桃膠

海崎たま

桃膠

姉が鬼籍きせきに入ったので、桃の樹の根本に埋めることになった。

 この地域の古いならわしに従う形だ。うちはそんなに由緒のある家柄でも無いのに、と最初は近所に恥ずかしいような気がしたが、姉さんをきちんととむらってやらなぁ、と語尾を湿しめらせ、いつまでも嗚咽おえつを止められないでいる母を見ては、何も言うことは出来なかった。

 場所は、姉が生まれたときに父が庭に植えた、花桃はなももの樹の下が良かろうと決まった。毎年、気候がぬるみ始める時期に、可愛らしい紅白のしぼりの花を咲かせる。姉が、生前好んで着ていた浴衣ゆかたに似ていて、きっと喜ぶだろうと父が言った。

 ちょうど盆休みのことで、姉は東京の大学に通う一人暮らしのアパートから、こちらの実家に帰省中だった。昼日中ひるひなかにふっつりと、まるで人形の糸が切れるように家族の目の前で倒れ、そのまま目覚めること無く、運ばれた先の病院で息を引き取った。

 特に苦しむことすらなく、その日のうちに息を引き取った姉の姿は、生前とあまり変わり無かった。その顔に葬儀屋が化粧をほどこすと、本当に眠っているだけのようになってしまい、家の畳敷きの布団の上に横たえられた姿が殊更ことさらあわれを誘った。けれどそもそも、生きているときから、まぶたを閉じると死人のように見える人だった。父と母、私たち三人は、姉の遺体を囲んでまた泣いた。

 両親が葬儀屋と様々な日取りを打ち合わせ、私は部屋の隅で、黙って大人たちのやり取りを聞いていた。途中で、葬式の日には何を着たら良いのか、とだけ会話をさえぎって尋ねてみたのだが、学校の制服で良いよと母が簡潔に答え、私はそれきりまた発言権を失った。

 本当は姉の黒いワンピースを着てみたかったのだが、そんなことを言っては母に酷く叱られそうだった。姉の死以来、母は過敏に震える神経をき出しにしたままだ。

 暑い夏だった。八月の半ばを過ぎてなお、全てが燃え立つようだった。

 父はこの炎天下に、ひさしも無い庭で姉の墓穴を掘らねばならなくなった。そんな作業はとても初老の男性一人の手には負えず、日曜だったこともあり、近所から四人の男手がやって来た。皆、日暮れまでたっぷり時間を掛けて、シャベルで桃の樹の根本を掻いた。

 じりじりと容赦の無い日差しの中で、男たちが熱気に溶けそうになりながらひたすらに穴を掘る。私はと言えば良いご身分で、彼らの後ろ姿を網戸の内側から眺めつつ、夏休みの宿題のふりをして本を読んでいた。先ほど学校に母が電話して、受話器を代わらされたときの担任の声の雰囲気からして、宿題の提出は多少遅れたって許される。

「深く、掘らなぁ。樹が倒れねえようにせ、杭と縄で、固定するじ」

 一番年嵩としかさなまりのきつい爺さんが、慣れた様子でてきぱきと指示を下す。その声も耳に入らなくなるくらい文字を追うことに集中し始めていたが、そのうち、男たちが何かに小さくざわめいていることに気が付いた。

「何か出てきた」

「鳥の骨だ。か細いな」

 ああ、と私は思い出す。昔、家で飼っていた鸚哥いんこだ。死んだとき、庭に埋めてやりなさいと母は言ったが、つがいの居ないめすだったので、しきたりに従うならば桃の樹の根本に埋めてやらねば地獄に落ちるのではないかと、幼かった私は泣いた。

 怖くてぐずぐずと泣いている私を見つけた学校帰りの姉が、園芸用の小さなスコップを使って穴を堀り、地下で細かく絡み合う樹の根に、小鳥の小さな体をそっと抱かせてやった。鸚哥のことはそれきり忘れていたが、今の私と同じ学校の制服を着て背中を丸め、白い手で土をいじっていた姉の姿は妙によく覚えている。

