音楽にきこえる

東風虎

音楽にきこえる

 浅い眠りはより深く、沈みこんだとたん静けさに妨げられた。カーステレオから鳴る音楽が途切れたのだ。すこしだけ瞼をもち上げた、その隙間を真昼の光にこじ開けられる。目の前は赤信号、直交するバイパスを絶え間なく流れていく車で向こうは見えない。

「起こした?」

 低くて少しざらついた声。それとともに視界の右端で動く、唇のラズベリーみたいな鮮やかさに視線を奪われて、べつに、というあいまいな返事も少し遅れる。軽く首をかしげれば、肩口で切り揃えられた黒髪がやわらかく垂れる。日光のためか細められた目は、こちらの視線にぶつかるとすぐに逃げてしまう、──信号が青になったのだ。僕もあわせて前を向いた。

 アクセルが踏み込まれて、景色が動きはじめる。晴れたね、と動く赤色を、今度は視界の端にとらえる。かといって目の前に注視するでもなく、左を流れる景色にも意識を配っていると、この身体は動かずに道の上を滑っていく、そんな錯覚にとらわれた。

「きらいでした?」

 口を開くと、声はひどく唐突にきこえた。僕は窓際に膝を置いて頬杖をつくと、左へと顔を背ける。

「……なにが?」

 さっきよりも少し高い、声は視界の外から聞こえて唇は目に入らない。車は一人で歩く背中を追い越した。派手な柄シャツを着た背の高い男、どこからどこへいくのか検討もつかない。

「さっきの曲のことです」

「あ、音楽? 勝手に止めてごめんね」

 べつに、と呟きながら、右手はいつの間にか膝の間のスマホを握りしめている。意味もなく撫でる電源ボタンの段差の感触が親指に焼きつく。

「なんかねー、ちょっとやになっちゃって」

「いや?」

「ピアノが指っぽいっていうか……なんか、べたべた触られてる感じ」

 指っぽい。口の中で繰り返した。交差点に差し掛かった、車はふたたび赤信号につかまる。頬杖をくずして首をシートに預ければ、視界の右端に今度は淡い青色がちらつく。ハンドルの上で規則的に跳ねる、人差し指のネイルカラー。そのまま露わな二の腕の白さへと吸い寄せられた視線を、

「んー、」

という声で咎められたような気がして、僕は咄嗟にまた左を向いた。

「まあ。気にしなくて良いから……」

 そう茶を濁されて、会話は止まる。信号が青に変わって車は右に曲がり、まっすぐな大通りを進んでいく。幅の広い左右の歩道には天蓋まである。並ぶドラッグストア、カフェ、書店、カラオケ、和菓子屋、服飾店の前を、歩いている人影は走る車の窓から見れば立ち止まっているみたいだった。時速二十四キロあたりを示す、赤い針に視線を落としたまま、僕は沈黙を破る。

「きのう、言ってたのと関係ありますか?」

「……きのう?」

 視線の一瞬こっちを向いたのがわかって、

「街の形がわかるって」の声がうわずって唾を飲み込み、「雨の音で」

「……そんなこと言ったかなあ」

 不自然な間をごまかす、軽い調子の声で、わざとらしくつり上げられた口角とえくぼが見なくても見える。僕は窓の外を見たまま言葉を続けた。

「言ってましたよ」

「えー。なにそれ」

 話が途切れ、カチカチと、細い路地へと入るのに出したウィンカーの音だけ虚ろに響く。スマホを手放して、両手の指を膝の上で固く組んだ。

 いつのまにか視線はまた右へと吸い寄せられている。目尻から跳ね上げたアイラインに強調された切長の目は、まっすぐ前に向けられている。一瞬ハンドルを離れた右手が、顔にかかる横髪を払う。ウィンカーの音が止み、大通りの騒がしさを離れ、細い道をのろのろ通るからエンジン音もおさまって静けさが続いた。それも大通りに合流する交差点にさしかかって終わりそうだ。白い腕が左へとハンドルを傾ける。目線は変わらず進行方向に向けたままで、唇が開いた。

