10(終)

「はあ、涼しい」

 エアコンの空気が、外が蒸し暑かったことを思い出させてくれた。最上階の一番大きな部屋は古めかしかったけれど豪華だった。さすがに一万円するだけのことはある。

「あ、あの」

 手をつないだままコハクさんは固まってしまった。今更何が気になったのだろうか。

「なんか、ごめんなさい」

 顔が真っ赤だった。もともとは色のうすい顔がマニキュアと同じ桜色になっている。

 今更遅い。けれど、ここまで強引だったにも関わらず、こういう展開になるような気がしていたのはなぜだろう。それこそ、理由なんかないのかもしれない。

「ありがとう。好きになってくれて」

「ほんとにそう思ってます?」

「ごめん、わからない。でも言った方がいいと思って」

「そういうところなんだよなあ……うふふふふ」

 コハクさんはにやにやと不穏な笑みを隠せないでいた。多分、ぼくだけが知っている表情なのだろうと思う。そうだと思いたい。

 すっ、と抱きしめられて。

 したから口をふさがれた。領域が琥珀色に炙られていく。コハクさんはさっきまでウィスキーを飲んでいたんだ、ということを思い出した。ぼくの肩にコハクさんの細い腕が絡みつく。思っていたよりずっと重い力がかかった。

「我慢できませんでした。ごめんなさい」

 泣きそうになっていた。彼女もなにがなんだかわかっていないのかもしれない。

「不思議といやじゃなかった」

 ほんとうのことを言った。

「ほんとに?」

「うん」

 コハクさんはまた忍び笑いをした。純粋に喜んでいるはずの顔がどうしてこんなにも妖艶に見えるのだろう。ひとと交わるのは背筋が凍るほど怖くて気持ち悪いはずなのに、どうしてぼくの身体はこれほどまでに熱いのだろう。まるで、炙られているかのように。

 思えば、ずいぶん前からぼくは琥珀色の炎に魅せられていたのかもしれない。柔らかな炎は、暖かな光となって虫を引き寄せる。そして、ふれて初めてそれが、身を焦がすほど熱いことを知るのだ。

 ぼくは今まさしく、飛んで火に入る夏の虫だった。

 すべてが目まぐるしく転がった。身体は熱く息が苦しい。燃えさかる炎のなかにぼくはいた。炎はぼくの身体をなめて、さすって、抱いて、飲み込んだ。そして芯までぼくを、すべて焦がした。あとには何も残らないくらいに。

 夜が訪れて、月明かりだけに照らされているような気がしていた。領域の境界は狂ったように明滅を繰り返している。

 もう、怖くなかった。

 ぼくの領域が、ひとつにとけあっていた。

 その先に琥珀色の領域が見えるような気がした。

 そばにいてほしい。明確にそう思った。今までだれにも抱いたことのない感情を、ぼくは持とうとしている。向けようとしている。おそれはあったけれど、やっぱり怖くはなかった。彼女は全身でぼくを包んだ。ぼくがほかの何かに触れることを拒むくらいに。彼女が切ない声をあげるたびにぼくの領域は壊れそうなくらいゆがんだ。けれど、壊れることはなかったし、ずっと前からそれを知っていたような気がした。

 なあ、おまえは、おれがおまえであることを許すか。

 うん、許すよ。許そう。ぼくはぼくだし、きみもきみだ。そしてぼくらは、どちらもぼくで、そしてきみだ。

 ほんとうか。

 ほんとうだよ。

 そうか。なら、これでおれはおまえになれる。

 ありがとう。

 さようなら。

 青いカプセルがとけてきえていった。ゆっくりとぼくの中にはいっていく。ぼくと融合したぼくはそのまま、琥珀の中に包み込まれて、そのままのすがたで閉じ込められていく。

「わたしは何にでもなれてしまった。でも、何にもなれなかった。ぜんぶ、わたしが勝手に作った偽物だった。でも、あなたに触れている今のわたしは、わたしとしてほんとうに存在しているんだって思うの」

「君は偽物なんかじゃない」

 だれにでも偽物はある。自分が作った、偽物のじぶん。でも、それもまた、じぶん自身で、ほんとうの自分でもあるのだ。ぼくもコハクさんも、それを同時に見つけてしまった。これはただ、それだけのはなし。

 お互いの境界が定まっていくことがこんなに心地のよいものだと知らなかった。知りたくなかった。けれど、知れてよかった。

 そう、ぼくは、ぜんぶがぼくであるわけではなかった。ぼくと触れたすべてのひとは、ぼくと領域を交換している。ぼくはかれらの中で何かしらで生き続けるかわりに、かれらは何かしらのかたちでぼくを形作っていく。無限に分裂したぼくらの偽物はどこかでひとつに統合されて、やっぱりぼく自身に生まれ変わる。

「君はいま、たしかに存在しているよ。ぼくの中で、だれよりもたしかに」

「ありがとう」

 ねえ、と彼女は耳元でささやいた。

「マサキさんって、呼んでもいい?」

 ほかに、そう呼ぶひとはいなかった。

 ぼくが拒んだから。

 でも、全くいやではなかった。

「いいよ。マユコさんって呼ぶね」

「え、呼び捨てでいいのに」

「だめだよ。なんだか、怖い」

「そっか。別に、いいけど」

 彼女は少し恥ずかしそうに笑った。下から見上げる顔はぼくしか見たことがないだろうけれど、おそらくいちばん美しい表情だった。

 マユコさんは、だまってぼくを抱きしめていた。

 意識が遠のいていく。きっと世界が壊れる方が先だろうと、根拠のないことを思った。でも、もう根拠を探さなくていいんだ。ぼくは社会のために生きていくわけではないのだから。ぼくはぼくのために生きていくし、そこにマユコさんがいてくれれば、きっともっと素敵に生きていけるような、そんな自信が芽生えていた。

 眠りに落ちる前の、マユコさんの顔をぼくはいつまでも忘れられないだろう。けれどそれは、気持ち悪いことではないのだ。ぼくはそれにどこか安心しながら、ゆっくりと目を閉じた。はっきりと世界が彩られていくことだけ、しっかりとわかった。

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飛んで火に入る ひざのうらはやお/新津意次 @hizanourahayao

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