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 宇佐見駅の周りは、ほかの駅と同じように飲食店があるのだけれど、正直言うともっとあってもいいと思う。とはいっても、ぼくとコハクさん、もとい石井さんの歓迎会にとチーフが選んでくれた行きつけの個室ダイニングはまあまあだった。リーズナブルなコースだったのだろう、料理はホームパーティのときと比べても地味だったけれど、県庁時代よりはよかったし、会費も安かった。チーフは思っていたよりずっと朗らかな笑顔で、つまりぼくの心配は杞憂だった。係長は煙草を吸えなくてちょっと寂しそうだったけれど。

「マサちゃん、ごめんね」

 チーフは飲み過ぎていた。足取りがふらついているし顔は真っ赤だ。でもぼくに寄りかからなかった。彼女は、きちんとぼくの目を見ていた。

「あたし、自分の部署に若い男の子が来たこと今までなくて。それで舞い上がっちゃってた。嫌われたくなくて、女としての武器とかも全部なにもかも使って、なんとしてもいてもらおうと思ってた。そのうち、マサちゃんのことが好きになってたような気がしてた。でも違ったの。そうすれば、マサちゃんが元気になると思ってたの。マサちゃん、ずっと元気がなかったから。でもその違いがだんだんわからなくなってた」

 チーフが泣かず、叫ばずにここまでずっとしゃべり続けることは稀だった。ぼくは無言でずっと聞くことにした。

「それでマサちゃんが傷ついているなんて思わなかった。あたしと同じで寂しいんだって思ってたから。男を癒すのは女しかいないって、そう思ってきてたから。そうだよね、あたし、もう、おばちゃんなんだよね。どうしようもないね」

 ぼくはチーフをじっとみつめた。チーフは目こそ充血していたけれど、今までのように泣いたり声をあらげたりするような予兆はなかった。ぼくが今まで接した中でいちばん安定していた。それはもう「チーフ」ではなかった。遠藤孝子というなまえのひとりのありふれた先輩にすぎなかった。

「エンドウさん」

 ぼくはどう言葉を返していいのかわからなかった。彼女は急に、ぼくが勝手に「チーフ」と名付けた謎の生命体ではなくてひとになってしまった。だからぼくが何かアドバイスめいたことや、彼女のことばに対する反応だとか、そういうのを返すのに値するのかがわからなくなってしまっていた。

「ぼくは、エンドウさんのことをそんなに好きじゃないですけど、でも、嫌いでもないし、それに」

 ぼくはあの「熱情」はとても好きだった。エンドウさんの心がはっきり見えた気がして。エンドウさんは美しかった。つり目だけどぱっちりとした二重だったし、この辺では珍しい彫りのはっきりした貌、少し厚い唇は、夜の光にこそ映える。けれどもちろん、ほんとうに美しいのはもちろん見た目ではなくて、このひとの領域こそがきっとほんとうにどこまでも澄み渡っていて、綺麗なのだ。でもぼくがそれを言うべきじゃないような気がして、ことばが出なかった。

「うん。わかった、大丈夫。がんばるから、あんたもがんばんなさい。応援してるから。女としてじゃなくて、おばさんとして、マサちゃんのこと、やっぱり好きだから」

 エンドウさんはぱちっとウィンクをすると、少し離れていた課長の肩に思いっきり抱きついた。

「課長、今夜は放しませんよ! ちょっといいたいこといっぱいあるんですから」

 いつから聞いてたのか、係長もそれに合わせる。

「せっかくですから僕らだけで飲み直しましょうか」

「えっでも」

「課長、僕もね、ちょっと聞いてほしいことがあるんですよ」

 早くいけ、と係長が振り向いて言った。

「行きましょうか」

 気がついたら石井さんがぼくの腕をとっていた。夏の匂いがした。これ、どこで嗅いだんだろう。覚えていない。でも、不思議と安心できるような気がした。

「いい職場ですよね、ほんとに」

 マティーニに数度くちづけしたコハクさんは、けれど全く顔色が変わっていなかった。ぼくはチャイナブルーを頼んだけれど、もう半分くらい飲んでしまった。

「ウィッグ、暑いんですよ。それとも『石井さん』のほうがよかったですか?」

 コハクさんが少し拗ねた顔をする理由がぼくにはわからなかった。小首を傾げたら満足そうにふふ、とわらった。彼女の指が白く光る。その指がふ、とぼくの右手を触ったので、びっくりして手をどけてしまった。

「ごめん」

「こちらこそごめんなさい。わたしだけじゃないでしょうから。……前々から思ってたんですけど、ヤマダさんってなんでそんなに女の人に近づかれるのとかさわられるのとか嫌いなんですか」