「ごめんね」

「……ごめんねって――」

「ね、なんか流してよ」

「え……」

「静かなのも嫌になっちゃった」顔は前を向いたまま、目線だけこちらに向けられる。「あ、うるさくないやつね」

 黙ったまま、ロックを解除したスマホに視線を落としアプリを開く。車はまた大通りをまっすぐ進んでいく。Bluetoothで繋がったカーステレオから、打ち込みのドラムに導かれ、細かく切り刻まれた歌声と、音の輪郭も曖昧なシンセサイザーが響きだす。

「いいじゃん」

 ひとりハンドルからはなれた左人差し指が、合わせてリズムを刻みはじめた。車が通って行くのはさっきと似たような歩道だが、それを車道から隔てる低い植え込みからは何本もの街灯が生えていて、一定の間隔で窓のそばを通過していく。それはこの曲とは違うリズムを刻んでいる。

「あのさ」

 声に応えて右を向く。車は赤信号につかまって止まった。今度ははっきりとこちらを向いていた。こう言った。

「人の気持ちとかわかるわけじゃないからね」

 分かっても言われた通りしないし、と笑う。黒目の境が見えなくなるほど目が細められる。信号が変わり、ふたりして前を向く。少し間を置いて、なんか、と声は続けたが、喉に違和感があったのか咳払いを挟んで言い直した。

「なんかそういう気分だっただけ」

 そうですか、と相槌を打って、また左へと顔を背ける。窓の外ではまた街灯が一つ通り過ぎる。サンプリングされたキックが調子良くリズムを刻む。噛み合わない。ただ、その二つが一致するような車の速度もあるのだと思う。

 駅へと向かう、まっすぐな大通りを車は静かに進んでいく。いつのまにか空は曇りはじめていた。やがて三つ目の信号につかまると、彼女は左手をハンドルから離し、横髪をかき分けてこめかみに中指をあてて、呟いた。

「──のみすぎたかな」

 返事はしなかった、否定する言葉がなかったから。

 少なくとも、昨夜の部屋のテーブルには、チューハイが三本にビールが一本並ぶことになった。その前にバーでどれくらい飲んでいたのか知りもしない。それでも頷くこともまたしなかったのは、覚えてほしかったからなのかもしれない。

 午後十一時とも午前三時とも、わからなくなるまで、ずっと目を閉じたまま眠らないでいた。ベッドの中のもう一つの身体は、この胸に耳を当てるようにして眠っている。その汗ばんだ背中、脇腹、腰へと恐る恐る、でも絶え間なく指を這わせる。肌のなめらかさは触れるそばから溢れていくようだった。忘れてしまうことよりもただ、覚えていられないことが怖い。

「あ」

 不意にきこえた声に指は止まった。胸からふいに身体の重みが消える。目を開くと、起き上がった上半身がカーテンの隙間からさしこむかすかな光に晒されていた。顔は見えない。部屋の中がまっくらなうえ、こちらからでは少しだけ逆光になっていた。

「ひくいんだ」

 言葉は続く。ただ、ほとんどため息のようなその細く頼りない声は、バーで話し合ったときの落ちつきともこの部屋で上げた声の素っ気なさとも一致しない。その身体は突然、誰であるよりもまずそこにあって光を遮るただの影として迫ってくるかのようだった。

 寝返りを打って自分も体を窓の方へ向けると、ひくいって、とたずねた。そのふるまいは思いがけないほどに優しくてみずから戸惑ったが、影は当然のようにそれに応えた。

「たてもの。建物がひくいの」眠気のせいか、喋り方もたどたどしい。この幼さにつられたのだろうか。「ここらへん、もう、ずーっとあっちまで」

「建物」

 ──建物? 窓に目をやるが、カーテンはかすかな隙間だけ残して閉まっている。その向こうのすりガラスの煤け方も思い出した。下の車道を通る車でさえ影がみとめられる程度だったはずだ。

