毒ガス戦の後始末
「大勝利ね」
想像以上の戦果に沙織は驚く。
既に戦場には除染部隊、水や石灰を散布するだけだが、塩素ガスは水に溶けるし、硫黄ガスは石灰で中和されるので、専用の散布機械を装備した部隊を展開して毒ガスを除去している。
こうした処置への対処も毒ガス戦の基本だった。
毒ガスを使用する可能性、使用される可能性を考えて用意していた。
流石に、毒に対する偏見や忌避感が強かったため、他にも準備する必要のある装備が多かったので後回しになり、全軍への導入が遅れた。
それでも一戦場を除染する
「しかし、負担が増えるよ」
「どうして? 追撃は大変でしょうけどロシア軍は瓦解しているから追撃なんて簡単でしょう」
「今回の戦いで出た捕虜を、負傷した捕虜を後方へ移送するのが大変なんだよ」
鯉之助の指し示す先には前の戦友の肩に両手を乗せて連なり歩くロシア軍捕虜の姿があった。
全員、毒ガス攻撃で両目を失明しており、誘導するために前の捕虜の肩に手を乗せ、動きに合わせて進むように命じていた。
第一次大戦の記録映像で似たような移動が行われていたのを思い出してやらせている。
それでも目の見えない彼らを移動させるのは大変だ。
毒ガスの除染のために衣服や身体を丸洗いした結果、彼らは冬を間近にした寒い気候に震えている。
衣服を集めるだけでも大変だ。
彼らの治療だけでも、専従する軍医や看護兵を手配するので大変になる。
そもそも野戦病院ではろくな設備がない。
設備の整った日本国内に送って治療をすることになるだろう。
だが軍の病院だけでは足りない。
民間や赤十字にも協力を依頼する事になるが、二一世紀の日本と違い明治時代の日本には三万五千人程度しかいない。
海龍商会の援助はあって多少はマシだが、2009年の二九万人にくらべて圧倒的に少ない。
人口が六〇〇〇万人と少ないとはいえ、医師不足は深刻だ。
そこへロシアの負傷兵が追加、専門医が少ない眼科と呼吸器系を痛めている。
治療機材も不足しているので厄介だ。
「そもそも捕虜が多すぎる」
E作戦、前回の錦州への上陸作戦と営口攻防戦の時は二十万もの捕虜が出た。
それだけの捕虜の面倒も大変なのに、今回の戦いでは毒ガスによる治療も必要がある。
喘息の治療が応用出来るとはいえ、人数が多い。
味方の部隊にもロシア軍によるガス攻撃で負傷者が多く、医療資源を奪われている。
「全く、困難な事になったよ」
自分で使って損害を出してなんだが、負傷者の治療に労力を取られる。
催涙ガス、唐辛子からカプサイシンを取りだしてばらまく程度にすべきだったか。
いや、人死にが内のを良い事にロシア軍が図に乗る可能性が高い。
致死性のガスを使わない方がリスクが高い。
力こそ全てと考えるロシア人には直接被害を出す方法でないと理解して貰えないだろう。
悩む鯉之助の気を紛らわせようと沙織が尋ねる。
「それで、このあとはどうするの?」
「進撃は再開だ。今の部隊で進む。後方の部隊にガスマスクや除染装備が補充されたら交代して進撃を続行だ。ウスリー軍も前進させ、ハルピンに集結。ここで決戦を挑む。けど」
「けど?」
「その前に何とかもう一度講和に持ち込みたい」
「講和交渉中に進撃してきたようなロシアよ」
「それでも交戦相手だ。永遠に戦争を続けある訳にはいかない。戦争を終結させないと日本はお終いだ」
日本が優勢に戦いを進めているが、長期戦になったため、日本政府には最早戦費がない。
海外からの調達も限界だ。
借金が増えすぎて、利払いだけで戦後の政府の財政負担が大きくなりすぎる。
外貨の流出も大きい。
制海権を確保したお陰で、海外との貿易が順調になったため貿易決算の為に大量の外貨、金貨が必要、いや輸入の為の流出が続いており、日本の金準備が、金本位を維持出来なくなりつつある。
このまま戦い続ければ、勝ち星を挙げたまま、日本は国家が破綻しかねない。
「向こうから接触してきてくれると良いんだけど」
「ウィッテさんあたりが出てきてくれるかしら」
「だと良いんだけど、この前の交渉で失敗して立場がないからね。それに極東総督のアレクセーエフがいて邪魔をするだろうからね」
極東総督は極東地域における外交も一部司っており、日本との外交交渉も担っている。
「まあ、前回、今回と大敗北を招いたんだ。近日中に失脚するだろうね。問題は誰が後任になるかだね」
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