桃膠
海崎たま
桃膠
姉が
この地域の古い
場所は、姉が生まれたときに父が庭に植えた、
ちょうど盆休みのことで、姉は東京の大学に通う一人暮らしのアパートから、こちらの実家に帰省中だった。
特に苦しむことすらなく、その日のうちに息を引き取った姉の姿は、生前とあまり変わり無かった。その顔に葬儀屋が化粧を
両親が葬儀屋と様々な日取りを打ち合わせ、私は部屋の隅で、黙って大人たちのやり取りを聞いていた。途中で、葬式の日には何を着たら良いのか、とだけ会話を
本当は姉の黒いワンピースを着てみたかったのだが、そんなことを言っては母に酷く叱られそうだった。姉の死以来、母は過敏に震える神経を
暑い夏だった。八月の半ばを過ぎてなお、全てが燃え立つようだった。
父はこの炎天下に、
じりじりと容赦の無い日差しの中で、男たちが熱気に溶けそうになりながらひたすらに穴を掘る。私はと言えば良いご身分で、彼らの後ろ姿を網戸の内側から眺めつつ、夏休みの宿題のふりをして本を読んでいた。先ほど学校に母が電話して、受話器を代わらされたときの担任の声の雰囲気からして、宿題の提出は多少遅れたって許される。
「深く、掘らなぁ。樹が倒れねえようにせ、杭と縄で、固定するじ」
一番
「何か出てきた」
「鳥の骨だ。か細いな」
ああ、と私は思い出す。昔、家で飼っていた
怖くてぐずぐずと泣いている私を見つけた学校帰りの姉が、園芸用の小さなスコップを使って穴を堀り、地下で細かく絡み合う樹の根に、小鳥の小さな体をそっと抱かせてやった。鸚哥のことはそれきり忘れていたが、今の私と同じ学校の制服を着て背中を丸め、白い手で土をいじっていた姉の姿は妙によく覚えている。
鸚哥の骨は、父が庭の少し離れた場所に埋め直した。飛翔から地獄へと墜落していく小鳥を想像しつつ、私は再び読書に戻った。
そうして日が傾き始めた頃に、作業はお開きになった。続きはまた明日らしい。母に呼ばれて本を閉じ、汗と泥だらけの男たちに帰り際、お茶のペットボトルを手渡した。
男たちが帰ってから、母は庭に出て、桃の樹の幹から何かを
買ったものでは駄目なのかと問えば、本来は、女の
「涙を食べるの」
「嫁がずに死んだ娘が、我が身の情けなさに流す涙よ。その涙をみんなで
そう言うと母はまた、崩れるように泣きだした。うずくまる母の背を撫でながら、私は茂った桃の葉越しに落ちてくる、
次の日が通夜ということで、翌日の作業は朝から進められた。昨日と違って平日のことで、集まってきた男手は昨日よりも少なかった。私は相変わらず縁側の部屋で好きに本のページを捲り、母は台所に立って、昼に男衆へ振る舞う
自分も昼食を取ろうと台所に向かう途中で、休憩中の父に呼び止められた。母には隠したい様子で、こんなものに見覚えはないかと白い封筒を差し出す。宛名は姉の名で、中には手紙が入っていた。
「昨日、小鳥と一緒に土から出てきた。根に絡んで、大事そうに箱に仕舞われていた。男親には見られたく無いだろうし、母さんも知らないものかもしれないから。お前が持っていてくれないか」
去り際に父は、中身はお前にも見られたくないものかもしれないね、と注意深く付け加えるのを忘れなかった。私は昼食の前に二階の子供部屋へ駆け込み、急いで手紙を読んだ。中身は何てことの無い恋文だったが、文章の調子はなかなか熱烈で、終始上ずっていて、そのせいでこの差し出し人が姉と恋仲だったのか、それとも一方的に姉へ想いを寄せていただけなのかすら判然としなかった。
その日も私は終日、本を読んでいるだけだったが、そうやってぼんやり過ごしているうちに、庭には女の体を一人埋めるのに十分な、深くて暗い穴が準備されていた。
次の日は予定通り、自宅で通夜が開かれた。主に近所の人や親戚や、姉の中学校のときの恩師などが代わるがわる顔を見せては、花の
客人の見送りで両親と一緒に玄関に立ったとき、少し離れた
「あの人、ずっとあそこに居るね」
母が、声をひそめて警戒する。私は昨日の手紙のことを考えていた。あの男がKなのだろうか。父は気付かないふりで、無言で家の中に戻って行った。
葬儀の日には、部屋から花を全て運び出し、桃の樹の周りを飾った。
そして今朝も、昨日のKと
胸騒ぎがした。今、私は制服のポケットに、手紙を
姉の遺体が、布団ごと庭に運ばれた。力仕事は葬儀屋の人手がやってくれるが、しきたりとして、父親が死んだ娘の手を握る。男二人に上半身と脚を抱えられ、喪服の父に手を添えられて、姉は樹の根本に、膝を崩して座るような姿勢で横たえられた。そうして会葬者たちの手で、顔や体の周りにまた花を飾られ、最期の別れを涙で
「根に、しっかり抱かせてやって下さい」
初めての男に抱かれるように、とは葬儀屋は言わなかったが、以前に別の親戚の女性の葬儀でそんな言葉を聞いたことがあった。その時は何とも思わなかったが、身近な人の葬儀となるとなかなか
姉の長くて重い黒髪が、太い根、細い根に絡め取られ、まるで体ごと養分として樹に
姉の体をすっかり土の中に埋めた後、
「庭の桃の樹から採ったんです」と母が言う。
「そんならこれは、お姉さんのか」
「いえ、採ったのは一昨日。でも同じ樹で、気分だけでもと思って」
なら、来年の
座敷を離れ、庭に出た。暑い夏の日差しの中に、Kが立っている。眩しい。私は目を細める。午後の一番高く昇る陽に照らされて、全てが白ける庭で、Kはじっと浄土の桃の樹を見上げている。
ポケットに手をやる。手紙が無い。Kの手の中だ。Kはそれをぐしゃぐしゃと握りしめ、痛そうに胸へ押し当てている。泣いているのか。男の人も、こうして泣くのか。
いつまでも、私は貴女を想っています。いつまでも。いつまでも。
ふと、姉はもしかして、この人に想われ過ぎて死んだのかもしれないと思った。あの
ならばきっと、姉は今、紅と白の絞りの浴衣に身を包み、小鳥と一緒に寂しい地獄にいるのだろう。
Kはそっと幹に手をやって、樹皮に残った小さな膠を剥いだ。乾いた音がした。Kはそれを伏し目がちに、思い詰めたように見つめ、そして自分の唇の間に飴玉のように押し込んだ。
日差しが眩しい。真っ直ぐな光が突き刺さって、目の底がくらむ。全てが溶けてしまいそうな夏の暑さ。Kの口の中で、姉の涙がとろりと
桃膠 海崎たま @chabobunko
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