「別に女性に限ったことじゃなくて、他人にさわられるのがいやなだけだよ」

 けれどぼくは、酔っているというのももちろんあるのだろうけれど、すべてを黙ったままでいるということに疲れてきてしまっていた。ひとにさわられるのがいやなのは触覚に対する知覚過敏が原因で、その根本にはADHDが関係しているようだった。だからぼくはできるだけ「単にさわられるのがいや」ということを隠しておきたかった。

 けれど、いまさらコハクさんに何かを隠したままでおけるようにも思えなかった。それは女性ボーカルの曲をそのキーのままで無理矢理カバーするような若手の男性ポップシンガーみたいに、きっとみっともない。

「ぼくは、あなたが思うようなひとじゃないと思う」

「わたしが何を思っているのか知ってるような物言いですね」

 彼女の含み笑いはけっして毒のある響きではなかった。その反面ぼくは彼女のことばをそのまま受け取った。

「ひとは、そのままでは醜いですよ。わたしはずっとそう思ってた。だから、アニメのキャラクターになったり、ウィッグをかぶってコンタクトをつけたり、厚く塗りすぎてわざと失敗したりして全部を隠してるんです。そのままで美しいひとなんかいないし、そのままを愛せるひともまた、いない。ひとさまの前に出る以上は、かならず化粧をしなくちゃ、いけないんです」

「そして、それはひととひととの間だけじゃない。もっとも化粧をしなくちゃいけないのは、自分自身に対して、だ」

「……あなたの文章に惹かれたのは、おそらくその思想が通じていたからだと思うんです。自分を監視して、縛っているのは常に自分自身だということがわかっていながら、それに抗う気力はもうなくなってしまっている」

 自意識過剰だと言われ続けてきた。けれど、その自意識過剰のぼくは思う。みんな自意識が希薄すぎやしないだろうか。そんな自意識で、自分の領域が守れるのだろうか。いや、多くのひとは、きっと領域なんてものすら持っていないのかもしれない。そんなひととはできれば関わりたくなかった。

「自分の世界が、自我が希薄だ、というはなしを以前していました。覚えていないかもしれないですけど」

「覚えてない」

「たしか、『夏の虫』を書き終わったあたりだったと思います。ぼくには自我がない、ほんとうは表現できるようなものなんてぼくの中にはないんだ、って嘆いていました。ずっと、ずっと」

「そうだったんだ」

 不思議なことに全く記憶がない。

「ヤマダさんって、ふつうのひととは全然違う基準で生きてますよね。今のはなしだって、ふつう忘れるはずがないし、まして、ふつう何ヶ月もの間、週に何度もお話ししている相手の顔と名前を覚えていないなんてことありませんから」

「ほんとうにごめん。何度でも謝るよ」

 実はICレコーダーさえ生きていれば一部は聞くことが出来る、とは口が裂けても言えなかった。それにぼくは実際にはもうあの中の音を聞くことはないように思えた。

「いえ、責めてるわけじゃないんです。そういうひとなんだ、って気がついただけで」

 コハクさんはくすっ、と笑った。

 その笑顔がすこし意地悪だなと思ったけれど、言わないでおくことに成功した。

「だからヤマダさんには、はっきりとした自我があるんだと思うんです。でも、ほとんどのひとには自我というものが存在しない。あなたはそれに気がついた。だから、ほかのひとと同じであろうとするために、自我をなかったことにしたかったんじゃないかな、と思うんです」

「それは穿ちすぎだと思うな」

「ヤマダさんはひとと同じように社会の中で溶け込んで生きていきたいんですよね」

「まあ、そうだけど」

「そんなの無理ですよ。社会は無色透明じゃないんです。それなのに透明になろうとしたら、よけいに目立ってしまうじゃないですか」

「そうか、だから君は、色を着けている」

 コハクさんはゆっくりとうなずいた。

 彼女のグラスはいつの間にかウィスキーのロックになっていた。きっと彼女の領域も、この液体の色のようにじっくり燃える琥珀色なのだろう。

 ぼくはチャイナブルーを呷った。青い液体は、冷たくぼくの領域に入っていく。ゆっくりと、少しずつ熱を帯びて。

 聞いていなかったことを思い出した。

「どうして、『ジュエル』に通ってるってわかったの?」

 コハクさんはふふ、と笑った。口元がいつもと違うような気がした。リップが少しだけ、赤っぽいのかもしれない。

「それは、全くの偶然なんです。ヤマダさんが通うより前に、わたしはあそこで働いていたんです」

 つまり、ぼくが同期に連れられてきたときから、コハクさんはあそこにいたのだ。

「ヤマダさんは喫茶店で原稿をされているということでした。でもこの宇佐見にはそこそこそれらしいところがあったんです。それで、そのうちのひとつで働いて、情報を収集しようと思った」

「そしたらぼくの方から転がり込んできたってこと?」

「いえ、最初は気づきませんでした。でも、何度か通うあなたが、たまに原稿らしきことをしているのを見て、なんとなくこの人じゃないかと思ったんです。だからそれとなく話しかけてみた」

