毒ガス戦

「反撃に出るですと」


 長春まで戻ってきたクロパトキンはリネウィッチ大将に言われて驚き呆れた。

 自分の第一軍は遅滞戦闘でボロボロだし、悔しいことだが日本軍の総兵力に比べてロシア軍の兵力は劣っている。

 下手に進撃をすれば、包囲され、殲滅させられてしまう。


「遅滞戦闘を続け、ハルピンを拠点にヨーロッパからの増援を待つべきでしょう」


「これ以上やってくる見込みはない」


 リネウィッチ大将の言葉は事実だったしクロパトキンも分かっている。

 だが、これ以上、兵を損なうことなく、戦争を終わらせる事を考えるなら、後退して戦闘を避けるしか方法はない。


「我々の兵力だけで対処する」


「到底撃破出来るとは思えませんが」


「大丈夫だ。第六六六衛生大隊を使う」


「第六六六衛生大隊?」


 聞き慣れない部隊名にクロパトキンは疑問を抱いた。

 大隊程度で圧倒的な日本軍を撃破出来るとは思えない。しかも衛生部隊、医療部隊だ。

 彼らに戦う力があるとは思えない。

 もし、あるとしたら禄でもないやり方だろう。


「そのような怪しげな部隊を使うべきではないでしょう」


「ロシアは勝利を欲している。ありとあらゆる手段で勝利を収めなければならないのだ。故に反撃する」


 リネウィッチ大将の決意は固く、作戦は強行された。

 命令を受けた第六六六衛生大隊は装備していた大量のボンベを持って前線に向かう。

 そして、日本軍へ風がながれているのを確認するとボンベのバルブを解放し、ガスを放出した。

 卵の腐ったような匂いに将兵達は顔をしかめたが、大半は日本の第四軍へ流れていった。


「何だこれは」


 突如、臭い匂いが流れ込んで来た日本軍は戸惑った。

 徐々にガスの濃度が濃くなり耐えられなくなる。


「連中め、俺たちを臭いにおいで追い返すつもりか。鼻が慣れたのか多少は慣れたが……」


 苛立ち混じりに下士官が言った直後、彼は倒れた。

 周りにいた兵士達も続々と倒れていく。


「おい! 大丈夫か!」


 仲間が倒れたのを見て、近くにいた兵士が駆け寄ったが彼も倒れた。


「拙い! これは毒だ! 毒のガスだ!」


 ロシア軍が流したのは硫化水素だった。

 日本軍が陣地に籠もり激しくて移行することに手こずったロシア軍上層部は、塹壕に隠れる日本軍を殺傷するべく方法を考えた。

 そこで考え出されたのが毒ガスだ。

 毒ガスを陣地に流し込み殺そうと考えていたのだ。

 ガスとして選ばれたのは硫化水素。

 空気より重く地面に沿って広がるため、地面の下に掘られた塹壕に入り込みやすいからだ。

 製造も簡単で製鉄所でコークスを生産する時に出てくる硫黄を回収し、それを硫化水素にしてボンベに詰めればよい。

 部隊名と作戦を秘匿するため、毒を使用するイメージが悪いため毒ガス部隊を第六六六衛生大隊と呼称し、投入した。

 専用の装備がボンベ以外なく、ガスを放出するだけで敵陣地に送り込むのは風次第だった。

 だが、風向きが丁度良く日本軍の方向へ流れたために上手くいった。

 日本軍にガスが届き、高濃度の硫化水素を吸い込んだ日本軍の兵士はバタバタと倒れていった。


「日本軍が倒れているぞ! 攻撃再開だ!」


 日本軍が倒れているのを見たリネウィッチ大将は攻撃命令を下した。

 前線の兵士がバタバタと倒れた後の日本軍第四軍はなすすべもなく敗退。

 猪突猛進の野津大将も流石に撤退命令を出すしかなかった。

 幸いにも、ロシア軍は作戦の成功予想を小さく見積もっており、追撃は最小限で収まった。

 更に攻撃を続けた、部隊は硫化水素が残る箇所に入ってしまい自分たちが硫化水素の餌食になって仕舞った。

 さらに、山岳部にいた黒木率いる第一軍は硫化水素が重く高所まで上らなかったため健在で、平野部を南下すると、第一軍に対して側面を晒すことを恐れたロシア軍は進撃を途中で中断することになった。

 毒ガスの使用は初めてではないがこれほどまで大規模に、しかも成功を、それもロシア軍が考えていた以上に成果を挙げた例は他になった。

 結果的に日本軍は再び敗北を喫した。

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