オオカミがきた

坂崎かおる

 

 むかしむかし、ある村に、少年がいました。歳は青年と呼ぶにはいくぶん幼いものの、聡明で賢明な子供でした。しかし、そのような少年が踏む轍として、やはり彼も少々高い自尊心をもっていました。そのため、時々は両親や村人からやっかまれることもありましたが、そうはいっても村人たちは少年のことが好きでしたし、少年も村のことを大事に思っておりました。

 少年と同年代の子供はたまたま村にはいなかったため、なかなか彼に与える仕事というものはありませんでした。力仕事をさせるにはまだひ弱で、かといって子供のお守りをしろというのも少年の性格にはあっていません。そこで、村人たちは、少年に羊の番をさせることにしました。

 少年の仕事はいたって単純で、大人の羊飼いと共に早朝に村の裏手の小さな山に登り、羊たちを見張りながら、時々は日陰で休ませたり、はぐれた子羊を探したりして、そしてまた小屋に戻る、という一日を、毎日繰り返すものでした。少年は聡明でありましたので、この羊飼いの仕事の内容をすぐに覚え、山にいる間は彼だけで羊を見るようになりました。羊飼いは少年の聡明さを称え、自身は自分の野菜畑を耕したり、冬に向けて羊毛の刈り取りの準備をしたりしていました。

 やがて少年はこの仕事に飽いてくるようになりました。聡明な少年にとって、羊の番をするという仕事は、少々単純に過ぎたのです。しばらく彼は、羊と共に山を歩いて、羊が草を食む最適な場所を探したり、山陰で休みながら下る効率の良い道のりを作ったりしていましたが、そのような作業もすぐに終わってしまいました。端的に言えば、することがなくなってしまったのです。

 ある日、あまりにも単調な毎日に嫌気のさした少年に、悪戯心が芽生えました。山とはいっても丘のような小さなものですので、中腹からは村全体が見渡せます。少年が叫べば、小屋にいる羊飼いだけではなく、他の大人たちにも聞こえることでしょう。彼はこう叫びました。

「オオカミが来たぞ!」

 その声は思ったよりも遠くまで響き、血相を変えた村人たちがわらわらと家や畑から出てくるのが見えました。鍬や鋤を抱えた男たちがいれば、赤ん坊をしかと抱えて扉を閉める女たちもいます。一番最初に駆けつけたのは羊飼いで、その後に男たちが羊と少年の元へ押し寄せました。

「オオカミはどこだ?」

 男たちは少年に訊きました。少年は涼しい顔をして、小高い山のてっぺんを指しました。

「あそこに逃げていったよ」

 おうと声をかけあうと、男たちは山の頂上を目指して進んでいきました。少年は彼らの後姿を見送り、困ったことになったという気持ちと、予想以上に大人たちを動かせた優越感が入り混じり、曖昧な笑みを浮かべました。

 半刻ほどして、もちろん、男たちは手ぶらで戻ってきました。

「オオカミはいなかったぞ」

 どういうことだ、と少年に問い詰めたかったのでしょうが、男たちは戸惑ったように顔を見合わせるだけでした。何といっても、村人たちは少年のことを大事にしていたのです。

 それから何日かして、少年はまた叫びました。

「オオカミが来たぞ!」

 やはり今度も男たちがわらわらと山へ集まり、女たちは家の中へ身を潜めました。そして言うまでもなく、手ぶらで帰っていきました。今度はさすがに、少年の顔をじろりと睨む大人たちもいました。少年は、やり過ぎたという気持ちもありましたが、それでも声一つで駆けつける大人たちを滑稽に感じていました。

 その夜、少年は両親からたしなめられることになりました。嘘はよくない、冗談だとしてもよくない、見間違えだとしても本当にオオカミだと確認してから叫びなさい、そんなことを両親は話しました。少年は聞きました。

「でも僕はオオカミを見たことがないんだ」

 それは果たしてそうでした。少年はオオカミを一度も見たことがなかったのです。「だから、どうやってそれがオオカミか確かめることなんてできないよ」

 そんなことかと、両親は呆れた顔をしました。家長を代表して、父親が話し始めました。

「オオカミは大きな獣だ。とがった耳が二つ、眼はギラギラと血走っていて、何より目立つのは大きな口とその牙だ。羊だけじゃない、お前だって食い殺されてしまうよ」

 神妙に少年は父親の話を聞いていましたが、こう聞き返しました。

「色は?」

「色?」

 意表をつかれた質問に、父親は少しうろたえました。

「何しろ山は広いんだ。色が分かれば、遠くからでもすぐに見分けられるよ」

 父親は記憶をたどるように、「確か灰色とか黒とか、そんな色だったはずだ」と答えました。少年はそれでは納得せず、「柄はないのか」とか、「他の色のオオカミはいないのか」など矢継ぎ早に質問し、最後はとうとう父親を怒らせてしまいました。