 鸚哥の骨は、父が庭の少し離れた場所に埋め直した。飛翔から地獄へと墜落していく小鳥を想像しつつ、私は再び読書に戻った。

 そうして日が傾き始めた頃に、作業はお開きになった。続きはまた明日らしい。母に呼ばれて本を閉じ、汗と泥だらけの男たちに帰り際、お茶のペットボトルを手渡した。

 男たちが帰ってから、母は庭に出て、桃の樹の幹から何かをいでは、小脇に抱えた笊に放り込んでいった。何をしているのかと問えば、幹から垂れた樹液が凝固し、にかわになったのをっているのだと言う。桃の膠と言えばこの辺りの、未婚で死んだ女の葬式でしか食べない料理という認識で、実際に採っているところは初めて見た。

 買ったものでは駄目なのかと問えば、本来は、女のむくろを埋めた樹から採れる膠を食べるのがしきたりなのだと言う。琥珀こはくのようなその粒は、桃の花の涙とも言われるそうだ。

「涙を食べるの」

「嫁がずに死んだ娘が、我が身の情けなさに流す涙よ。その涙をみんなで供養くようして、女は初めて成仏出来るの」

 そう言うと母はまた、崩れるように泣きだした。うずくまる母の背を撫でながら、私は茂った桃の葉越しに落ちてくる、にじんだ夕陽を見上げていた。

 次の日が通夜ということで、翌日の作業は朝から進められた。昨日と違って平日のことで、集まってきた男手は昨日よりも少なかった。私は相変わらず縁側の部屋で好きに本のページを捲り、母は台所に立って、昼に男衆へ振る舞う稲荷いなり寿司を拵えていた。母手製のげを甘辛く煮付けた稲荷は姉の霊前にも供えられたが、畳の部屋は日に日に増える花や菓子で埋め尽くされ、三途の川の向こう側のようだった。その彼岸ひがんで姉はじっと眠るように目を閉じていて、部屋の中へ足を踏み入れるのが恐ろしかった。

 自分も昼食を取ろうと台所に向かう途中で、休憩中の父に呼び止められた。母には隠したい様子で、こんなものに見覚えはないかと白い封筒を差し出す。宛名は姉の名で、中には手紙が入っていた。

「昨日、小鳥と一緒に土から出てきた。根に絡んで、大事そうに箱に仕舞われていた。男親には見られたく無いだろうし、母さんも知らないものかもしれないから。お前が持っていてくれないか」

 去り際に父は、中身はお前にも見られたくないものかもしれないね、と注意深く付け加えるのを忘れなかった。私は昼食の前に二階の子供部屋へ駆け込み、急いで手紙を読んだ。中身は何てことの無い恋文だったが、文章の調子はなかなか熱烈で、終始上ずっていて、そのせいでこの差し出し人が姉と恋仲だったのか、それとも一方的に姉へ想いを寄せていただけなのかすら判然としなかった。

 貴女あなたのKより。いつまでも想っています。手紙の末尾に差し出し人のイニシャルを確認し、とりあえず引き出しに仕舞しまって階段を降りた。

 その日も私は終日、本を読んでいるだけだったが、そうやってぼんやり過ごしているうちに、庭には女の体を一人埋めるのに十分な、深くて暗い穴が準備されていた。

 次の日は予定通り、自宅で通夜が開かれた。主に近所の人や親戚や、姉の中学校のときの恩師などが代わるがわる顔を見せては、花の岸辺きしべに眠る姉の顔を見て、涙を流して帰って行った。姉は物静かで友人など居ない人だと思っていたが、それでもぽつぽつと地元での姉の友人を名乗る人たちがやって来て、同窓の思い出話などを語っていく。そこには、私の知らない姉の人生がちゃんとあった。ただ、東京の大学の友人などは一人も姿を現さなかったので、どうも地元を出て以来の姉は、生来せいらいの気質通り孤独に過ごしていたらしいことも知った。

 客人の見送りで両親と一緒に玄関に立ったとき、少し離れたつじに一人の男を見つけた。白いシャツに黒い長ズボンという目立たない格好で、物陰に身を隠すようにしながらじっとこちらを眺めている。年の頃は姉より少し上くらいだろう。背が高いだけで特徴の無い、陰気で大人しそうな男だ。

