8
雨が降っていた。
あの日の夢だった。
睡眠薬を飲むとほぼ必ずといっていいほどあの日の夢をみる。寸分違わず同じ映像が流れる。そこから先、ぼくはよく覚えていない。彼女はあの日から消えてしまった。生きているのか、死んでいるのかもわからない。
ぼくはあの日から女も、男も嫌いになった。性行為が、セクハラが許せなくなった。それは犯罪と同じだ。人間の領域を支配するという行為は、殺人も同じだ。死刑にすべきだ。そう思っていた。思っていたけれど、同時にぼくも加害者で、だれかを犯しているのだと気づいてぼくの領域は分裂した。
結局ぼくの思想は公的機関にすら受け入れてもらえなかった。ストラテラを飲んで、鞄に筆箱だけ入れる。境界が明瞭ではなかった。領域がぼやけていくことに安心しながら、色が付いていくことを許せなかった。
気がつけば外は灰色で、静かだった。
係長にメールして病院に行くべきだと思った。何も見えないし聞こえない。領域だけがたしかに存在している。境界をぼやけさせながらもぼくの領域はいちども消えることがなかった。
係長から返事はない。
家の前のバス停から病院へ向かった。
「ストレスが出ちゃったんだろうね。そもそも今年から働いてるわけだから、この夏も不安定な天気だし、そろそろかなあと思ってたんだ。二、三日安静にしていれば戻ってくると思うよ」
大塚先生はいつもより優しかったと思う。ぼくはそこまで参ってしまっていたのか。素直にそう思った。雨は強くなる一方だった。もちろん「ジュエル」に行く気力もなかったし仕事にいくつもりはもちろん起きなかった。雨音がとおく遅れて聞こえてくる。宇佐見の景色が薄い。そこにいるぼくもきっと薄いのだろう。薄い人間が自分のことしか考えていない小説を書いてそれが何か世の中に価値をもたらしただろうか。きっと何ももたらしてはいないのだろうと思う。だからぼくの小説はいつまでたっても値がつかない。つけなくてはいけないと思っていて、けれどつかないことがわかりきっていた。これだけの小説をネットに流してSNSでじゃまにならない程度に告知もしてオフ会があれば形だけでも出て、みたいなことをずっとやっていたのにだれも声をかけてくれなかったのだから。
そんな小説をコハクさんは好きだと言った。書き手をほっておけなくなるくらいに。信じられなかったし、実は今になっても信じられてはいない。それは矛盾した思いだけれど領域のなかに併存していた。他人に認められようと書かれた小説なんて意味がないのに、ぼくは認められようとして小説を書いていた。つまり、ぼくの小説には価値がないとぼく自身がだれよりも思っていた。価値がないものを披露してどうしようというのだろう。どこかでそう思っていたとしても、ぼくはサイトに掲載することをやめなかった。それはつまり、だれかに読まれてほしいというただそれだけの、それだけだからこそ純粋な、ぼくのほんとうの気持ちだったのだろう。だってぼくの領域はひとつじゃなくて分裂しているのだから。引き裂かれて境界の定まった領域はお互いを激しく攻撃する。だからぼくはそれをぼやかすしかなかった。
しいて言えば、それがぼくの生き続ける理由になるのかもしれなかった。社会のために生きるというのもうそではない。けれど、ぼくがここまで生きてきたほんとうの理由というのは、ぼくがだましだまし生きていること、そのものにある。それは、きっとコハクさんも、係長も、チーフも、課長も、先生もダイヤさんも一緒だろう。だからぼくは生きなければならなかった。自分の小説も、消えてしまった彼女も、払わなければならない税金も、飲まなきゃいけない薬もすべて背負いながら。
視界が薄く、ぼんやりとしていた。
それでもぼくは、生きなければならなかった。世界中でたったひとりのような気がしていたし、事実そうだった。それでもぼくは、生きなければならなかった。
だからぼくは、生きていく必要があった。
「今日は休め。明日また連絡してくれ」
係長からメールが来たので、ぼくはゆっくりと眠りについた。
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