいいんだと思った。不思議な充足感だけがわたしの心に満ちていた。結局わたしも朝子も一言も喋らないまま浜辺に着いて、ずっと海を眺めていた。
そのうち朝子はふらっといなくなり、戻って来たときに缶コーヒーをふたつ、両手に握って帰ってきた。当時の私は砂糖とミルクがないと飲めなかったのに、当たり前みたいにブラックを手渡されて。でも不思議と不満は湧いてこなかった、口をつければさすがに苦くて顔をしかめたけど。
「どう、サボってよかったでしょ?」
同じように缶コーヒーを開けて一口飲んだ朝子の、飲み下す細い喉のまっしろさに息を飲む。得意げに笑いながら背負う朝日に、朝子の少し色の薄い髪が透かされてキラキラして、きれいだった。
なんて返したかは覚えてないけど、その後普通に学校へ行き直し、朝子と一緒にこっぴどく叱られて、それでも一緒にニヤニヤしてたことは覚えてる。
そして、その後しばらくしてから、朝子が学校をやめちゃったことも。その時どう思ったかは、やっぱり思い出せない。
一方わたしはと言うと、その後朝子とは元通り何も喋らない仲に戻り、もう二度とサボることもなく普通に卒業してしまったのだった。その後も普通に大学へ進学し、就職して、男の人と付き合ったり別れたりしてみながら普通に生きている。
別に現状が不幸だなんて思ったことはない。だけど、どうしても何をしても退屈が拭い去れない。今や、あの日あの海で朝子と飲んだコーヒーの味だけが、鮮烈に思い出せる感覚だ。
無味無臭の生活に、そろそろ耐えられなくなってきている。そんな日々を続けて続けて、いつもと同じようにホームに立っていた時、視界の端にちらついた髪の色にふと視線を奪われた。
「……朝子?」
地毛だろうに、色が薄くていつも先生に怒られていた髪。見間違うはずもなく、確かに朝子のものだった。
スーツを着ているわたしと違ってラフな格好をした朝子は、わたしの声に少し驚いたような表情をした。
「朝子だよね? わたし、高校の時の、森山。覚えてる?」
「え? ……あ、うん」
「久しぶり。元気だった? これからどっか行くの」
「うん……」
あの時と違ってどこか不安げにしている朝子に、わたしは努めて明るく笑いかけた。そして──もう一度あの味を確かめたくて、言った。
「ねえ、覚えてる? 一緒にサボって海に行ったこと。あれ、すっごく楽しくてさ……今からもう一度行ってみない?」
「え、今から……?」
「うん。仕事とか行くつもりなら、サボっちゃってさ」
朝子はだいぶ困惑した顔をして、それでも少し経ってから頷いてくれた。今度は駅で切符を買ってから海へ行く電車に乗る。道中喋ることはなかったが、あの時も同じだったからなんにも気にならなかった。
目的の駅に着いて、今度はわたしが缶コーヒーを買ってから、一緒に海へ向かった。あの時と同じようにコーヒーを飲みながら無言で風景を眺める。缶の中身が半分ほど減ったころ、朝子がおもむろに喋り始めた。
「……私ね、高校やめちゃったでしょ。その後すっごい苦労したから、今通信制の学校に行ってるの」
きょとんとしてしまう。いきなり語り出したからびっくりしたと言うよりは、朝子の口からそういう言葉が出てくると思わなくて。
「卒業できたら大学にも行きたいんだ。そのあときちんと就職もしたい、やってみたい仕事ってなかなかないけど……。……森山さんは偉いよね、ちゃんと仕事もやってて」
「そう、かな」
「そうだよ。当たり前のことを普通にできるのってすごいことだよ。この歳になって思い知ったけどさ……」
そう言って笑う朝子の髪は、痛みきってパサパサになっていた。
わたしは、問題なく飲めるようになったはずのコーヒーがひどく苦く感じるような気がして、落ち着かなかった。目の前にいる朝子は、朝子だけど朝子じゃない。
あの日味わったうつくしさは、今はもう二度と手に入れられないものなのだと、理解してしまったのかもしれなかった。
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