ガポンの躊躇
戦争中協力しない人間は味方ではなく敵とされてしまう。
ロシアだけでなく、戦争中の国では、そう見られてしまう。
それにロシアは強権国家で、下手に労働運動をしたら武力を以て制圧される。
ナポレオン戦争の香りが未だ残る1848年、ヨーロッパ各所で労働者のデモや活動が盛んになり革命前夜の様相を呈した事があった。
その時、各国に先んじて鎮圧に乗り出したのがロシアだった。
軍隊まで動員したロシアの制圧行動は徹底しており、デモは鎮圧された。
ロシアの行動に各国は活動が収まった事に安堵しながらも、死傷者を多数出したロシアの行動に眉をひそめた。
感謝と侮蔑を込めて、秩序を人々の血を流してまで維持したロシアを自他共に<ヨーロッパの憲兵>と呼んだ。
ストライキを起こせば、同じ事を、軍隊を使って鎮圧しかねない。いや自国だからこそやりかねない。
首都での騒乱を許すとは思えない。
「最近は暴動や動乱も多い」
ロシア最下層の困窮は酷く、ヨーロッパロシアでは軍隊の三分の一が、これら暴動の鎮圧任務に使われている有様だ。
他にもポーランドやフィンランドなどで反乱が起きそうだと聞いている。
そのようなときに新たな火種となるストライキを起こせば、軍隊を動員されて鎮圧されてしまう。労働組合の人々が、死傷するのではないかとガポンは恐れた。
「ストライキの後、冬宮へ行き皇帝に請願するんだ」
「ツァーリに要求を突き付けるのか!」
皇帝専制のロシアで貴族でもない下層の人間が皇帝に要求するなど不敬だ。
反乱以上に不遜な行為であり反逆だ。
日本でも足尾銅山の鉱毒被害を助けて貰うため田中正造が天皇に直訴しようとした。警備の警官に取り押さえられ、失敗したが、世間を騒がせ新聞に号外が出たほどだ。
ロシアだとそれ以上の不貞な行為とされても不思議はない。
なのでガボンは狼狽えた。
「請願だ。お願いしに行くのだ」
「テロと思われないか」
ここ最近、革命のためといってナロードニキ――農村からロシアを変えようとする農村共同体主義者による暗殺事件が頻繁に起きている。
遡れば1881年には当時皇帝であったアレクサンドル二世――ニコライ二世の祖父はナロードニキによって暗殺されている。
この後、ナロードニキはロシア官憲の捜査によって一時壊滅するが、徐々に勢力を盛り返し最近、社会革命党が結成された。
彼らが持つ「戦闘組織」は1902年に内務大臣のシピャーギン、1904年にはその後任のプレーヴェを暗殺している。
今回の請願が、ロシア正教徒の静かな願いが、ナロードニキと同じとみられ処罰されることをガポンは恐れていた。
「大丈夫だ。ロシア国民のツァーリはきっと願いを聞いてくれる。皆の神である皇帝は必ず聞いてくれるハズだ」
「た、たしかに」
遅れているロシアには王権神授説が全国民に根強く残っている。
皇帝は神から献納を与えられており自分たちを救ってくれる存在だと考えていた。
ナロードニキが農村からの改革に失敗したのも、農民達がロシア皇帝を圧制者ではなく、救世主、神の代理人と考え敵対することを望まなかったからだ。
むしろ、やって来たナロードニキ達をロシア語をしゃべれない魔女として農村の自警団が魔女狩りをしたほどだ。
ナロードニキ達の多くは中産階級で、ロシア人でありながらフランス語やドイツ語で会話をするため、ロシア語を話せない人物も多かった。
そのため農民の皇帝信仰をぶち壊すために、ただの人間である事を証明するために皇帝暗殺という手段を用いた。テロ活動が、ときに皇帝暗殺さえ行ったのもこのためだ。
結局、ナロードニキの計画は失敗し、ナロードニキは皇帝に、農民の守護者である皇帝を殺すとする悪魔と見なされて仕舞った。
ロシアにおいて皇帝崇拝がロシア人民の中に強く根付いている事を証明してしまった。
そのため皇帝に窮状を伝えればどうにかなると考えるロシア人は多く、ガポンも例外ではなかった。
皇帝にお願いすれば何とかなる、戦争は終わると考えていた。
「だが全員で行く必要はないだろう。主要な代表者数十人と共に私が書いた請願書を冬宮へ提出しよう」
「それが良いだろう」
ストライキの参加者全員で押しかけても、混乱するだけだ。
そのまま暴動になったら目も当てられない。
「だが、このような行為は前代未聞だ。当局も黙っていないだろう」
「怖いのかいガポン」
「ああ、怖いね」
幕末と維新を駆け抜けた琢磨にとって強大な幕府を倒したという自負心があり、人々の為に身を捨てる覚悟は出来ていた。
だがガポンはロシア人であり、ロシアの国と人々の為に行いたいという思いが強かった。
(ああ、黒船が来たときのようなものか)
ペリーが来航し、国を守ろうと土佐の下級武士が、さげすまれてきた自分達が天下、日本の為に、崩れそうな幕府を持たせようと奔走した時のような思いをガポンは思っているのだろう。
なんとか外国を打ち払おうと無能な幕府要人を超えて自分達が将軍、天皇を守り、日本を守ろうと思っていた時と同じ気持ちなのだろう。
半平太先生のように、ガポンは国やお家に尽くそうとしているのだ。
無用な荒波はたてたくないという思いが強いのだ。
「できる限り、穏便に済むよう。上手く事が運ぶように手はずを整える」
「あてはあるのか?」
「ある」
ガポンは力強く言うと、直ちに行動に入った。
向かったのは、サンクトペテロブルクの郊外。
会う人物はオフラーナ――ロシア帝国内務省警察部警備局、その幹部であるズバトフだった。
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