「あの人、ずっとあそこに居るね」

 母が、声をひそめて警戒する。私は昨日の手紙のことを考えていた。あの男がKなのだろうか。父は気付かないふりで、無言で家の中に戻って行った。

 葬儀の日には、部屋から花を全て運び出し、桃の樹の周りを飾った。燦爛さんらんと降りそそぐ夏の陽光が、花の絨毯じゅうたんの上に白く耀かがよう。まるで、樹が浄土にそびえているようだ。

 そして今朝も、昨日のKとおぼしき男が辻に立って、家のほうをじっと眺めていた。

 胸騒ぎがした。今、私は制服のポケットに、手紙をひそませている。

 姉の遺体が、布団ごと庭に運ばれた。力仕事は葬儀屋の人手がやってくれるが、しきたりとして、父親が死んだ娘の手を握る。男二人に上半身と脚を抱えられ、喪服の父に手を添えられて、姉は樹の根本に、膝を崩して座るような姿勢で横たえられた。そうして会葬者たちの手で、顔や体の周りにまた花を飾られ、最期の別れを涙でしまれた。

「根に、しっかり抱かせてやって下さい」

 初めての男に抱かれるように、とは葬儀屋は言わなかったが、以前に別の親戚の女性の葬儀でそんな言葉を聞いたことがあった。その時は何とも思わなかったが、身近な人の葬儀となるとなかなかおぞましい所以ゆえんである。それでも両親が二人とも神妙な顔で、涙ぐみさえしながら姉のあおざめた体を樹の根に押し込んでいるのを見ると、水を差す気にはなれなかった。

 姉の長くて重い黒髪が、太い根、細い根に絡め取られ、まるで体ごと養分として樹にとらわれていくような姿を眺めながら、私は改めて、この人のことをよく知らないまま終わってしまったと思った。年の離れた姉で、妹の私にもいつも優しく穏やかな人だったが、それだけのことしか知らない。姉が何を考え、何を感じて生きていたのか、私はこの人のことを何も知らない。

 姉の体をすっかり土の中に埋めた後、精進しょうじんとしとして、母は一同に桃とうきょうを振る舞った。一昨日んだ膠を、一晩ふやかして煮詰めたものだ。氷砂糖と煮て冷ますので、すっきりと甘い。味わおうとすると、すぐにとろりとはかなとろけてしまう。

「庭の桃の樹から採ったんです」と母が言う。

「そんならこれは、お姉さんのか」

「いえ、採ったのは一昨日。でも同じ樹で、気分だけでもと思って」

 なら、来年の新盆あらぼんには、姉さんの涙が食べられるね。そう言って両親と親戚らが笑い合ってるのを見て、私は耐えきれず席を立った。

 座敷を離れ、庭に出た。暑い夏の日差しの中に、Kが立っている。眩しい。私は目を細める。午後の一番高く昇る陽に照らされて、全てが白ける庭で、Kはじっと浄土の桃の樹を見上げている。

 ポケットに手をやる。手紙が無い。Kの手の中だ。Kはそれをぐしゃぐしゃと握りしめ、痛そうに胸へ押し当てている。泣いているのか。男の人も、こうして泣くのか。


 いつまでも、私は貴女を想っています。いつまでも。いつまでも。

 

 ふと、姉はもしかして、この人に想われ過ぎて死んだのかもしれないと思った。あのしずかな姉は、この手紙のせいで死んだのか。

 ならばきっと、姉は今、紅と白の絞りの浴衣に身を包み、小鳥と一緒に寂しい地獄にいるのだろう。

 Kはそっと幹に手をやって、樹皮に残った小さな膠を剥いだ。乾いた音がした。Kはそれを伏し目がちに、思い詰めたように見つめ、そして自分の唇の間に飴玉のように押し込んだ。

 日差しが眩しい。真っ直ぐな光が突き刺さって、目の底がくらむ。全てが溶けてしまいそうな夏の暑さ。Kの口の中で、姉の涙がとろりととろけた。

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桃膠 海崎たま @chabobunko

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