夏休みだから泳いだ
草森ゆき
とてもいい気分だった
なんで夏休みがあるのか不思議でたまらなかった小学一年生の頃、親にどうして明日から学校にいちゃいけないの? と空気の読めない質問をして、空気の読めない息子の親はやはり空気を読む能力がそう高くなく、お昼準備するのたいへんだから学校に行ってほしいんだけどねえ、とのほほんと返してきた。僕の質問は溶けた。夏に。この暑い季節に。
年齢が上がると学校がないほうが良くって、僕はおおいに夏を楽しんだ。蝉の声、青くてきれいな空、明るい地面と暗い影、どれもとても好きだった。僕は家を出て泳いだ。部屋が二階だったし、窓から直接泳ぎに出た。
近所の家を見下ろしながら泳いでいると、夏休み最高! の気分が高まった。夏の暑さは液体だった。ぬるい空気の中を泳いでいると、母親にゆがかれたほうれん草を思い出した。いつも遊ぶ公園の上を通りがかる。と同時に、同級生と出会った。北区住まいだったはずで、僕は中央区で、公園も中央区だから、ずいぶんクロールしていたようだった。
「マジで暑くない?」
同級生はぐるりと回って立ち泳ぎの格好になった。シャツの裾が魚のひれみたいにふわふわしていた。
「てかここ、中央区? けっこう来ちゃったな、気付かなかった」
「あー、泳いでるとどのくらい泳いだかわからなくなるよね」
「そー、特に下見てるとさあ、いろんな色の屋根とか、そこだけ緑色の神社とか、建設中の家とか、景色が違うから楽しくって」
「夏休みで良かったよ、ほんと」
「ね。普段はうちら、学校にこもりっきりだしね」
うんうんと頷いて返し、緩い温度の空気を一度掻く。空気は透明に揺らぎ、僕と同級生の髪をゆらゆら揺らした。
学校があるとやっぱり不自由だ。子供は夏休み中しか泳いではいけないし、大人は大人になると泳げなくなるし、なんだかとても不自由なのだ。夏なのに、もったいない。
僕たちの下を電車がぬるぬる滑って行った。それを皮切りのように同級生は立ち泳ぎをやめ、足を翻して背泳ぎの形になった。さすがに泳ぎ疲れたらしい。もう行くよと声をかけ、西区の時計台を見ようかと泳ぎ出したが、背泳ぎ状態でついてきた。
「ついてくるのかよ」
「あー、まー、それも半分あるけどさあ、近くで泳がれると、空気が混ざるんだって。だからこう、楽で。ちょっと足動かすだけで進めんの。悪いんだけど、このまま西区まで一緒に行くわ」
「なんで西区ってわかるの」
「え? だってあんたすぐ時計台観に行くじゃん」
ばれていたので降参する。ラッコみたいにふわふわついてくる同級生と、冬休みは寒いから泳ぎにくい、秋休みがないのが解せない、春休みは花粉症にはつらいとどうでもいい話をしながら、ぬるま湯のように蒸した空気を足と掌で掻き混ぜた。
途中でお互いに息切れを起こして、多少の限界を感じた。比較的楽な平泳ぎに切り替えて速度を落とし、どうにか進めば西区の端に辿り着いた。
開けた場所に建つ赤色の時計台が、僕たちを真っ直ぐ見つめていた。
同級生は背泳ぎの形のまま、さっと横目を滑らせた。
「赤い針ってかんじ」
「西区の上にいても下にいてもどこから見ても、ちゃんと時間がわかるように作ったらしいよ」
「中央区の癖によく知ってんね」
「好きだからね、時計台も、夏も、泳ぐのも」
へー、と言ってから、
「空見ながら泳ぐのもいいよー、どこまでも行ける気になれる」
視線を上に戻した同級生をつい追った。
すとんと晴れた青空の向こう側に、真っ白な入道雲が迫り上げていた。
「ただいまぁ」
開けっ放しの窓からぬるっと平泳ぎで入室する。部屋は外よりも静かで、特に返事はない。母親はいるはずだったけど、テレビでも見ているのだろう。
なんとなく、そのほうが良かった。床に着地し、僕は窓辺に向けて手を伸ばす。
「どうぞ入って、女の子が来るのは初めてだけど」
「あはは! おじゃましまーす」
同級生は元気よく挨拶をしてから、僕の掌に指を乗せた。握るとちょっと濡れていて、着地と共に離したけれど、なんだかとても不自由だった。
こうやってひとつずつ不自由になって泳がなくなるんだろうなって、乱れた髪をせっせと直してはにかむ彼女に照れながら、大人の事情をほんの少しだけ僕は知る。
泳げる夏はきっと短い。
夏休みだから泳いだ 草森ゆき @kusakuitai
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