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「ふぅ……」

 最後の客を見送り、ほっと息をつく頃には、時刻はすでに午後六時を回っていた。アイルランドの夏は日が長く、夜も十一時近くまで暗くはならない。しかし、いくら外が明るくとも、メアリーは完全にクタクタだった。

「お疲れ、メアリー。今日も人が多かったね」

「本当にね。ドアの前を掃除してくるわ」

 よっこらせと腰掛ける母を横目に、彼女は表へと出て思いっ切り伸びをする。ドアに掛かったプレートを外し、掃除を始めようとしたとき……。


「あれ、もう店じまいかな?」

 ……彼女は突如、見知らぬ青年に声を掛けられた。ぶかぶかのフードを被った、背の高い彼。キャラメル色のミディアムヘアが、緑色の瞳と合わさって実に美しい。

「ああ、残念だな。今日は久々にダブリンに来たのに。美味しいケーキにコーヒーを、と思ってね」

「あ、あのー……」

「これは僕の勘だけど、この店のデザートは絶対に美味しい。うん、間違いない。それなのに閉まっているなんて……。うーん、残念だ」

「えーっと、あのー……」

 青年は戸惑うメアリーにお構いなしに、アイルランド語でべらべらと話し始める。一般的には、アイルランド語は学校で勉強したっきりで、日常会話は専ら英語だ。いきなりまくし立てられたら、全くと言っていいほど聞き取れない。

「ああ、もう僕はクタクタだよ。ここで休むしかないんだ。お願いだから、少し入れてくれ。もちろん、お金は払うから」

「す、すみません! 私、アイルランド語は分からないんです!」

 ――恥ずかしがりながらも、メアリーは思い切り頭を下げる。それを見た青年は一瞬ポカンとしたが、すぐに愉快そうにケラケラと笑い始めた。

「あははは、ごめんごめん。英語も喋れるから、問題ないよ」

 どうやら、彼はメアリーをからかっていたようだ。しかし、彼のさっぱりとした口調からは、純粋な遊び心のみが伝わってきた。

「君の店、もう閉まっちゃったのかな? ちょっと一息つきたいんだけど」

「すみません、もうケーキが残っていなくて……。アップルパイならあるんですけど……」

「アップルパイか、美味しそうだね。ぜひ、食べてみたいな」

 懇願するような彼の瞳を見て、メアリーはどうしたものかと後ろを振り返った。二人のやり取りを見ていた母に向かって、ひっそりとアイコンタクトを送る。

「いいよ、メアリー。せっかくの客だ、入れてやりな」

 母は再びよっこらせと立ち上がると、父のいるキッチンの方へと歩いて行った。ドリンクの準備と、パイの温め直しをしてくれるらしい。

「わぁ、ありがとう。嬉しいな」

 優しく目を細めて、ニコニコと笑う彼。端整な顔立ちが緩むのを見て、メアリーは思わずドキッとしてしまった。今までにないぐらいに美しく、それでいて神秘的だったのだ。

「僕、窓際の席に座ってもいいかな?」

「あっ、はい! どうぞ!」

 これは、一目惚れと言うのだろうか。彼の背中を見ながら、メアリーは思わずそんなことを考えてしまう。途端に恥ずかしくなってしまい、慌てて無茶な幻想を振り払った。

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