第3話 ガン

 チラシに書かれた住所を頼りに進むと、汚物と吐瀉物としゃぶつとアルコールの入り混じった腐臭を放つ薄暗い路地裏に辿り着いた。

 どんな戦場でも生きのびれるようにと幼い頃から散々父からしごかれてきたが、最近の堕落だらくした日々に体はなまっており、物乞いや暴漢ぼうかんに襲われたらひとたまりもない。

 けれど、怪しさしかないこの闇の中へ一歩踏み入れようと決心したのは、他ならぬ写真の天使に会いたい一心であった。

 偽物かもしれない。詐欺かもしれない。けれどあの写真を見て以来、記憶に灼きつき、胸のざわめきが止まらず、いても立ってもいられなかった。

 ――この目で見れるならどうなってもいい

 こんな想いを抱いたことは今までなかった。祖先たちも同じような気持ちに駆られ生きてきたのかと益体やくたいもないことを考えながら、路地裏を警戒しながら歩いていくと、やがて目的地についた。

 老朽化した建物が並ぶ中、目当ての建物もまたさびれており、壁面はツタが生い茂っていた。違いがあるとすれば玄関には『Here be dragons』と書かれた看板が掲げられていたことだ。

 危険地域を意味する言い回しだ。地図上の空白地域を示すこともある。

 未知の大陸――テラ・アウストラリス南方の地を残し、人類未踏じんるいみとうの地はもはやないと言われて久しいのに、まだ幻想はここに残されている、と主張しているようであった。

 建物の様子をうかがっていると店の扉が開き、とっさに隣接する路地に隠れた。出てきた二人の男たちはこちらに気づいた様子はない。壮年の紳士服を着た細身の男性と横柄おうへいな態度の黒づくめの黒髪長髪の若い男だ。会話は聞き取れないが、黒づくめの男は険しい顔をしており、対する壮年の男はしきりに頭をペコペコ下げていた。やがて若い男は、身をひるがえし僕が来た道を大股で歩いて行き姿を消した。彼が戻ってこないか確認して、例の建物へと視線を戻した。

 紳士は男の行方ゆくえ眉間みけんにしわを寄せ見つめていたが、こちらの存在に気づくと、すぐに柔和にゅうわな笑みを浮かべ会釈えしゃくした。

「『世界のはざま』にようこそいらっしゃいました。神秘、幻想なんでも取り揃えております。どのようなご要望でしょうか」

「この写真の天使に会いたい。本当に存在するのか?」

「ええ、もちろんです。百聞は一見にしかず。どうぞその目でご確認ください。こちらでございます」



 店内は細かいほこりが浮遊ふゆうしており、呼吸をするたびに体の中が茶色に染まっていくようだった。廊下の両側は空っぽの本棚がならび、一人がようやく通れる広さしかない。

 何が起きても対応ができるよう警戒を続けながら、前を歩く紳士について歩いていると、ふわりと上から何かが降ってきた。手に取ると茶褐色の綿羽めんうだ。同じような羽が廊下の奥に進むにつれだんだんと増えていく。

 ――この先に、いる。

 はやる気持ちをおさえ、うす暗い廊下の先の扉を越えると、応接間のような広い部屋の中心で、三脚椅子にそれは座っていた。

 金色に輝く繊細な髪。

 ふわりと薔薇が舞い落ちたような赤いほっぺ。

 半分開かれたまぶたからのぞく、金色の瞳。

 そして、腕の先から生える猛禽類を思わせる茶褐色の大きな羽。

 ゾクリと背筋が粟立あわだつ。まさに天上から降り立った天使だった。

「本物……なのか?」

 ごくりと生唾なまつばを飲みこみ、ようやく絞りだせた言葉に、紳士は満足げな顔をした。

「ええ、まさしく天使でございます。とある探検家が神秘の大陸、テラ・アウストラリスの旅の途中で出会い、この国に連れ帰ったのです」

「そんな話、聞いたことがない」

「見せ物にされてしまうのを恐れたのです。天使がいると聞けば、人々の血を騒がせ一目見ようと、国中で大騒ぎが起こるでしょう。それに天使となれば教会も黙ってはおりません。天使を独占しようと奪い去るかもしれません」

「それがどうして今、この店にいるんだ?」

「先日、その探検家が亡くなってしまったのです。彼と友人であった私は死の床に呼ばれ、この天使を相応ふさわしい人物に託してくれと言付かりました」

「でもなぜ僕なんだ? 確かに金はあるが、それだけだ」

「私には分かりません。なぜなら選んだのは私ではなく、この天使なのですから」

 紳士は視線を天使にうつす。彼、もしくは彼女はまぶたをうっすら開けて夢うつつだ。表情から何を考えているのかうかがい知れない。

「……さっき出ていったあの男は?」

 こちらの質問に紳士の顔にさっと影がさした。けれどそれも一瞬。すぐに顔をつくろい、穏やかな笑みを浮かべた。

「その探検家の兄弟だとおっしゃっていました。天使の所有権を主張し、すぐさま譲りわたせと。今日はなんとか帰ってもらえましたが、あの様子では諦めることはないでしょう」

 脳裏に浮かぶのは、いつか父と見た元王妃の処刑の光景。

 天使を塗りつぶしたあの日から、何かが狂ってしまった。

 けれど今、その天使が目の前にいた。

 ――何かが変わる。

 そんな予感に打ち震えた。

 小切手にサインするのに迷いはなかった。

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