 そうか、おそるおそるだったから、気がつかなかったというのもあるのかもしれない。そもそもぼくは、原稿の最中はそれ以外のことなんかほんとうにどうでもよくなってしまう。これはほんとうに、どうでもいいのだ。たとえば食事や炊事洗濯なんかもそうだし、それでも仕事はしなくちゃいけないからするけれど、最低限のこと以外はなにもできなくなる。そんなことよりも先に原稿を書き上げてしまわないと気がすまなくなってしまうのだ。だからよけいに早く書き上げてしまおうと必死になってしまう。別に小説を書きたいわけでもないし、小説を書くために生まれてきたわけではないのに。

「原稿に取り組んでいるあなたも素敵でしたよ」

「え、ぼくが?」

 なんだか妙な居心地の悪さを感じた。コハクさんはぼくの、一番気持ち悪い瞬間を見ているのだ。そして、ぼくも見せてしまっている。

「ええ。とりつかれたように書いていたので。この前も新しいものを書こうとしていましたよね」

「うん、まあ」

 あれはおそらく最初から気が乗らなかったのだろう。コハクさんと会話がきちんとできたのはそれが原因だ。

「あ、先に言っておきますね、好きです」

「ああ、はい、どうもありがとう」

「あの、えっと、小説だけじゃなくてですね。ヤマダさん、あなたが。あなたの存在が、好きです」

「そう。ん?」

 酔った頭の中で急に、身体が何かに引きずられるような感覚があった。どうしようもない違和感だった。絶望的な勘違いをしているような気がする。やめろ、考えるな。

 両肩をすっ、とつかまれた。雰囲気のいいバーで、なにをやっているのだろう。

「もう一度言いましょうか」

 鋭い眼光が何を言おうとしているか、さすがにわかっていた。けれどぼくは考えることを拒んでいた。その意味がわかってはいけないような気がした。

「なんで、そんなに」

「わかるわけないでしょう!」

 正面から怒られてしまった。実は一重まぶたが好きだということに今気がついた。

「わかりませんよそんなの! でも好きなのはたしかなんです。今、ここで、わたしよりあなたが好きなひとなんかいないと思います。うそじゃないですからね!」

「うん、わかった。わかったよ」

「その顔、絶対わかってないですよね。まあ、いいですけど」

 拗ねられても、困る。

 バーのマスターは苦笑していた。そりゃそうだろう。ぼくだって、ぼくじゃなかったら苦笑しているところだ。

「あなたは、わたしが、好きですか?」

 聞かれて、戸惑った。

 ここで「好きです」と返すのが当然、男としての模範で、それでおしまい、めでたしめでたしになるのはぼくだってわかっている。でも問題は、コハクさんは「ぼく」に訊いているのだし、ぼくが「そう」思っていることなんて百も承知だ。そしてそれが受け入れられるはずがないだろうことはここまでの流れからほぼ明らかだ。そもそも、コハクさんはぼくが何を答えようとも、きっと本心が違うところにあることを見抜いてしまうだろう。

「わかりません」

 だから、本心を答えるしかなかった。

「ああ……もう。そういうところですよほんとに」

 コハクさんがくずれおちた。両手がばたばたと震えている。

「そういうところですよ。無理ですほんと無理。つらいですわたし」

「ごめんなさい、傷つけるつもりじゃ」

「大丈夫です傷ついてませんからそれよりここを出た方がいいですよねそうですよね今回はわたしが払いますから次はヤマダさん払ってくださいね」

 彼女は早口でまくし立てるとさっと立ち上がってカードで支払いを終えてぼくを外に連れ出した。

 なにがなんだか、わからなかった。

「ごめんなさい」

 すたすたと歩くコハクさんに引きずられるようについていった。なんとなく謝ったほうがいいなと希薄に考えているので、なんとなく謝っている。

 尋常じゃなく酔っている。彼女も、ぼくも。

「あのですねそんなにあやまるんだったらひとつおねがいをきいてほしいんですけど」

「なんでしょうか?」

「あのたてものとあなたのへや、どっちがいいですか?」

 コハクさんが指さしたのは、宇佐見に昔からある雰囲気のあるラブホテルだった。一泊四千円だったと思う。

 途中からどうやらそういう展開になりそうな気はしたけれど、様子がおかしい。

「冷静になってください」

「いやです」

「困る」

「こまってください。すきなだけ。これからいつでもいくらでもこまらせてあげますから。おしおきです」

 そもそも、金曜日の終電も迫っているこの時間に部屋なんか空いているだろうか。

 今は原稿にかかっていないから、ぼくの部屋は雑然としてはいるもののどうにか招待しても大丈夫なくらいには片づいている。

 と、コハクさんが歩き出した。

「もういいですわたしがきめます」

 逆の提案をしたところでもう遅いし、意地でもそれを通そうとするだろうから、ぼくは抵抗するのをあきらめた。

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