「急に、どうして」

「……おと」

 音。口の中で舌を転がすように、聞こえたことをただ繰り返した。息を吸いこんだ胸がかすかにふくらむのが見えた。影の輪郭をなぞるように見きわめながら次の言葉を待った。

「雨音が違うの」

 雨、──言われてはじめて、降っていることに気づいた。激しくもなく、風もおそらくないからずっと一定の、さあさあという音はそう言えばさっきからずっと耳に張り付いていたけれど、空調か何かの音かと勘違いしていたか。それを告げた、声はか細いままだったが、口調は打って変わって明瞭で、その唐突さによってか過剰にきこえた。沈黙で続きを促すと、胸がまた少し膨らんで、ゆっくり空気を吸い込むのも聴こえた。こう続いた。

「雨粒はそれぞれ、落ちてきた高さは同じでも、どこに落ちるかで、ぶつかったときの音が変わる。高い建物に落ちる雨は、やわらかい。……落ちはじめてすぐぶつかるから、そのぶん。たとえば、だから東京の雨は静かだった。……」

 ここは逆だね、と笑う気配とともに口調が緩んで、影はゆっくりとまたベッドは倒れ込んだ。背中に胸を押し付けるように身を寄せる。背中の冷たさがこちらへ移ってくるのを感じながら、どちらともなく脚を絡めた。肌とシーツの擦れる音が耳に鋭い。それに紛れて声を聞きのがさないように、互いの身体の位置が落ち着いてから、そっとたずねた。

「聞こえるんですか。それが」

 その問に対する返答はなかった。ただゆっくり息を吸って吐いているのが背中から伝わる。あきらめて目を閉じると、左手はごそごそと、妙な熱を持ってしまった掌の所在をさがしはじめる。少しして、なにか声がした。けれどそれはシーツの音に紛れてしまった。なにか言ったのはわかった。胸骨のふるえが左手に伝わった。

 思わず、えっ、と問い返す。すると、腕の中の体はまたうごめいて、シーツが騒ぎだす。あわせて仰向けになった僕の胸に、今度ははっきりと耳を押しつけてくる。そして何かをつぶやいた。さっき言ったのと同じかはわからなかったし、質問の答えともとれなかったけれど、そのほとんど吐息みたいな声は、こう言っていたように聴こえた。

 ──とおくまで来た。

 あとは雨音を聞いていた。


   ***


「——えそれいつの話?」

「一回生んとき。……五月?」

「その後は?」

「あとって」

「会ってないの?」

「会わないよ。会えないし。ラインもなんも交換しなかった」

「ほんとかね」

「え、なに。スマホ見る?」

「えー、……まいいや。隠されたらわかんないし、どっちにしろ」

「またそういう――」

「えーごめんごめんうそうそ冗談だって」

「んー……」

「──失礼しますご注文お伺いします」

「あ、えっとーレモンハイひとつ」

「コーラ」

 かしこまりましたと言い残した店員は、だし巻きの乗っていた長方形の、少量の大根おろしだけ残った皿とともに立ち去った。まだ早い時間だから左右の個室にも客はいないらしく、静かにしていると奥で立ったまま話し合うアルバイトの声ばかり聞こえてくる。僕はほとんど氷しか残っていないジョッキに口をつけた。美里は複雑な形に折り畳んだ箸袋をテーブルの隅に追いやると、