「俺だって本物は見たことないんだ。そんなこと知るわけないだろう」

 これには少年はがっかりしました。訳知り顔で語る父親も、実際にオオカミを見たことはないのです。横で聞いていた母親も、父親に話を振られそうになると、慌てて首を振っていました。

 少年は聡明でしたので、次の日からは、羊の番の仕事の合間を縫って、色々な大人たちに「オオカミ」のことを聞いて回りました。

「ありゃあ、俺がガキのころだったよ」

 そう話し始めたのは羊飼いの男です。「俺の親父も羊飼いだったんだが、ある晩、青ざめた顔でうちに戻ってきてな。冬の日だったんで、小屋で夜なべをしてるはずだったんだが、オオカミが来たというんだ。お袋と一緒に俺も見に行ったんだが、柵が壊されて、一匹も羊はいなくなってた。恐ろしかったね」

「羊は食べられてしまったってこと?」

「いや、どうだったかな」羊飼いは言いました。「俺も記憶が確かじゃないんだが、そういや、食べられたのかどうかはよくわからないな」

 少年の兄嫁は、自分の父親の話をしてくれました。

「私の父さんがね、母さんと結婚する前、村の近くの森でオオカミに会ったんですって。父さんの体の二倍ぐらいあって、すごい唸り声をあげて、今にも襲い掛かってきそうだったのに、父さんが持ってた鎌を構えて、ぎっと睨みつけてやったら、オオカミが逃げていったって、母さんが言ってたわ」

「だから義姉さんのお母さんはお父さんと結婚したの?」

「そうね、母さんはそう言ってたわ」

 聡明な少年は大人たちの言を訝しみました。羊飼いの話で事実なのは柵が壊され羊が逃げていったことだけです。オオカミが本当に壊したかどうかは定かではありません。むしろ、何かの不注意で羊飼いの父親が羊を逃がしてしまい、その言い訳に「オオカミ」が使われたようにも思えます。また、兄嫁の話も、ただの武勇伝のほら話にしか聞こえず、せいぜいイノシシぐらいだったのではないか、と少年は思いました。いずれにせよ、彼らが「オオカミ」を直接見ていないことは同じです。

 色々な大人に聞いて、「オオカミ」について共通していることは、

・大きな獣だということ

・凶暴であること

・羊や人間を食べるかもしれないということ

 ぐらいでした。色や体長、出現した年や日時、そう言ったものの確実な証左は何一つなく、自分が見たというわけでもなく、誰かが見たり出会ったりしたという伝え聞きの話だけで、そして最後に決まって「だからオオカミは怖いんだ」と締めくくるのでした。

 最後に少年は、村で一番長生きの、村長の父親に話を聞きに行きました。

「オオカミ?」

「そう! オオカミ!」

 村長の父は耳が遠く、叫ぶように言わないと少年の声が届きませんでした。

「ああ、見たことあるよ。子供の頃だ」

「子供の頃!?」

「そうだ」少年の大声に、村長の父親は頷きました。「わしは子供のころは隣の村にいたんだが、そこでオオカミに食い殺された羊たちを見た。あれは無残だった」

「それで、オオカミは見たの!」

「ああ」

 自信たっぷりに頷いた村長の父親ですが、次の言葉は少年をがっかりさせました。「わしが見たときにはもう、森の奥へ消えていくところだったよ。大きな影でな、荒い息遣いが今でも耳から離れんよ」

 どうしてそんな遠くの姿から「荒い息遣い」がわかるのか少年は聞こうとしましたが、興奮した様子の村長の父親の様子を見てやめにしました。しかし、ひとつわかったのは、どうやらこの「オオカミ」の話の元は、隣の村まで辿れそうだということです。

 少年にとって幸運なことに、村の収穫祭に向けて、供え物を隣村まで運ぶ仕事がありました。少年は自らその役を買ってでました。手押し車を引きながらですから一日仕事ですし、大人たちは面倒な仕事を少年が引き受けてくれたことに感謝していました。

 翌日、逸る気持ちを抑えながら、少年は隣の村に向けて出発しました。天気の良い日で、道中も難なく進むことができたのですが、やはり子供の力では時間がかかってしまい、隣の村に着いた頃には、もう日が暮れかかっていました。少年はその村に叔父夫婦がいたので、彼らの家に泊めてもらえることになりました。

 早速少年が、村長の父親が言っていた「オオカミ」について叔父に水を向けてみると、彼は少し困った顔をしました。どうやら、子供には聞かせたくない話のようです。そこを頼みこむと、少年の両親にはくれぐれも秘密だということを約束させた上で、叔父は話し始めました。

