毒ガスへの忌避
「陛下、我がロシア軍は日本軍を撃退し勝利しました」
サンクトペテロブルクの宮殿でアレクセーエフは自信満々に長春での戦いの結果を皇帝ニコライ二世に報告した。
「憎き日本軍に痛打を浴びせ、再び、ロシア軍に勝利をもたらしたこと、朕は嬉しく思うぞ」
「毒を使って勝利したと言えるか!」
だが、ニコライ大公が猛烈に反発する。
「戦いで毒を使うなど文明国にあるまじき行為だ」
「東洋の猿共を駆除するために必要な処置でした」
ニコライ大公の批判にアレクセーエフは馬耳東風といった態で聞き流し反論する。
「我が軍の将兵の損害を減らすためにも必要な作戦行動です。塹壕に隠れて攻撃している敵兵を殺すには毒ガスは有効です。各国でも使われています」
植民地のゲリラ兵を掃討するために毒ガスが使われる事は多々あった。
そして、塹壕に有効なのも事実だ。
砲弾が届かない塹壕の底や掩体壕にも僅かな隙間さえあれば毒ガスが侵入して、敵兵を殺す。
特に硫化水素は、空気より重く、地面を這うように進む上、穴に入りやすく塹壕や掩体壕へ入りやすい。
塹壕戦への対処には有効な毒ガスだった。
「ハーグ条約で毒ガスの使用は禁止されているぞ。国際法を破るつもりか」
「砲弾に詰め込み投射するのを禁止しているだけです。ボンベから放出する事はなんら抵触しません」
ロシアも加盟する1899年のハーグ条約で毒ガスを充填した飛翔体、砲弾の発射を禁止する条項がある。
だが、毒ガスの使用を禁止する条文はない。
ボンベから放出する事は国際法上ギリギリ適用外の範囲だ。
「損な詭弁が通用すると思うのか! 毒ガスの使用自体が問題だ!」
国際法では散布方法を制限しているが、それ以前に毒ガスの使用を忌避している。
特に大規模会戦で使用するなど聞いたことがない。
これまで戦場で大量に毒ガスを用意する事が出来なかった為だが、科学の発展により可能になってしまった。
国際法が古くなった事が原因だが、誰もこのような使い方、戦い方を想像していなかった。
むしろ忌避している。
それだけに各国の反発がより大きくなることをニコライ大公は懸念していた。
「陛下! これは重大な国際問題です! 陛下が平和の為に提言し開催された万国平和会議において採択された国際法を、ロシアが破ることになったのですぞ」
1899年の万国平和会議、のちのハーグ条約はニコライ二世の提唱で始まった。
その提唱者が自ら毒ガスを使うなど国際的な信用度が、タダでさえ低くなっているロシアの信用が更に落ちてしまう。
「今すぐアレクセーエフを解任し、直ちに日本との講和を結ぶべきだ! これ以上の戦闘行為はロシアに対する恥の上塗りだ」
「だが、日本との戦争には勝たなければならない。日本の卑怯な策謀により多くのロシア軍将兵を失った事は悲しくここで勝たなければ、ロシアの面目が丸つぶれだ」
「勝敗は時の運ど申します。確かに一時の敗北で口さがない者から嘲笑を受けるでしょう。しかし卑怯な振る舞いを行えば永久に軽蔑されます。ロシアの名誉の為にも毒ガスの使用は今すぐ止め、謝罪するべきです!」
ニコライ大公は率直に意見を述べて諫めようとする。
しかしあまりに直接的で、ニコライ二世を苛立たせる。
アレクセーエフへも批判を述べるが、アレクセーエフ自身は自信の作戦が、毒ガス勝利をもたらしたという自負から、ニコライ大公の批判など何処吹く風、口先だけの意味のない批判といった感じだ。
だが、それも束の間だった。
伝令が、着信したばかりの電報を持って駆け込んで来た。
「日本軍が攻撃を仕掛けて参りました。ロシア満州軍は敗退しています」
「どういうことだ。日本軍は敗退したのではないのか。攻撃に出て来ても我が軍の防備なら逆襲出来るはずだ」
突然の敗報にアレクセーエフは驚いて尋ね返した。
攻撃は上手くいっていないが、ロシア軍は防御力、特に陣地を使った防御は得意であり、日本軍の攻撃によく耐えている。
敗退したのは日本軍が防御陣地の外側から後ろに回り込む事が多いからだ。
その程度なら増援や毒ガスで十分に対処出来る。
だが、日本軍の使った作戦は予想外のものだった。
「日本軍が飛行船を使い、我がロシア軍陣地へ毒ガスを散布したそうです」
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