「でもさあ、信じてもらえると思う? 自分で言ってて」

「……まあ」

「ヘンな話」と言って笑った。「でも、おもしろいね」

「なにが?」

「雨の話。言われてみれば、落ちてくる距離で音も違うんだ」

「ああ……うん」

「でもそんなん聞き取れるんかあ。耳いいとそうなんのかな」

「そういう話だったけど」

「うるさそう……」

 会話の切れ目を見計らってか店員が戻ってくる。目の前に置かれたレモンハイのジョッキを美里は両手で持ち、勢いよく傾ける。その様子を見ながら僕は話を続けた。

「小さい音は聴こえないって」

「ん?」美里はぱっと目を見開いてジョッキを置いた。「なにって」

「小さい音が大きくは聴こえないんだって。聴こえた音の細かいところがわかるだけだって……、言ってたと思う」

「……それってどう違うの?」

「えーっと。……良いカメラでさあ、画素数が高くて綺麗に撮れるからって、遠くまでピントが合うわけじゃない、……みたいな」

「それは言ってたの?」

「ううんいま考えた」

「なんだ」

 美里は笑ってまたジョッキを傾けた。

「なーんか、でもちょっと安心したかも」

「なにが?」

「そんだけなんでしょ、結局」

「まあ」

「まあって?」

「あ、いや」焦ってうなじに右手が伸びる。美里に散々指摘された癖なのにまだ治らない。「そんだけそんだけ。そのあと美里と会って今に至る、おわり」

「んー」

 不満げに俯くと、美里はから揚げを二つ一気に口に運んで頬を膨らませると、絵に描いたようなへの字口をつくると思案顔で顎を動かしはじめた。ぼくにさんざん指摘された癖なのにまだ治らない。最後にはレモンハイで流し込むと、眉間にしわを寄せたまま、空になった口を開いた。

「……そしたら結局、あたしだけめっちゃ話しちゃったな、なんか……元カレのこととか。後味悪くない?」

「いや、でもまあ、聞けてよかったよ」

「ええ?」

「ああ、いや」うなじに伸びかけた右手を下ろし、「知れて悪いことないと思うから」というと、

「そうかなあ」美里はまた箸の先を唇に寄せたが、「まあ、そうか」と呟くとすぐに、次のから揚げに箸を伸ばした。


   ***


「雨もね」

 彼女は左手をハンドルに添えたまま、右肘を窓の傍におくと、外を眺めたままつぶやいた。ぼくは咄嗟に流れていた音楽を止める。駅の近くの交差点で渋滞に捕まった車はさっきからずっと、そこでだまって雨に降られ続けていた。

「こんだけ近いと、一粒一粒ちがうんだよ」

 不規則に落ちてくる雨粒はフロントガラスを埋め尽くすほどの勢いはないが、一粒一粒がたしかな音を立てて円く潰れてはワイパーに取り除かれる。僕は返事もしないでそれを見つめていた。

「雲の高度とか、形とか、落ちてからここまでどういう風を受けたかとか。一個一個違うの。その全部がわかるわけじゃないけど、違うことはわかる。まっすぐ落ちてきたのなんてひとつもない」

 夜とは違いよどみない口調だったが、声はまた、雨音にまぎれそうなほどか細かった。雨音の中からそれを聞き取ろうと耳を澄ませば、彼女の呼吸はおろか、声とともに吐かれた空気の流れさえ聞こえてしまいそうなほどだった。僕はまた相槌を打つタイミングを逃した。

 ふたりして押し黙ったまま、外では雨脚が強まりはじめる。そういえば、僕が彼女とは二度と会わないだろうことに思い至ったのはそのときだったような気がする。やがて前の車がゆっくりと動きをみせると、彼女は長い息を吐いた。いつまた止まるとも知れないが、車はのろのろ進みはじめる。そして彼女は、肺に残った僅かな空気を、また息とも声ともつかない音にして吐き出した。

「そういうもんだよ」

 ワイパーが動いて、フロントガラスはもとの明瞭さを取り戻す。けれどそれも束の間、最初の一粒はちょうど真ん中あたりに落ち、ゆっくりと垂れてから、またワイパーに吸い込まれていく。

 いつの間にか、それをじっと見つめていた。左に目をやると、美里も同じようにそれを見ている。また唇はへの字に折れ曲がっている。何か新しく考えているのか、僕の知らないことを思いだしているのか。

 信号はまだ変わらない。何に合わせるでもなく、ハンドルを握った右手の人差し指でリズムをとる。二粒め、三粒め、ワイパーが動く。

 ――遠くまで来た、と思った。どこからきたのかが分からないのは、それだけ遠くまで来たからなのだ。僕は長い息を吐く。

「どぉした」

「なんもない」

 あとは雨音を聞いていた。

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