「お前の村の村長の父親が見たのは、きっとあの家の長兄だ。昔あった戦争で心が壊れちまってな、ある日自分の家の羊を全部殺して、森へ逃げて行ってそれっきりだ。あの家じゃ、それをオオカミの仕業ということにしたんだろうよ。こっちの村じゃ、誰も話さねえが、俺たちぐらいの歳のやつらならみんな知ってることだ」

 なるほど、と少年は思いました。村長の父親の話が、少年の村では年月を重ねるごとにどんどん膨らんでいき、恐ろしい「オオカミ」を創り上げていたのでしょう。わかってしまえば単純なことです。少年は呟きました。「じゃあ、オオカミなんていないんだ」

「いや、オオカミはいるよ」

 少年の言葉を、叔父は笑いながら否定しました。まるで、太陽は東から昇るとでも言うように。「俺のじいちゃんの話なんだがな、ある日……」


 翌朝、少年は空になった手押し車を引きながら、オオカミについて考えていました。

 隣の村でも、「オオカミ」の話は少年の村と似たようなものでした。誰も見たことはない。でもみな知っている。その恐ろしさを詳しく語ることができる。必要とあらば姿かたちを克明に描いて見せることだってできるだろう。でも、誰も見たことがない。

 聡明な少年は、現在の結論として、この「オオカミ」を仮想の敵だと見做しました。幸いにして少年の住む地域はしばらく大きな争いがありません。村の人々はみな、領分を守り、小さいながらも自分の田畑を耕し、羊を育て、時には大きな町まで売りに行き、それで幸せに暮らしていました。そのささやかな幸せの理由の一つに、「オオカミ」の存在があったのではないか、少年はそう考えました。

 思えば村では、「オオカミ」の襲来に常に備えていました。柵を頑強にし、わなを仕掛けるだけではなく、時には他の村と通じ合い、「オオカミ」がどこそこで出たとか、今度はこっちにやってくるらしいとか、情報を交換し合うことで、いつでも戦える態勢をとっていました。「オオカミ」は恐ろしいからです。「オオカミ」は憎いからです。仮想の敵は次第に凶暴で残忍になり、人々の心に火をつけます。けれども、そのために、人々は同じ方向を見ることができます。人々は手を取り合っています。人々の敵は外にいるからです。「オオカミ」のおかげで、人々は団結し、戦っていけるのです。

 少年は行きよりもだいぶ早く、昼前には自分の村に着くことができました。そのため、家で休憩していると、羊飼いから山の羊の様子を見に行くよう頼まれました。

 羊はいつもの通り、のどかに草を食んでいました。少年は木陰に腰を下ろし、道中考えてきたことを整理し始めました。少年が叔父から聞いたことを村の人に語るのは得策ではない、そう彼は思いました。その話を明るみに出したところで、誰も喜ぶ人がいないからです。まして「オオカミ」が存在しないかもしれないなんて話は、村にとって何の利益にもなりません。ただ。少年は考えました。本当にこの状態が最適解かどうかは思案のしどころだ。少年はそう思いました。「オオカミ」がいたところで、村の中でも小さな争いはあるし、隣村と収穫の分配で揉めることはあります。ましてや昔あったような大きさ戦争があったらひとたまりもありません。自分が大きくなったら、もっと別の方法で村をまとめることが必要だ、少年はそんなことを考えていました。どんな方法かはまだわかりませんが、少年には自信がありました。なぜなら、少年はやはり村のことが大切だったからです。

 ふと、羊たちが静かになっていることに少年は気が付きました。鳴き声ひとつ立てず、全ての羊が、少年の背後を見つめています。黒い垂れ下がったいくつもの目が、少年を通り越した向こうに視線を注いでいます。少年は体ごと振り向きました。そして、自分のうしろにいた存在を、ようやく少年は認めました。

 オオカミだ、、、、、

 少年は思いました。オオカミだ、、、、、

「オオカミが来たぞ!」

 少年はそう叫ぼうとしました。しかし、声は出ませんでした。「それ」は、少年にはオオカミに思えてなりませんが、やはり、みなが語るオオカミとは違うからです。「それ」はオオカミに似た何かでした、、、、、、、、、、、、

 オオカミじゃない、、、、、、、、オオカミなんかじゃ、、、、、、、、、ない、、

 オオカミに似た何かは、少年の横を、静かに通り過ぎました。草を踏む音すらしません。荒い息遣いも、獣臭いにおいも、何も感じませんでした。やがて、少年の背後で、音が聞こえ始めます。羊の肉をちぎり、骨を砕く音です。羊たちは黙ったままです。少年は必死で考えていました。「オオカミ」に代わる名前を。この恐ろしい何かをみなに伝える名前を。しかし、少年の頭の中は空っぽでした。少年は、村人たちに叫ぶ言葉を失ったままでした。

 音はまだ、聞こえています。

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オオカミがきた 坂崎かおる @sakasakikaoru

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